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第二十八話 戦わない男の休息

五月三日。


ゴールデンウィークに入るまで、蒼真は何度か現場へ出ていた。


ノストスに乗った日もある。


乗らずに地上で作業を見ていた日もある。


警戒のために第三中隊が同行した現場もあったが、結局、あれからモンスターとは一度も遭遇していない。


設備が故障したことはあった。作業開始が遅れたことも、図面と現地が一致せず工程を変更したこともある。小さな問題なら、むしろ何もない日の方が少ない。


けれど、敵性反応が出ることはなかった。


出動するたびに、何かと戦うわけではない。


考えてみれば当たり前なのだが、四月十四日の初実戦があまりに強く残っていたせいで、蒼真の中では現場と戦闘が少し近づきすぎていたらしい。


昨日、休暇前最後の仕事を終えて基地へ戻った時、蒼真はノストスを見上げながら呟いていた。


「毎回、イレギュラーが起きるわけじゃないんだな」


すぐ近くで点検記録を見ていた牧野が顔を上げた。


「何だ。毎回起きてほしかったのか?」


「嫌ですよ」


「なら、喜べ」


「喜んでます」


「そういう顔には見えない」


「最近よく言われます」


牧野は鼻で笑って、ノストスの脚部を軽く叩いた。


「こいつも、何もせず帰ってくる方がいいんだよ。動かしただけなら点検も楽だ」


「整備士として、それでいいんですか」


「壊れた機体を直すのが好きなのと、壊して帰ってこいは別だ」


「前に、壊してもいいって言いましたよね」


「あれは帰ってこいって意味だ」


「かなり省略しましたね」


「通じただろ」


「一応」


牧野は端末へ視線を戻した。


「明日から休みだろ」


「はい」


「家族旅行?」


「水族館へ行って、一泊して帰ります」


「いいじゃないか。たまには仕事を忘れてこい」


「そのつもりです」


「端末を見るなよ」


「緊急連絡が入ったら見ます」


「そういう意味じゃない」


蒼真にはよく分からなかったが、とりあえず頷いた。


牧野は少し疑わしそうに見ていた。


結果として。


翌朝の蒼真には、仕事のことを思い出す余裕すらなかった。



午前五時五十八分。


「お父さん!」


身体を揺すられた。


蒼真が目を開けると、結衣の顔がすぐ近くにあった。


「起きて!」


「……起きてる」


「今起きたんでしょ」


「起きたから起きてる」


「そういうのいいから。もう六時!」


「まだ二分ある」


「そこ大事!?」


大事ではない。


蒼真は布団の中で身体を起こした。


美咲はもう起きているらしく、隣の布団は空だった。


問題は反対側だった。


蒼真の腹の上で、昴が寝ている。


昨夜は確かに自分の布団へ寝かせたはずなのだが、いつ移動してきたのかは分からない。蒼真の寝間着を片手で握りしめ、頬を腹に押しつけたまま気持ちよさそうに眠っていた。


「昴は?」


結衣が聞く。


「見れば分かるでしょ」


「起こさないの?」


「どうやって?」


「普通に」


蒼真は昴を見た。


旅行を楽しみにしていたのは昴も同じである。


昨日から何度も「おおきい、おふろ」「おさかな」「いるか」と言っていた。


それなのに本人は熟睡している。


「昴」


肩へ触れる。


反応なし。


「昴。水族館行くよ」


「……ん」


「イルカいるよ」


「……いるか」


目は開かない。


「大きいお風呂もあるよ」


「おふろ……」


「起きる?」


「ねる」


「寝るんだ」


結衣が笑った。


「置いてく?」


昴の目が開いた。


「いく!」


勢いよく起き上がろうとして、蒼真の顎へ頭が当たった。


鈍い音がした。


「痛っ」


「いく!」


「分かった。行くから。頭痛くない?」


「いたくない!」


痛いのは父親だけだった。


寝室の入口から美咲が顔を出した。


「何してるの?」


「起こしたら攻撃された」


「大げさ」


「顎に入った」


「昴、お父さんにごめんなさいは?」


昴は自分の頭を両手で触った後、蒼真の顎を撫でた。


「ごめんね」


「いいよ」


「いたい?」


「ちょっと」


昴は考えてから、蒼真の顎へ息を吹きかけた。


