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第二十七話 後ろを見る

四月二十二日。


朝食の席で、結衣が水族館の案内を広げていた。


一応、パンも食べている。


ただ、視線はほとんど案内から動いていない。


「結衣。食べる時はしまいなさい」


美咲に注意されても、顔を上げなかった。


「今ちょっとだけ」


「昨日もそれ言ってたでしょ」


「でも見て。ゴールデンウィークまでクラゲの特別展示やってるんだって」


「へえ」


美咲の返事が少し変わった。


結衣はすぐに顔を上げる。


「気になったでしょ?」


「気にはなったけど、ご飯とは別」


「一分だけ」


「駄目」


「お母さんも見てたじゃん」


「見てない」


「今絶対見た」


「見てません」


親子のやり取りを聞きながら、蒼真は味噌汁を飲んだ。


その横では、昴が海苔を細かく千切っている。


食べるためではないらしい。


千切った海苔を白いご飯の上へ一枚ずつ並べている。


「昴、それ何?」


蒼真が聞く。


「のすとす」


「ノストス?」


「うん」


言われてからもう一度見る。


ご飯の上に、細長い海苔が五枚ほど並んでいる。


蒼真には、どう見てもノストスには見えなかった。


「そうなんだ」


「分かってないでしょ」


結衣が言う。


「分からないって言うと怒るかなと思って」


「昴は怒るね」


「おこる!」


本人が元気よく認めた。


「食べ物で遊ばないの」


美咲が昴の皿を見た。


「ノストスは食べてからにしなさい」


昴が海苔を見つめる。


「のすとす、たべる?」


「ご飯を食べるの」


「のすとすは?」


「だから、そのノストスも食べるの」


昴の顔が曇った。


自分で作ったノストスを食べろと言われたと思ったらしい。


「壊すの?」


「食べ物だからね」


「や」


「でも海苔でしょ」


「のすとす」


「海苔」


「のすとす!」


朝から難しい問題が発生した。


結局、美咲が海苔を一枚追加し、それと引き換えにご飯の上のノストスを食べさせることで決着した。


「交渉成立」


蒼真が言う。


「二歳児と交渉しない」


美咲に言われた。


「昨日も似たこと言われた気がする」


「多分、何度も言ってる」


「そうだった?」


「仕事のことは覚えてるのにねえ」


少しだけ嫌味が混じっている。


蒼真は聞かなかったことにした。


「お父さん」


結衣が呼ぶ。


「何?」


「旅行の日、六時半に出よう」


「早くない?」


「水族館混むよ」


「何時から?」


「九時」


「家から二時間くらい?」


「多分」


「多分で六時半なの?」


結衣が案内を見直した。


そこに移動時間は載っていない。


「お母さん、何時間?」


「昨日調べたら、休憩入れて二時間くらいじゃない?」


「じゃあ六時半!」


蒼真は少し考えた。


運転するのは自分だ。


「七時じゃ駄目?」


「駄目」


「六時四十五分」


「何で十五分刻みなの?」


「少しでも寝たいから」


結衣が呆れたような顔をした。


「お父さん、朝強いじゃん」


「仕事の日はね」


「旅行の日は?」


「できれば寝たい」


美咲が笑う。


「お父さんだって休日くらい寝たいのよ」


「じゃあ六時半に起きて、七時出発」


「結衣は六時半に起きて間に合うの?」


蒼真が聞く。


結衣の動きが止まった。


髪。


着替え。


朝食。


準備。


「……六時」


「早くなってるよ」


「旅行だから起きる」


「今日も三回起こされてたけど」


「学校と旅行は違う!」


そこだけは強い。


美咲も笑いながら頷いた。


「多分、本当に起きると思う」


「信用ないなあ」


「今日三回起こした人に言われてもね」


結衣は反論できず、大人しくパンへ戻った。


今朝、蒼真が家で仕事について話したのは、帰宅予定の時間だけだった。


