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第二十五話 止める仕事

四月十九日。

朝から、細かな雨が降っていた。

窓を叩くほど強くはない。それでも夜明け前から一度も止んでいないらしく、庭も道路もすっかり濡れていた。窓ガラスには細い雨粒がいくつも筋を作り、曇った空から落ちる光も普段より暗い。

蒼真が目を覚ました時、胸の上には昴がいた。

最近では、もはや珍しくもない。

自分の布団はすぐ隣にあるのに、夜中になるといつの間にか移動してくる。今日も蒼真の寝間着を片手で握り、頬を胸へ押しつけたまま気持ちよさそうに眠っていた。

もう片方の腕には紙のノストスが抱えられている。

右肩に巻かれた透明なテープは、以前より少し剥がれていた。

「重い……」

蒼真が呟くと、隣から声がした。

「毎朝言ってない?」

美咲が目を開けていた。

「重いから」

「じゃあ降ろせばいいでしょ」

「起きるよ」

「もう起きる時間よ」

「でも、まだ寝てる」

「じゃあそのままでいいじゃない」

「重い」

美咲はしばらく黙って蒼真を見た後、呆れたように笑った。

「結局、どっちなのよ」

「重いのと、降りてほしいかは別だから」

「面倒くさい人ねえ」

「最近よく言われる」

「誰に?」

「家族に」

「ほとんど私でしょ」

多分。

そうだった。

美咲が身体を起こして時計を見る。

「六時十五分。今日は何時に出るの?」

「七時半くらい」

「じゃあ、そろそろ昴を起こす?」

蒼真は胸の上を見る。

昴は全く起きる様子がない。

「あと五分」

「甘い」

「五分なら」

「昨日もそれで十分伸びてたよ」

「覚えてた?」

「私は覚えてるの」

美咲はそう言って布団を抜け出し、寝室を出ていった。

台所から食器を出す音が聞こえてくる。

外は雨。

家の中では、朝が始まる。

蒼真は胸の上の昴を見た。

仕事へ行く前。

この時間だけは。

急がなくてもいいような気がした。

三分ほどして、昴が自分から目を開けた。

父親の顔を見る。

「ぱぱ」

「おはよう」

「おはよ」

「起きる?」

「まだ」

「お父さん、仕事行くよ」

「や」

「行かないと」

「きょう、おやすみ」

「違うよ」

「おやすみ」

勝手に決められた。

「今日は土曜日だよ」

「おやすみ!」

「お父さんは仕事」

昴が露骨に不満そうな顔をした。

「お母さんも仕事の日あるでしょ」

「おかあさん、いる」

確かに今日は美咲が休みだった。

二歳児なりに理屈はあるらしい。

「お父さんだけ行ってくる」

「や」

「帰ってくるよ」

「はやく?」

「なるべく」

「はやく!」

「分かった」

ようやく昴が胸の上から降りてくれた。

自由になった身体を起こし、蒼真は肩を回す。

「やっぱり重かった」

「おもくない!」

「聞こえてたの?」

「おもくない!」

朝から。

怒られた。

朝食の途中で、結衣が大きな欠伸をしながら居間へ入ってきた。

休日なので、制服ではない。

髪もまだ整えておらず、寝癖のまま椅子へ座る。

「おはよう」

蒼真が言う。

「おはよ……」

「眠そう」

「土曜日なのに起こされた」

台所から美咲が言う。

「九時から部活でしょ」

「あ」

完全に忘れていたらしい。

結衣が時計を見る。

さっきまで半分しか開いていなかった目が、一気に開いた。

「何時!?」

「七時十分」

「何で早く起こしてくれなかったの!」

「六時半から三回起こした!」

「嘘!」

「本当!」

「聞いてない!」

「返事までした!」

「覚えてない!」

「それはこっちの責任じゃない!」

急に。

朝が騒がしくなった。

結衣はパンを口へ運びながら立ち上がろうとする。

「座って食べなさい」

「時間ない!」

「ある!」

「髪やってない!」

「だから早く起こしたでしょ!」

蒼真は味噌汁を飲みながら、母娘のやり取りを見ていた。

美咲がこちらを見る。

「他人事みたいな顔してないで、お父さんも何か言って」

「早く起きた方がいいよ」

「今言っても遅い!」

結衣に怒られた。

正論だった。

「じゃあ、落ち着いて食べた方がいい」

「それも今じゃない!」

難しい。

蒼真は味噌汁へ戻った。

その横で、昴が箸を握ったまま言う。

「おねえちゃん、おそい」

「昴まで言わないで!」

昴が笑った。

全然反省していない。

その騒ぎが一段落した頃、美咲が冷蔵庫へ手を伸ばしながら言った。