「なおった?」


「治った」


「早っ」


結衣が呆れた。


「お父さん、それで治るなら病院いらないじゃん」


「昴限定だから」


「私がやっても?」


「多分治らない」


「差別」


「年齢制限」


「何歳まで?」


「二歳」


「狭すぎ」


朝六時。


まだ家を出てもいない。


それなのに、もう騒がしい。


蒼真は少し笑いながら布団を出た。


今日から一泊二日。


仕事ではない。


ノストスにも乗らない。


敵性反応も、作業員の配置も、退避経路も考えなくていい。


家族四人で出かけて、遊んで、旅館へ泊まり、明日帰ってくる。


それだけの日だった。



予定では六時半出発だった。


実際に玄関を出たのは六時四十二分。


十二分の遅れ。


原因は複数あった。


結衣が持っていく服を朝になって変更した。


昴が紙のノストスも連れていくと言い出した。


美咲が忘れ物の確認をしている間に、蒼真が車へ積んだはずの鞄を一つ玄関へ戻していた。


「何で戻したの?」


美咲に聞かれた。


「昴のじゃないと思って」


「昴のだよ」


「名前がなかったから」


「昨日、一緒に準備したよね?」


「した」


「何で忘れるの?」


「分からない」


「仕事の機材だったら絶対忘れないくせに」


結衣が靴を履きながら笑った。


「お父さん、家だと性能落ちるよね」


「休みだから」


「そういう機能なの?」


「多分」


「便利だね」


「本人は不便だよ」


ようやく全員が車へ乗った。


昴の紙のノストスは、本人の強い希望によって後部座席の中央に座っている。


当然、シートベルトはできない。


昴は少し悩んだ末、自分と紙のノストスを一本のタオルで繋ごうとした。


「それ何してるの?」


蒼真が運転席から聞く。


「いっしょ」


「危ないから首には巻かないで」


「じゃあ、おなか」


「お腹もやめよう」


「じゃあ、どこ?」


「隣に置くだけでいいよ」


「おちる」


「落ちないよ」


「おちるよ」


何を根拠に断言しているのか分からない。


結局、結衣が紙のノストスを自分と昴の間へ挟み、倒れないよう支えることになった。


「何で私がノストス係なの」


「お姉ちゃんだから」


美咲が言う。


「それ便利な言葉だよね」


「私も昔、言われた」


「誰に?」


「おばあちゃん」


「遺伝じゃん」


蒼真が車を出す。


空は晴れていた。


連休初日の道路は、普段より明らかに車が多い。市街地を抜けるまでは何度か流れが滞ったものの、郊外へ出る頃には少しずつ速度が上がった。


後部座席では、出発直後まで騒いでいた昴がもう寝ている。


隣で結衣も窓へ頭を預け、目を閉じていた。


助手席の美咲まで静かになった。


蒼真だけが起きている。


「みんな寝た」


小さく言うと、美咲が目を閉じたまま答えた。


「運転手は寝ないでね」


「起きてたんだ」


「半分」


「いいな」


「交代する?」


「大丈夫」


「疲れたら言って」


「うん」


しばらくして、美咲も本当に眠った。


車内には小さく音楽が流れている。


後部座席から昴の寝息が聞こえる。


高速道路の向こうには、春の山並みが見えた。


蒼真はハンドルを握りながら、少しだけ不思議な気分になった。


ここ数週間、移動といえば仕事だった。


現地図を確認し、作業開始時刻を考え、何かあった場合の経路を頭へ入れる。


今日は目的地へ着けば、それでいい。


少しくらい遅れても。


誰も困らない。


そのことが、思っていた以上に楽だった。



水族館へ到着したのは午前九時過ぎだった。


開館直後だというのに、入口にはすでに長い列ができていた。


「人、多いね」


結衣が言った。


「連休だからね」


美咲が昴の帽子を直しながら答える。


昴は人の多さには興味がないらしい。


入口の壁に描かれた大きなイルカの絵を見つけた瞬間、美咲の手を振りほどいた。


「いるか!」


「昴!」


蒼真が腕を掴む。


昴の足が止まった。


「走らない」


「いるか!」


「いるね。でも、そっち入口じゃない」


「いるか!」


「絵だよ」


「いる!」


「いるけど」


「お父さん、もう負けてるじゃん」