美咲も、それ以外は何も聞かなかった。


橘家の朝は、今日も旅行の話の方が長かった。



第三中隊基地へ到着すると、格納庫の中ではノストスの出動準備が進められていた。


右肩の装甲は周囲より僅かに色が違う。


一週間ほど前についた三本の爪痕はもうない。それでも蒼真は時々、その場所へ目を向けてしまう。


「おはようございます」


機体の足元にいた牧野へ声をかける。


「おはようございます」


牧野は整備用端末を確認しながら答えた。


「今日は救助装備を少し多めに積んでます」


「何が増えたんです?」


「切断器、展開足場、牽引補助具。簡易消火装置も一基追加」


「重くないですか?」


「通常装備から二・七パーセント増しです。今日の作業内容なら問題ありません」


蒼真は送られてきた機体情報を見る。


「防御砲は?」


「通常通り。使わないで帰ってくるのが一番ですけど」


「それは自分もそう思います」


「本当に?」


「何で疑うんですか」


「初実戦で前へ出た人だから」


「神代隊長に頼まれたんです」


「知ってます」


牧野は笑った。


一週間前なら、その話だけでも蒼真の中に少し重いものが残った。


今日は。


普通に返せる。


「今日は第三中隊ですよね」


「はい」


「それなら、向こうもノストスの使い方は分かってるでしょう。ただし、前に出ないのが基本ですからね」


「分かってます」


「救助装備が増えたからって、救助する人を増やして帰ってこないでください」


「増やすつもりはないです」


「その返事なら大丈夫」


牧野はノストスを見上げる。


「行ってらっしゃい」


「行ってきます」


その会話も、少しずつ日常になり始めていた。



出動前の説明は、格納庫横の小会議室で行われた。


今日の現場は東部第四復旧区。


戦災で損傷した旧市営文化会館と、その隣にある地下駐車場だった。


文化会館は半年前から立入禁止になっており、今日の作業は地下駐車場に残された設備と車両の撤去が中心になる。


直近一か月、周辺で敵性個体の目撃情報はない。


事前の地下走査でも敵性反応は確認されていなかった。


それでも第三中隊が付くのは、復旧区域では既に標準となっている警戒体制だからだ。


神代が現場図を表示した。


「片瀬は東。安西は北。御堂は西。俺は南側から全体を見る」


蒼真は図面を見ながら聞く。


「地下の退避路は?」


「東と南。作業搬入口が南だから、通常退避は東を使う」


「南は作業車両が入りますよね」


「退避時は止める」


「分かりました」


神代が今度は蒼真を見る。


「橘は?」


「南側後方にノストスを置きます。東側退避路が使えない場合は、車両を止めて南から逃がします」


「了解」


二日前。


長い会議をした。


四月八日のこと。


十四日のこと。


管理局と警備部隊が、どこまで互いの判断へ踏み込むのか。


何を伝えるのか。


何時間も話した。


それでも、現場へ出る前に必要な確認は、この程度だった。


何かが起きる前なら。


普通に話せる。


だから、先に話しておく。


蒼真は、少しだけその意味が分かるようになっていた。



午前九時十六分、作業が始まった。


旧市営文化会館は地上四階建てで、正面の大きなガラス壁はほとんど失われていた。戦災時の熱で外壁は黒く変色し、入口には今も立入禁止の表示が残っている。


隣接する地下駐車場には、戦災当時に放置された車両が二十台近く残されていた。


天井材に潰された車。


柱の変形に挟まれた車。


長期間放置されたため、もう自走できない車。


今日はそれらを一台ずつ搬出し、その後に地下設備を確認する予定だった。


ノストスは南側搬入口から約七十メートル離れた場所へ配置された。


そこなら地下から出てくる人員を確認でき、何かあれば東側の退避路にも回れる。


第三中隊は建物を囲むように配置されている。


作業開始から一時間ほどは、何事もなかった。