「そういえば、ゴールデンウィークどうする?」

結衣の動きが止まる。

「旅行!」

即答だった。

「まだ何も決めてないから」

「去年どこも行ってないじゃん」

「お父さんの休み次第でしょ」

二人の視線が蒼真へ向く。

「まだ勤務表見てない」

「見て」

結衣。

「今日?」

「今日!」

「仕事中に?」

「休憩時間あるでしょ」

「あるけど」

「じゃあ見て」

強い。

「分かった」

「絶対ね」

「どこ行きたいの?」

聞くと。

結衣はすぐには答えなかった。

「それは帰ってから考える」

「今決まってないの?」

「行けるか分かんないのに決めてもしょうがないじゃん」

それは。

正しい。

美咲が笑う。

「だから、お父さんが休みを調べるところからね」

「分かった」

「泊まりたい!」

「それはお父さんの休みを見てから」

「二泊」

「一泊できればいい方でしょ」

「二泊!」

今度は。

旅行の話。

昴まで参加する。

「ぼくも!」

「昴は置いてく」

結衣がからかう。

昴の顔が固まった。

「いく!」

「お留守番」

「いく!」

「泣くからやめなさい」

美咲が結衣を叱る。

昴は本気で不安になったらしく、蒼真の服を掴んだ。

「ぱぱ」

「一緒に行くよ」

「いく?」

「うん」

「おねえちゃん、うそ?」

「嘘」

「結衣」

「冗談!」

家族旅行。

久しぶりだった。

どこへ行くかも。

何日行けるかも。

まだ何も決まっていない。

でも。

結衣はもう楽しそうだった。

美咲も。

昴も。

「勤務表、ちゃんと見てくる」

蒼真が言う。

「お願いします」

美咲が笑う。

仕事へ出る朝。

家で話した仕事のことは。

それだけだった。

基地へ到着した頃には、雨が少し強くなっていた。

格納庫の大扉から見える空は低く、雲で一面が灰色に染まっている。

ノストスは既に出動準備を終えていた。

右肩だけ僅かに色が違う。

装甲交換から数日。

もう見慣れ始めている。

「おはようございます」

声をかけると、機体の足元にいた牧野が振り返った。

「おはようございます。今日は雨なので、足回りの設定を少し変えてあります」

牧野は手にしていた端末を蒼真へ見せた。

「舗装路なら問題ありません。現場は旧貨物線の下でしょう? 剥き出しの地面へ入るなら気をつけてください。推進を使う場合は七割まで」

「分かりました」

「滑ったからって無理に補正を入れないでくださいね。支援機は重いので、やりすぎると逆に持っていかれます」

「訓練でやりました」

「なら大丈夫」

牧野が画面を切り替える。

「救助装備、牽引装置、補助アーム。全部正常。防御砲も異常なし」

「今日は使わないと思います」

「そうしてください」

以前なら。

ここで何か言われたかもしれない。

八・一パーセント。

初実戦。

右肩。

けれど今日は。

牧野もそれ以上触れなかった。

仕事は。

次へ進んでいる。

「今日、第三中隊じゃないんですね」

蒼真が聞いた。

「第七警備です。第三は別任務」

「初めてです」

「なら最初にちゃんと打ち合わせしてください」

「します」

「第三中隊と同じ感覚で動かないように」

「はい」

牧野はノストスを見上げた。

「人が変われば、動きも変わりますから」

その言葉は。

蒼真にもよく分かった。

四月八日。

第六警備。

城戸。

十四日。

第三中隊。

神代。

同じ戦闘部隊でも。

考え方は違う。

だから。

現場へ入る前に。

話す。

「行ってきます」

蒼真が言うと。

牧野は頷いた。

「行ってらっしゃい。今日は普通に帰してくれれば十分です」

「いつもそのつもりです」

「なら結構」

今日は。

怒られなかった。

西部第二復旧区。

旧高架貨物線。

午前九時二十一分。

雨。

視界良好。

作業員三十一名。

設備班十二名。

消防九名。

管理局四名。

第七警備中隊四機。

支援機ノストス一機。

敵性反応。

なし。

南側の旧橋脚を中心に、作業区域が設定されている。

北と東へ警戒機。

西側に一機。

残る一機は外周巡回。

ノストスは橋脚南側から約百メートル離れた後方。作業区域と退避路の両方を見られる位置。

「配置確認」

第七警備。

『北、異常なし』

『東、異常なし』

『西、異常なし』

『外周、開始』

蒼真。

「後方。救助線確保」

『作業開始』

短い。

現場では。

それでいい。