結衣が笑っている。


「まだ始まってないよ」


「じゃあ頑張って」


何を頑張るのか。


入館して十分後。


蒼真は理解した。


昴を止めることである。


最初の大水槽では、魚を追って右から左へ走った。


「走らない!」


クラゲの展示では、暗い通路の柵をくぐろうとした。


「そこ入っちゃ駄目なところだよ!」


ペンギンの水槽では、一番前へ行こうとして濡れた床を駆けた。


「滑るから! ゆっくり!」


昴は聞いている。


聞いてはいるが、その瞬間だけだった。


興味の対象が変わると、父親の注意も一緒に消えるらしい。


「すごいね」


美咲が言う。


「何が?」


「ずっと喋ってる」


「喋らないと昴が消える」


「消えないよ」


「三秒目を離すと五メートル動く」


「大げさ」


その直後、昴が水槽の脇にある関係者用通路の扉へ向かった。


蒼真が追う。


「そこは入っちゃ駄目な所だよ!」


美咲が吹き出した。


「三秒で五メートル、本当だった」


「でしょ」


「お父さん!」


少し離れたところから結衣が呼ぶ。


振り向く。


「何?」


「こっち! ペンギン近い!」


「今行く」


「昴も!」


「連れていくよ」


昴を抱き上げて歩き始める。


昴は肩越しに関係者用扉を見ていた。


まだ諦めていない顔だった。


「駄目だよ」


「まだ、なにもしてない」


「しようとしてたでしょ」


「してない」


二歳児に予防的な注意を否定された。


蒼真は少し考えた。


「仕事の方が楽かもしれない」


隣を歩いていた美咲が、ぴたりと止まった。


「それは絶対に言っちゃ駄目」


「どうして?」


「そっちは命が危ないでしょうが!」


「こっちも昴が危ない」


「規模が違う!」


「自分にとっては同じくらい緊張してる」


「じゃあ今日は一日緊張してなさい」


「休暇なのに」


「父親に休暇はありません」


「聞いてない」


「今教えました」


前を歩いていた結衣が振り返る。


「お母さんにも休暇ないよ」


「そうだよ」


「じゃあ私だけ?」


「結衣も昴を見て」


「えー」


全員。


休暇ではないらしい。



昼前。


イルカショーの会場へ入った。


結衣が座席表を見て、前の方を指差す。


「空いてる!」


蒼真は、その席の前に大きく表示された注意書きを見た。


水がかかる場合があります。


「そこはやめた方がいい」


「何で?」


「濡れるから」


「それがいいんじゃん」


「着替えは?」


「あるよ」


「自分はない」


「お父さんは濡れなきゃいいじゃん」


「前に座ったら無理でしょ」


昴も前の座席を指差した。


「まえ!」


「ほら」


結衣が言う。


「昴も前がいいって」


「昴は何も分かってないよ」


「まえ!」


「水かかるよ」


「みず!」


むしろ喜んだ。


美咲はすでに前列へ向かっている。


「美咲?」


「せっかく来たんだから」


「濡れるよ」


「タオルあるよ」


「そういう問題?」


「蒼真」


「何?」


「諦めて」


仕事でも、ここまで早く判断を切り捨てられることは少ない。


蒼真は諦めた。


ショーが始まった。


最初の十分ほどは問題なかった。


昴は膝の上で大人しくしている。


イルカが水面から飛び出すたび、両手を上げて喜んでいた。


「とんだ!」


「飛んだね」


「また!」


「多分また飛ぶよ」


「とんで!」


イルカに直接要求している。


結衣も隣で笑っていた。


蒼真も、少し安心した。


ここなら昴が走らない。


座って見ていればいい。


やっと休める。


そう思った直後。


係員が前列へ向かって、水がかかる可能性をもう一度案内した。


大きなイルカが水槽の端へ近づいてくる。


蒼真は嫌な予感がした。


「これ、来るんじゃない?」


「来るね」


美咲が楽しそうに答えた。


「昴、こっち」


「いるか!」


「ちょっと待って」


イルカが身体を捻った。


尾びれが水面を叩く。


次の瞬間、水の壁が飛んできた。


蒼真は反射的に昴を抱え込み、自分の身体で覆った。


水が頭から背中までまともにかかった。


一瞬。


何も見えなかった。