午前十時二十分を過ぎた頃、地下西側へ入っていた藤堂から通信が入る。


『橘さん、西側の作業を一度止めてください』


「何かありました?」


『旧電源盤に電圧が残っています。残留電圧にしては高いです』


蒼真は全体表示を確認した。


西側では設備班と作業員六名が作業している。


「西区画だけ停止。作業員は中央まで下がってください」


『了解』


西側の作業が止まる。


しかし、それ以外は続ける。


藤堂が設備班と確認した結果、原因は旧蓄電設備の一部が切り離されていなかったことだった。


十五分ほどで絶縁処理が終わり、安全確認の後に作業が再開された。


敵性反応はない。


建物にも変化はない。


普通の復旧現場だった。



午前十一時六分。


地下から古い制御盤を搬出する作業が始まった頃だった。


ノストスの操縦席に、小さな警告が表示された。


《微弱振動検出》


蒼真はすぐ全体図を開いた。


発生源は地下駐車場東側。


事前に設定した退避経路の近くだった。


「地下東側で振動。何か作業してます?」


藤堂から返事が来る。


『東側は今、誰も触ってません』


「森下さん、そちらで分かります?」


少し間があった。


『今、感じました。小さいです』


「東側退避路は?」


『見たところ異常ありません』


敵性反応も出ていない。


構造監視にも警告はない。


この時点では、振動の原因は何も分からなかった。


二度目の振動が来た。


一度目より僅かに長い。


それでも数秒で止まる。


蒼真は表示を見ながら考えた。


何かが起きたわけではない。


しかし、何か起きた時に人が逃げる場所の下で、原因の分からない振動が出ている。


そこが気になった。


「全作業、一度止めます」


各班から返答が入る。


現地作業責任者から確認が来た。


『全面ですか?』


「全面です。地下の人員は東側を使わず、南側から一度出してください」


『東は異常なしと聞いてますが』


「今のところ目視では異常ありません。ただ、振動源が東側退避路の直下です。原因が分かるまで退避路として使いたくありません」


数秒の間があった。


『了解しました。南側から出します』


消防が動く。


作業車両を止め、南側搬入口を空ける。


そこで神代から通信が入った。


『橘。警備側で何を見る?』


二日前の会議を思い出した。


「東側を確認してほしいです。敵性反応はありません。ただ、振動源が退避路と重なっています」


『片瀬、東側へ。地下には入るな』


『了解』


理由を渡す。


判断は向こうへ任せる。


会議室では何時間もかけたことが、現場では数秒のやり取りで終わった。


地下にいた作業員が南側から順番に出てくる。


設備班。


作業員。


消防。


全員が出るまで、蒼真は人数表示から目を離さなかった。


片瀬機は東側の搬入口から距離を取り、外から走査を続けている。


『敵性反応なし。地表も、今のところ変化なし』


「了解」


地下人員が残り五名になる。


その時、三度目の振動が来た。


今度は明らかに長かった。


数秒後。


構造監視に警告が上がる。


《東側通路――構造変位検出》


森下の声も、それまでより硬くなった。


『橘さん。東側通路、下がっています』


「どのくらい?」


『計測しています。人は戻さないでください』


「戻しません」


藤堂から通信が入る。


『旧図面を見つけました。東側の下に空調設備用の槽があります』


「空洞がある?」


『可能性があります。戦災後の記録では閉鎖扱いですが、埋め戻した記録がない』


その言葉を聞いた時、蒼真の頭に四月八日の現場が浮かんだ。


閉鎖。


図面上。


現地確認なし。


あの日は、その先に敵がいた。


今日は違う。


同じだと考えてはいけない。


分かっているのは、東側地下に未確認の空間が残っている可能性があることだけだ。


「久賀さん。東側を危険区域にしたいです」


『範囲は?』