旧高架貨物線は、戦災以前まで工業区域と中央貨物基地を結んでいた路線だった。

今では線路の大半が撤去され、残っているのは途中で途切れた高架橋と巨大な橋脚だけだ。

今回の目的は、その橋脚の撤去準備。

ただし、地下には古い水道管や通信線が残っている。

何も考えずに橋脚を壊せば。

別のものまで壊す。

だから。

調べる。

確かめる。

必要なら。

止める。

蒼真が長くやってきた仕事だった。

午前九時四十分。

掘削開始。

南側。

深度八十センチ。

異常なし。

一メートル。

異常なし。

敵性反応もない。

雨。

続く。

午前十時七分。

藤堂。

『橘さん』

「はい」

『南、止めて』

声。

少し硬い。

「理由」

『土が違う』

蒼真はすぐ作業区域を切り替えた。

「南側停止。掘削機止めて」

『了解』

重機。

停止。

作業員。

下がる。

「藤堂さん」

『図面より柔らかいです。含水率も高い』

「雨?」

『それだけじゃない』

「地下水?」

『可能性あり』

森下。

『人を入れないでください』

「範囲」

『橋脚から十五』

「了解。十五メートル退避」

消防。

動く。

作業員。

下がる。

重機。

後退。

第七警備。

『敵性反応なし』

「継続警戒」

『了解』

敵。

いない。

戦闘。

ない。

それでも。

現場は止まる。

藤堂が設備班と確認を続けた結果、地下水位が図面上の基準より四十センチ近く高いことが分かった。

過去の改修図面。

旧設備図。

戦災前の記録。

三つを重ねる。

藤堂が一つの線を指した。

「これだと思います」

「旧排水路?」

「戦災後は閉鎖扱いになっています。でも、閉鎖した記録がない」

「図面上では?」

「使用停止です」

久賀が聞く。

「使用停止と閉鎖は違う?」

「全然違います。水を流さなくなっただけかもしれない」

つまり。

残っている。

「遠隔で見られる?」

蒼真が聞く。

「小型探査機を入れます」

「人は?」

森下が即答した。

「入れないでください」

「分かりました」

探査。

開始。

小型機が掘削部へ入る。

二十センチ。

三十。

突然。

土が崩れた。

水。

噴き出す。

大量ではない。

でも。

濁った水が掘削部へ流れ込む。

藤堂。

『停止』

探査機。

止まる。

『旧排水路。破損してます』

「橋脚」

『計算します』

雨。

強くなる。

ノストスの外装へ。

雨粒。

当たる。

敵性反応。

なし。

蒼真は。

橋脚を見る。

崩れてはいない。

傾いてもいない。

でも。

見た目だけでは。

分からない。

五分。

藤堂。

『出ました。南側支持力、推定十二パーセント低下』

久賀。

「現時点の危険度」

『即時倒壊は低い。ただし雨が続いた場合、地盤流出が進む可能性あり』

森下。

『危険です』

短い。

蒼真は雨量を見る。

現在。

時間雨量十一ミリ。

予報。

午後。

十五から十八。

上がる。

今日。

予定していた作業。

残り。

四時間以上。

続ければ。

工程は進む。

止めれば。

最低でも一日。

排水路まで直せば。

もっと。

「止めます」

蒼真が言った。

久賀。

『全面?』

「全面」

『理由』

「雨量上昇。支持力低下。北側が無事でも退避路に影響出る可能性」

少し間。

『同意』

藤堂。

『同意します』

森下。

『お願いします』

蒼真。

「全作業停止。撤収」

各班。

返答。

早い。

誰も。

反対しない。

現場では。

決めたら。

動く。

午前十一時三十六分。

作業員。

全員退避。

消防。

人員確認。

設備班。

機器撤収。

第七警備。

外周警戒継続。

ノストス。

最後尾。

牽引装置。

未使用。

救助。

なし。

防御砲。

未使用。

敵性反応。

一度もなし。

午後零時十四分。

現場撤収。

完了。

負傷者。

なし。

機材損傷。

なし。

ノストス。

損傷。

なし。

作業進捗。

予定比三十二パーセント。

工程。

遅延。

現場。

終了。

帰りの管理局車両では、誰も急いで話さなかった。

ワイパーが一定の間隔で雨を払い、その向こうを灰色の街並みが流れていく。

藤堂は現場で取った地盤データを確認していた。森下は消防から送られてきた退避記録を見ている。助手席の久賀も、しばらく端末を操作していた。

現場から離れれば。