周囲から歓声と笑い声が上がる。


蒼真がゆっくり顔を上げた。


髪から水が滴る。


腕の中にいた昴は、ほとんど濡れていなかった。


「……大丈夫?」


昴が蒼真を見る。


そして。


笑った。


「ぱぱ、びしょびしょ!」


「誰を守ったと思ってるの」


結衣が声を上げて笑っている。


美咲も口元を押さえていた。


「何で笑うの」


「だって……」


「自分だけ濡れてない?」


「私は少し」


「結衣は?」


「全然」


「何で?」


「お父さんが壁になったから」


「そういう役割じゃないよ」


昴が蒼真の濡れた髪へ手を伸ばした。


「もういっかい!」


「嫌だよ」


「もういっかい!」


「絶対嫌」


数分後。


もう一度、ほぼ同じ量の水を浴びた。


今度は結衣も濡れた。


「最悪!」


「前がいいって言ったの結衣でしょ」


「こんなに来ると思わなかった!」


「書いてあったよ」


「お父さんだって座ったじゃん!」


「自分は止めたよ」


「はいはい、二人とも」


美咲がタオルを渡してくる。


昴だけが大喜びだった。


「もういっかい!」


三人から同時に言われた。


「もう終わり!」



ショーを出た後、濡れた髪を乾かしながら休憩スペースへ向かっていた時だった。


「結衣?」


聞き覚えのない女性の声がした。


結衣が足を止める。


同じ年頃の少年と、その母親らしい女性がこちらを見ていた。


少年の顔を見た瞬間、結衣の表情が変わった。


「あ」


少年も止まった。


数秒。


二人は互いを指差した。


「何でいるの!?」


ほぼ同時だった。


「こっちの台詞だよ!」


「私、今日来るなんて言ってないんだけど!」


「俺だって言ってない!」


「じゃあ何でいるの!」


「水族館だからだろ!」


「意味分かんない!」


蒼真は二人を見比べた。


「仲いいね」


「良くない!」


また揃った。


「やっぱり仲いいね」


「お父さん!」


「違います!」


少年まで否定した。


美咲が小さく笑いながら蒼真の腕を引いた。


「結衣のお友達。平岡君」


「知ってる」


「顔は初めてでしょ」


「名前は聞いてたから」


結衣と何度かモンスターのことで言い争った少年。


平岡直哉。


父親をモンスターに殺された子。


結衣から話を聞いていた。


目の前にいる直哉は、蒼真が想像していたより普通の少年だった。


不機嫌そうに結衣を見ているが、本気で嫌っているようには見えない。


直哉の母親が頭を下げた。


「平岡美穂です。いつも直哉がお世話になってます」


「橘蒼真です。こちらこそ、結衣が」


「お世話してない!」


「されてません!」


また二人が言う。


美穂が苦笑した。


「聞いていた通りね」


「そちらも?」


美咲が聞く。


「ええ。結衣ちゃんの名前、よく出ます」


「うちも平岡君の名前はよく聞きます」


「ちょっと、お母さん!」


「何を話してるんですか!」


蒼真は思った。


やっぱり仲がいい。


言うとまた怒られそうなので、今度は黙っておいた。


昴が蒼真の脚の陰から直哉を見ている。


直哉も気づいた。


「弟?」


「昴」


結衣が答える。


「二歳」


「ちっさ」


昴はその言葉に反応した。


「ちっさくない!」


「喋れるんだ」


「しゃべる!」


「何歳?」


「にさい!」


「やっぱ小さいじゃん」


「ちっさくない!」


新しい戦いが始まりそうだった。


結衣が昴を抱き上げる。


「平岡、二歳児と喧嘩しないで」


「俺、何もしてないだろ!」


「昴が怒ってるじゃん」


「そっちの弟が勝手に怒ったんだよ!」


美穂がため息をついた。


「ごめんなさいね」


「いつもこんな感じなので」


美咲が笑った。


どうやら大人同士は、すでに何かを理解し始めているらしい。


蒼真にはまだ分からなかった。



せっかくだからと、少しだけ一緒に休憩することになった。


子供たちは飲み物を買い、大人たちはコーヒーを頼んだ。


昴はジュースの紙パックを両手で持っている。


結衣と直哉は向かいの席。


座った直後から、展示の順番で揉めていた。


「普通、深海魚から行くでしょ」