「搬入口から地上二十メートル。地下は東半分全部」


『理由は、旧空調槽と構造変位?』


「はい」


『同意します』


蒼真は神代へ通信を繋ぐ。


「神代隊長。片瀬さんをもう少し下げてもらえますか」


『理由』


「東側地下に未確認の空調槽があります。埋め戻し記録なし。構造変位も出ました」


神代はすぐに決めた。


『片瀬、三十下がれ』


『了解』


片瀬機が東側搬入口から後退する。


全員の退避も終わった。


それから十数秒後だった。


地面が沈んだ。


爆発したわけではない。


大きく割れたわけでもない。


最初は、東側搬入口の脇に細い亀裂が入っただけだった。


その亀裂がゆっくり広がり、舗装面が中央へ向かって傾き始める。


次の瞬間、地面が一段落ちた。


アスファルトと土砂が崩れ、地下へ吸い込まれていく。


二メートルほど沈んだところで止まった。


崩れた舗装の下に、暗い空洞が見える。


誰もいなかった。


片瀬機も、既に三十メートル以上離れている。


しばらく現場は静かだった。


神代の声が入る。


『各機、状態』


『片瀬、異常なし』


『安西、異常なし』


『御堂、異常なし』


蒼真も人員表示を確認した。


「地下班、全員退避済み。負傷者なし」


『作業は?』


神代に聞かれる。


「今日は終了します。この状態では戻せません」


『了解』


敵は出なかった。


誰も戦わなかった。


それでも今日の仕事は、そこで終わった。



管理局へ戻ったのは午後一時を少し過ぎてからだった。


現場が早く終わったからといって、仕事が早く終わるわけではない。


むしろ、止めた現場ほど報告は長くなる。


今回、蒼真が最初に作業を止めた時点では、地盤沈下など起きていなかった。


敵性反応なし。


構造異常警報なし。


確認されていたのは、微弱な振動が二度あったことだけ。


それでも全作業を止めた。


そして東側ではなく、作業車両のいる南側から全員を退避させた。


結果だけを見れば、正しかったように見える。


だが。


蒼真は。


そこを。


分けたかった。


報告書を開く。


《四月二十二日 東部第四復旧区 旧市営文化会館地下駐車場》


午前十一時六分、地下東側において一度目の微弱振動を検出。設備班へ確認し、東側で振動を伴う作業が実施されていないことを確認した。


一度目の振動について、敵性反応および構造監視上の異常なし。


その後、同地点付近において二度目の振動を検出。


当該地点が事前設定された東側退避経路の直下に位置していたため、原因不明の状態で同経路を緊急退避路として使用することは不適切と判断。


支援隊員権限により全作業を一時停止し、地下人員を南側搬入口より退避させた。


南側は作業搬入口として使用中であったため、作業車両を停止。消防により退避経路を確保。


第三中隊へ東側確認を要請。


要請時、敵性反応がないこと、振動源と退避経路が重複していることを共有。


人員退避中、三度目の振動および東側通路の構造変位を確認。


旧設備図の再確認により、東側地下へ旧空調設備槽が存在していたことを確認。戦災後資料において閉鎖扱いとなっていたが、埋め戻しおよび現地閉鎖確認の記録なし。


東側地上二十メートルおよび地下東半分を危険区域として指定。


第三中隊片瀬機について、地下空洞および地盤沈下の可能性を理由として後退を要請。神代隊長判断により後退。


その後、東側搬入口周辺において地盤沈下発生。


人的被害なし。


機体損傷なし。


作業機材損傷なし。


そこまで書いて。


蒼真は少し考えた。


そして、最後に付記を加えた。


《付記》


全作業停止を判断した時点において、地盤沈下の発生を予測した事実はない。


判断時に確認されていた異常は、原因不明の微弱振動二回のみ。


停止および退避経路変更の理由は、緊急退避に使用する予定の経路について安全性を保証できない状態となったためであり、その後発生した地盤沈下の事実をもって停止判断の正当性を評価するものではない。