会話も。

普通へ戻る。

「最低、一日は遅れますね」

藤堂が言った。

「排水路の破損範囲次第ですね」

蒼真が答える。

「課長、嫌がりそう」

「嫌がるでしょうね」

「怒られます?」

「何でですか」

「工程止めたから」

蒼真は少し考えた。

「止めた理由は説明できるので」

「そこなんですよ」

藤堂が笑った。

「何が?」

「橘さん、止める時だけ妙に迷いませんよね」

「危なかったから」

「普通は工程とか予算とか、もう少し頭をよぎりますよ」

「よぎりますよ」

「でも止めた」

「人が下にいるので」

そこは。

迷わない。

工程は。

戻せる。

遅れれば。

組み直せる。

橋脚の下に人がいて。

もし倒れたら。

戻らない。

「今日の判断は妥当です」

久賀が前から言った。

「危機管理側でも異論はありません」

「なら良かったです」

蒼真は答えた。

森下も頷く。

「何も起きなくて良かったです」

何も。

蒼真は。

その言葉を少し考えた。

旧排水路。

地下水。

地盤低下。

作業停止。

一日か。

それ以上。

工程が遅れる。

何も起きなかったわけではない。

「結構起きましたけど」

言うと。

森下が少し笑った。

「人に、です」

「ああ」

「怪我人なし。事故なし」

藤堂が続ける。

「機材も全部回収」

久賀。

「警備部隊も交戦なし」

「それなら」

蒼真も。

少し笑った。

「何も起きてないですね」

それでいい。

こういう現場が。

一番いい。

管理局へ戻ったのは午後二時を過ぎてからだった。

作業が早く終わったからといって、仕事まで早く終わるわけではない。

止めた時ほど。

報告は長くなる。

蒼真は現場記録、設備班からの計測結果、消防の退避記録、第七警備中隊の配置記録を一つずつ開いた。

現場での指示は短い。

報告は。

長く。

残す。

四月十九日。

西部第二復旧区。

旧高架貨物線橋脚撤去準備工事。

午前九時二十一分、現場作業開始。事前走査において敵性反応なし。降雨状況は作業許容範囲内。

午前十時七分、南側橋脚周辺の掘削作業中、設備担当藤堂より土壌状態と既存図面との差異について報告を受ける。

土壌含水率上昇および掘削抵抗値低下を確認。

当該時点で南側作業を一時停止。

安全担当森下の意見により、橋脚から半径十五メートル以内の作業員および重機を退避。

追加調査の結果、地下水位が記録上の基準より約四十センチ上昇していることを確認。

旧設備図に記載された排水路との位置一致を確認したため、小型探査機による遠隔調査を実施。

旧排水路の一部破損および周辺地盤への漏水を確認。

設備班による推定の結果、南側橋脚の支持力が通常比約十二パーセント低下。

現時点での即時倒壊危険性は低いと判断されたが、当日の降雨継続および午後の雨量増加予測を加味し、地盤流出が継続する可能性を考慮。

危機管理担当久賀、設備担当藤堂、安全担当森下と状況共有。

午前十一時三分、当日の全作業中断を決定。

作業員、消防、設備班の順に撤収。

支援機ノストスは後方救助線を維持。

第七警備中隊は撤収完了まで外周警戒を継続。

午後零時十四分、全人員撤収を確認。

負傷者なし。

機材損傷なし。

敵性個体との接触なし。

機体損傷なし。

翌日以降、旧排水路の破損範囲調査を優先。

排水処理および地盤支持力の再測定完了まで、当該橋脚周辺への人員立入を禁止する。

そこまで入力して。

蒼真は一度。

手を止めた。

戦闘。

なし。

撃破。

なし。

損傷。

なし。

今日のノストスは。

一度も前へ出ていない。

誰も。

褒めない。

多分。

何の記録にも。

特別とは残らない。

でも。

それでよかった。

「橘」

後ろから課長に呼ばれた。

振り返る。

「はい」

「ちょっと来い」

「報告書がまだ」

「後でいい」

「今日中です」

「分かってる」

「結構長くなります」

「お前の報告が長いのも分かってる。来い」

仕方ない。

保存。

立つ。

課長室。

入ってすぐ。

課長は何も言わず、椅子を指した。

蒼真が座る。

課長の端末には、先ほど作成途中だった現場報告が表示されている。

「今日、止めたな」

「はい」

「工程、最低一日遅れる」

「排水路の状況によっては、もっとです」

「分かってる」

「なら」

「責めてない」

先に言われた。

「判断は妥当だ。藤堂、久賀、森下、全員同意。設備側の再計算でも同じ結果が出てる」