「何で?」


「混むから」


「私は先にアザラシ見たい」


「後でも同じだろ」


「平岡には分かんない」


「何がだよ」


会話の内容は平和だった。


蒼真は少し安心した。


結衣から直哉の父親の話を聞いた時、もっと難しい少年を想像していた。


けれど、当然なのかもしれない。


父親を失ったからといって、一日中そのことだけを考えているわけではない。


笑う。


喧嘩する。


旅行にも来る。


母親と水族館を歩く。


そういう普通の時間もある。


それでも。


なくならないものがあるだけだ。


「橘さんって」


不意に直哉が言った。


「はい」


「ワーカーなんですよね」


結衣が少しだけ黙った。


美咲も何も言わない。


「一応」


蒼真が答える。


「一応って何ですか」


「本職は管理局の現場監督だから」


「でも、乗るんですよね?」


「必要な時は」


直哉は少し迷ってから、真っ直ぐ蒼真を見た。


「俺もワーカーになります」


結衣が口を開きかけた。


しかし、美穂が何も言わないのを見て、黙った。


蒼真は直哉の顔を見る。


なぜなりたいのか。


聞かなくても、ある程度は分かっていた。


父親を殺したものと戦いたい。


きっと、そこから始まっている。


それを間違っているとは言えなかった。


正しいとも言えない。


蒼真自身。


ワーカーになるつもりで、今の仕事へ入ったわけではない。


「そうなんだ」


それだけ答えた。


直哉が少し眉を寄せる。


「止めないんですか」


「自分が?」


「はい」


「どうして?」


「危ない仕事だから」


「危ないよ」


「じゃあ」


「でも、自分が決めることじゃないから」


直哉は意外そうな顔をした。


「ただ」


蒼真は続ける。


「なりたいなら、まず適性試験だね」


「適性試験?」


「うん」


「どんなことするんですか?」


「いろいろ」


「体力とか?」


「それも見るけど」


蒼真は少し考えた。


自分が受けた試験。


身体検査。


反応。


空間認識。


判断。


細かな動作。


いくつもあった。


その中から、一番説明しやすいものを選ぶ。


「蝶々結び、できる?」


直哉が止まった。


「……は?」


「蝶々結び」


「え?」


「紐の」


「いや、それは分かります」


「できる?」


「できますけど」


「なら一つは大丈夫」


直哉が目を白黒させている。


「待ってください」


「何?」


「ワーカーですよね?」


「そうだね」


「でかいロボットみたいなの動かすんですよね?」


「フレームワーカーね」


「それになる試験ですよね?」


「そう」


「蝶々結び?」


「うん」


「何で!?」


結衣が吹き出した。


美咲も笑っている。


美穂まで口元を押さえた。


「笑うなよ!」


直哉が赤くなる。


「だって平岡、すっごい真面目な顔で蝶々結びって」


「俺が言ったんじゃない!」


「お父さん、他には?」


「左右で違う作業を同時にやったり」


「それは分かる!」


直哉がすぐに食いついた。


「そういうのですよ! 俺が聞きたかったの!」


「蝶々結びも似たようなものだよ」


「全然違うでしょ!」


「細かい動作を正確にできるか見るから」


「それ、最初に言ってくださいよ!」


「聞かれなかったから」


「お父さん、そういうところだよ」


結衣が笑っている。


直哉は納得できない顔をしていた。


その顔を見ながら、蒼真も少し笑った。


話は、それで終わった。


父親のことを聞かなかった。


モンスターを憎んでいるのかとも聞かなかった。


今ここで答えを出す必要はないと思った。


直哉はまだ中学生だ。


ワーカーになれる年齢になるまで、時間がある。


その間に考えが変わるかもしれない。


変わらないかもしれない。


どちらでもいい。


その時。


自分で決めればいい。


「じゃあ、そろそろ行こうか」


美咲が立ち上がる。


「アザラシ!」


結衣も立った。


「深海魚が先だって!」


直哉も続く。


「別行動なんだから平岡は好きな方行けばいいでしょ!」


「あ」


直哉が止まった。


忘れていたらしい。