これなら。


後から読む人も。


「地面が沈むと分かっていたから止めた」


とは思わない。


保存する。


「長いな」


後ろから課長の声がした。


「必要です」


「もう読んだ」


「早いですね」


「支援隊員の停止判断が入ってるからな」


課長は蒼真の隣へ立ち、報告書をもう一度見る。


「止めた時、沈むと思ってたか?」


「思ってません」


「じゃあ、何で止めた」


「東側退避路の下で、原因の分からない振動が二回出ていたからです」


「敵性反応なし」


「はい」


「構造警報も、まだなし」


「はい」


「そのまま作業を続けても、何も起きなかったかもしれない」


「そうですね」


「工程を半日飛ばす可能性も考えた?」


「考えました」


課長が蒼真を見る。


「それでも止めた」


「退避する時に使えない方が困るので」


「結果、沈んだ」


「それは後から分かったことです」


課長は、そこで少し笑った。


「そこまで報告書に書く奴は初めて見た」


「書かないと、次の人が振動二回で必ず全面停止するかもしれないでしょう」


「今回と同じになるとは限らないから?」


「はい」


「お前、本当に面倒だな」


「最近よく言われます」


課長はもう一度報告書を見る。


「でも、必要だ」


「なら良かったです」


「だから削れと言えないのが一番面倒なんだよ」


昨日の会議と。


同じだった。


蒼真も少し笑った。



帰宅したのは午後六時半を少し過ぎた頃だった。


「ただいま」


「おかえり」


台所から美咲の声が返ってくる。


昴が居間から走ってきて、いつものように蒼真の脚へ抱きついた。


「ぱぱ!」


「ただいま」


「おそい?」


「今日は普通」


「ふつう?」


「六時半くらい」


昴には分からないらしい。


結衣が居間から顔を出した。


「お父さん!」


「何?」


「旅行の日、六時半!」


「朝の続き?」


「決めた!」


「誰が?」


「私!」


「それ決定って言わないんじゃない?」


「お母さんもいいって」


蒼真が美咲を見る。


「私は『起きられるなら』って言ったの」


「起きる!」


「今日も三回起こしたけど」


「旅行は別!」


朝と同じ主張だった。


「じゃあ六時半出発?」


蒼真が聞くと、結衣は大きく頷いた。


「水族館、九時には入りたい」


「二時間半あるね」


「途中で休憩するでしょ?」


「する」


「じゃあちょうどいい!」


そこまで考えているなら。


いいのかもしれない。


美咲が蒼真を見る。


「今日、何もなかった?」


いつもの聞き方だった。


蒼真は少しだけ考える。


「怪我人はいなかったよ」


美咲はそれで十分だったらしい。


「そう。ご飯できてるから、着替えてきて」


「うん」


それ以上、現場の話はしなかった。



夕食でも、中心になったのは旅行の話だった。


「イルカショー、十一時と二時」


結衣が案内を見ながら言う。


「どっちを見るの?」


蒼真が聞く。


「十一時」


「じゃあ、それまでに他のところ回る?」


「最初はペンギン」


「イルカじゃないの?」


「イルカショーは時間決まってるから」


「なるほど」


「その次がクラゲ」


「昴は?」


「いるか!」


何を聞かれたのか分かっていない。


「じゃあ昴はずっとイルカでいいね」


「いるか!」


本人は満足している。


美咲が笑う。


「お父さんと昴で先にイルカ見てれば?」


「家族旅行なのに?」


「ずっと全員一緒じゃなくてもいいでしょ」


「前も言ってたね」


「朝市」


「覚えてた?」


「それくらいは」


結衣が笑う。


「仕事以外も覚えられるようになってきたじゃん」


「前から覚えてるよ」


「じゃあ昨日の夕飯」


蒼真は止まった。


「……魚」


「何の?」


「魚」


「ほら!」


三人が笑う。


昴も。


意味も分からず笑う。


今日。


現場では。


地面が沈んだ。


人を下げた。


作業を止めた。


報告書を書いた。


でも。


家へ帰れば。


昨日の魚を覚えていない父親になる。


蒼真には。


それくらいが。


ちょうどよかった。



夜。


日記を開く。



---


四月二十二日。


東部第四復旧区。


旧市営文化会館。


地下駐車場。


微弱振動。


二回。


敵性反応なし。


構造警報なし。


振動源。


東側退避路直下。


全作業停止。


退避路。


南へ変更。


第三中隊。


東側確認。


三度目。


構造変位。


旧空調槽。


閉鎖扱い。


現地記録なし。


危険区域指定。


片瀬機。


後退要請。


神代隊長。


承認。


後。


東側地盤沈下。


負傷者。


なし。


機体損傷。


なし。


止めた時。


沈むとは。


思っていない。


退避路を。


安全と思えなかった。


だから。


止めた。


結果から。


理由を作らない。


忘れない。


以上。



---


日記を閉じる。


今日。


誰も戦わなかった。


ノストスも。


一度も前へ出なかった。


それでも。


全員帰った。


蒼真は、それでいいと思った。


机の端には、旅行の予定を書いた紙が置いてある。


五月三日。


午前六時半出発。


水族館。


ペンギン。


クラゲ。


イルカ。


旅館。


大きな風呂。


まだ一週間以上先なのに、予定は少しずつ増えていた。


全部予定通りになるかは分からない。


仕事も。


旅行も。


多分。


同じ。


違うのは。


旅行なら。


予定通りにならなくても。


きっと結衣は怒りながら笑う。


昴は何も気にせず走る。


美咲は呆れる。


そして。


また来ればいい。


そう思えるところだった。

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