美穂が笑う。


「じゃあ、私たちは深海魚から行きましょう」


「……うん」


「残念?」


結衣が聞く。


「何でだよ!」


「声大きい」


「お前が聞いたんだろ!」


休憩スペースを出たところで、二家族は別れた。


昴が直哉へ手を振る。


「ちっさいの、ばいばい!」


「俺は小さくない!」


「それ、さっき昴が言ったやつ!」


結衣が笑った。


最後まで。


騒がしい。



午後三時過ぎ。


水族館を出た。


車へ戻る頃には昴が限界だった。


駐車場へ向かう途中から蒼真に抱かれたまま眠り、そのままチャイルドシートへ移しても起きなかった。


結衣もかなり疲れたらしく、後部座席へ座るなり大きく息を吐いた。


「足痛い」


「まだ旅館あるよ」


美咲が言う。


「旅館では歩かない」


「夕飯あるよ」


「それは行く」


「お風呂は?」


「行く」


「結構歩くね」


「必要な移動」


蒼真は運転席へ座った。


「楽しかった?」


結衣は窓の外を見ながら答えた。


「まあまあ」


「朝から楽しみにしてたのに」


「すごく楽しかったって言うと、お父さん喜ぶでしょ」


「喜ぶよ」


「じゃあ、楽しかった」


「ありがとう」


「素直だなあ」


美咲が笑った。


旅館までは車で四十分ほどだった。


海沿いの道を走る。


昴は寝ている。


結衣も十分ほどで眠った。


助手席の美咲だけは起きていた。


「疲れた?」


「少し」


「仕事とどっちが楽?」


蒼真は前を見る。


「それは答え方を間違えると怒られる質問?」


「学習したね」


「水族館」


「本当に?」


「仕事は今日みたいには笑わないから」


美咲は少し驚いたように蒼真を見た。


「珍しいこと言うね」


「そう?」


「うん」


「じゃあ訂正する」


「しなくていい」


しばらくして。


美咲が小さく笑った。


「私も楽しかった」


「まだ終わってないよ」


「分かってる」


旅館へ到着したのは午後四時前だった。


玄関前で荷物を下ろし、蒼真が昴を抱き上げる。


昴は起きない。


完全に電池が切れている。


美咲が受付をしている間、蒼真と結衣はロビーのソファで待った。


結衣が館内案内を眺める。


「お父さん、大浴場、すごい広いって」


「昴が喜ぶね」


「露天風呂もある」


「走らないようにしないと」


「また仕事増えたね」


「今日、自分は何をしに来たんだろう」


「家族旅行」


「休みに来たはずなんだけど」


「家族旅行」


答えが同じだった。


その時。


「え?」


聞き覚えのある声がした。


結衣がゆっくり顔を上げた。


蒼真も見る。


旅館の入口に。


平岡直哉が立っていた。


隣には美穂がいる。


四人とも。


しばらく黙った。


最初に口を開いたのは結衣だった。


「……何で?」


直哉も同じような顔をしている。


「いや、こっちが聞きたい」


美穂が予約票を確認する。


「ここよね?」


美咲も受付から戻ってきた。


平岡親子を見て、足を止めた。


「あら」


「あらじゃない!」


結衣が言う。


「何で旅館まで一緒なの!?」


「知らないよ!」


直哉が反論する。


「俺たち先に予約してたからな!」


「うちだって!」


「いつ!」


「知らない!」


「じゃあ言うなよ!」


蒼真は昴を抱いたまま二人を見る。


「本当に仲いいね」


「良くない!」


今日三回目。


「息ぴったり」


美咲が付け加えた。


「お母さんまで!」


美穂がとうとう笑い出した。


直哉は頭を抱えた。


「何なんだよ、今日……」


蒼真には分かる。


たまには。


こういうイレギュラーもある。


危険ではない。


だから。


たぶん。


いいイレギュラーだった。



夕食まで時間があったので、先に風呂へ入ることにした。


当然、昴は蒼真と男湯である。


脱衣所へ入った時点で、蒼真は嫌な予感がしていた。


昴はもう完全に復活している。


「おっきい、おふろ!」


「走らないよ」


「うん!」


返事だけはいい。


服を脱がせる。


蒼真が自分の服を脱いでいる間にも、昴は浴場へ続く扉へ向かっていく。


「待って」


「おふろ!」


「一人で入らない」


「ぱぱ、おそい!」


「今行くから」


仕事では。


装備を整える前に一人で現場へ入る人間がいたら、本気で怒ると思う。


二歳児には怒れない。


蒼真は急いで服を脱いだ。


浴場へ入る。


湯気の向こうに大きな内湯があり、その奥に露天風呂へ続く扉が見えた。


昴の目が輝いた。


「おっきい!」


「大きいね」


「はいる!」


「先に身体洗うよ」


「はいる!」


「洗ってから」


「はいりたい!」


「順番」


「いま!」


交渉。


決裂。


最終的に、蒼真が抱き上げて洗い場へ連れていった。


身体を洗い終えて内湯へ入ると、今度は浴槽の中を歩こうとする。


「ここ滑るから」


「あるく」


「歩かない」


「あるく!」


「危ないよ」


「だいじょうぶ!」


何を根拠に。


今日、何度目か分からない。


蒼真は昴の手を掴んだまま湯船へ浸かった。


ようやく止まった。


昴が気持ちよさそうに息を吐く。


「おっきいね」


「大きいね」


「おうちも、これにする?」


「無理だよ」


「なんで?」


「家が風呂になるから」


昴は少し考えた。


「いいよ」


「良くない」


露天風呂へ移動する時も。


「走らない」


露天風呂の縁へ手をかけた時も。


「そこ上らない」


置いてあった桶を持って歩き出した時も。


「それ持っていかない」


知らない人のところへ行こうとした時も。


「そっちは違うよ」


蒼真はずっと昴を追っていた。


湯船へ浸かっている時間より、立っている時間の方が長い。


温泉。


休息。


その言葉の意味について。


少し考え直した方がいいかもしれない。


「ぱぱ!」


「今度は何?」


「みて!」


昴が両手で小さな桶を頭へ乗せていた。


「おぼうし」


「それ帽子じゃないよ」


「ぼうし!」


近くにいた老人が笑った。


蒼真も。


諦めて笑った。


「似合ってるよ」


昴が満足そうに笑う。


危ない。


落ち着かない。


全然休めない。


けれど。


悪くはなかった。



夕食会場へ行くと。


当然のように平岡親子がいた。


「……またいる」


結衣が言った。


「同じ旅館なんだからいるだろ!」


直哉が答える。


「分かってるよ!」


二家族の席は離れていた。


それには結衣も直哉も、少し安心したようだった。


蒼真たちは家族四人で夕食を食べた。


昴は子供用の食事より、蒼真の茶碗蒸しを欲しがった。


結衣は刺身を美咲と交換していた。


「それ私の」


「これあげるから」


「それ嫌いなやつでしょ」


「交換」


「交換になってない」


「お父さん、食べる?」


「何?」


「これ」


「食べる」


「ほら解決」


「最初からお父さんにあげればいいじゃん」


そんな話をしながら食べた。


仕事の話は出なかった。


モンスターの話も。


ノストスの話も。


直哉がワーカーになりたいと言った話も。


水族館で何を見たか。


どの魚が変だったか。


明日はどこへ寄るか。


朝食は何時にするか。


結衣が撮った写真の中で、蒼真がイルカの水をまともに浴びた瞬間だけ妙に綺麗に撮れていること。


そんな話ばかりだった。


蒼真は、それでよかった。



夜。


子供たちが寝た後。


部屋の小さな窓際に、蒼真と美咲は並んで座っていた。


昼間より海は暗い。


遠くに船の灯りが見える。


布団では昴が大の字になって眠っていた。


旅館へ来ても、寝相は変わらない。


結衣もその隣で眠っている。


「疲れた」


蒼真が言った。


美咲が笑う。


「仕事の方が楽?」


「それはもう言わない」


「賢くなった」


「でも、昴を一日追いかけるのはかなり大変」


「いつも私もやってます」


「ありがとうございます」


「分かればよろしい」


少しだけ。


静かな時間が流れた。


やっと。


今日初めて。


本当に何もしなくていい時間だった。


「直哉君」


美咲が言った。


「うん」


「普通の子だったね」


「普通じゃないと思ってた?」


「結衣から話を聞いてたから。もっと、ずっと怒ってる子なのかなって」


「自分も少し思ってた」


「でも、よく笑うね」


「結衣とずっと喧嘩してたし」


「あれは喧嘩なのかな」


「本人たちはそう言ってた」


美咲が小さく笑った。


それから、少しだけ窓の外へ目を向けた。


「ワーカーになりたいって?」


「言ってた」


「止めなかったんだ」


「自分に止める理由がないから」


「お父さんのことがあるのに?」


蒼真は少し考えた。


「だからこそ、自分が何か言うのは違う気がした」


「そう」


美咲はそれ以上聞かなかった。


しばらくして。


「私ね」


「うん」


「あの子、いつか、お父さんを殺されたこと以外にも、ワーカーになりたい理由ができるといいな」


蒼真は美咲を見る。


美咲は海を見ていた。


「ならなくてもいいんだけどね」


「うん」


「別の仕事をしたくなってもいいし」


「そうだね」


「でも、もし本当にワーカーになるなら」


そこで美咲は言葉を止めた。


少し考えてから続ける。


「それだけが理由だと、ずっと苦しい気がする」


九条綾人のことを知っている美咲だから。


出てきた言葉なのかもしれない。


「そうだね」


蒼真はもう一度答えた。


今度は。


少しだけ意味が違った。


直哉には時間がある。


結衣にも。


自分にも。


今すぐ答えを決めなくてもいい。


「ところで」


美咲が言った。


「何?」


「蝶々結びって、本当に試験にあるの?」


「あるよ」


「本当に?」


「何で疑うの」


「あの流れで真顔で言うから、冗談なのかと思った」


「冗談じゃないよ」


「直哉君、すごい顔してたよ」


「適性試験って、本人が思ってるほど格好いいことばかりじゃないから」


「あなたもやった?」


「やった」


「できた?」


「できたよ」


「一回で?」


蒼真が黙る。


美咲が顔を向けた。


「何回?」


「二回」


「失敗してるじゃない」


「最初、左右を逆にした」


「何で?」


「同時に別のことやれって言われたから」


美咲が声を殺して笑い始めた。


「笑うところじゃないよ」


「ごめん。でも……それで適性あったの?」


「あったらしい」


「大丈夫なの、その試験」


「今のところ乗れてるから、大丈夫なんじゃない?」


「急に不安になった」


「何で今」


布団の方で昴が寝返りを打った。


二人とも声を止める。


昴は少し動いただけで、そのまま眠り続けた。


蒼真と美咲は顔を見合わせた。


また。


小さく笑う。


明日は。


家へ帰る。


連休が終われば。


また仕事が始まる。


現場へ出る。


何も起きない日もある。


何かが起きる日もある。


ノストスに乗ることも。


きっと。


またある。


でも。


今日は。


水族館へ行った。


イルカの水を頭から浴びた。


昴を追いかけた。


結衣が笑った。


偶然、平岡親子と会った。


温泉へ入った。


家族で夕飯を食べた。


それだけで。


一日は十分だった。



五月三日。


家族旅行。


水族館。


イルカ。


前列。


かなり濡れた。


昴。


走る。


何度止めても走る。


結衣。


平岡君と遭遇。


同じ旅館。


偶然。


平岡直哉。


ワーカーになりたい。


適性試験。


蝶々結び。


変な顔をされた。


理由。


聞かなかった。


まだ。


時間がある。


大浴場。


昴。


危ない。


仕事より疲れた。


これは美咲には言わない。


今日は。


休み。


以上。



---


日記を閉じた。


隣では、美咲がもう眠っている。


その向こうに結衣。


さらに向こうに昴。


布団は四枚敷いてある。


だから今夜こそ。


朝まで自分の布団で眠れる。


そう思った。


午前二時過ぎ。


目を覚ますと。


蒼真の腹の上に昴がいた。


いつ来たのか。


分からない。


旅館でも。


そこは変わらなかった。


蒼真は昴を戻そうとして。


やめた。


少し重い。


でも。


いないのとは。


やっぱり。


別だった。

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