「では?」

「別の話だ」

課長は画面を切り替えた。

表示されたのは。

今日ではない。

四月八日。

旧南部環状処理場。

蒼真は。

すぐに分かった。

「覚えてるな」

「はい」

「第六警備と揉めた」

「揉めたつもりはありません」

「向こうはそう思ってるかもしれん」

「一機動かしてほしかっただけです」

「それを揉めたって言うんだ」

課長は少し笑った。

「お前は作業を止められた。でも警備機の配置は変えられなかった」

「戦術権限は城戸さんにありましたから」

「そうだ」

次。

四月十四日。

北東第五再開発区。

ノストス。

初実戦。

右肩。

八・一パーセント。

「こっちは?」

「何ですか」

「お前は後方だった」

「はい」

「神代隊長に救援を頼まれ、前へ出た」

「はい」

「安西を帰した」

蒼真は少し止まる。

「助けられた側に決めさせろと言われたので……はい」

課長が。

少し妙な顔をした。

「誰に?」

「安西さん」

「何の話だ」

「いえ」

「まあいい」

課長が。

画面を閉じた。

「橘。今、管理局と警備側で新しい運用を検討してる」

「新しい?」

「現場支援隊員」

初めて聞く名称だった。

「現場監督とは違うんですか」

「違う」

課長は椅子へ座り直した。

「今まで現場が分かれすぎてる。作業は管理局。設備は設備。安全は消防。敵性反応が出れば警備。戦闘になれば、完全に戦闘側」

「はい」

「それ自体は間違ってない。専門が違うからな」

課長の声は。

いつもより。

少し長い。

「だが、その間を繋ぐ人間がいない」

蒼真は黙って聞く。

「四月八日、お前は作業を止める判断はできた。でも、第六警備の配置には口を出せなかった」

「当然です」

「十四日は逆だ。神代隊長が戦闘を見ている間、作業員の退避と救助線はお前が見ていた」

「はい」

「今日もだ。設備から藤堂。安全から森下。危機管理から久賀。それを受けて、最後にお前が作業を止めた」

課長は。

そこで一度言葉を切った。

「そういう人間を、正式に置く」

蒼真は。

少し考えた。

「何ができるんですか」

「作業の一時中断。退避判断。現場人員の再配置。救助線の設定。危険区域の指定」

そこまでは。

分かる。

「戦闘になったら?」

「後方支援」

「戦闘指揮は?」

「警備隊長」

すぐに返ってきた。

少し。

安心した。

「支援隊員が戦闘指揮まで始めたら、現場が余計に混乱する。敵を倒すのは戦闘部隊の仕事だ」

「支援機は?」

「使う」

嫌なところ。

「ノストス?」

「必要なら」

「武装も?」

「自衛と救援用」

「戦えという意味ですか」

「違う」

課長は。

はっきり言った。

「戦わないために後ろへいろ、という意味だ」

蒼真は。

黙った。

何となく。

聞いてしまった。

「候補は?」

課長が。

笑った。

嫌な予感。

当たった。

「お前」

「……」

「試験運用だ」

「他には?」

「いる」

「なら、他の人で」

「即答するな」

「常任搭乗者にはなりません」

「その話じゃない」

「ノストスへ乗るなら近いでしょう」

「全然違う。毎回乗せるとも言ってない」

蒼真は。

課長を見る。

「今までより危なくなります?」

「分からん」

正直だった。

「だから試験運用だ」

「断れます?」

「断れる」

そこは。

少し安心した。

「いつまでに?」

「来週」

「分かりました」

「ずいぶんあっさりだな」

「考える時間があるなら」

蒼真は立ち上がった。

「考えます」

「そうしろ」

扉へ向かう。

「橘」

振り返る。

「何です?」

「今日、お前が止めた現場」

「はい」

「支援隊員に一番必要なのは、ああいう判断だ」

「危なかったので」

「だからだよ」

課長は笑った。

「敵を倒せる奴は他にいる。現場を止められる奴は、意外と少ない」

蒼真は。

それには答えなかった。

課長室を出る。

自席。

途中だった報告書。

戻る。

まず。

こっちを終わらせる。

現場支援隊員。

それは。

その後で考えればいい。

帰宅したのは午後六時四十八分だった。

玄関の扉を開ける。

「ただいま」

居間から昴が走ってくる。

「ぱぱ!」

いつも通り。

脚へ。

抱きつく。

「ただいま」

「おそい!」

「ごめん」

「はやくっていった!」

覚えていた。

「言ったね」

「おそい!」

「二十分くらい」

「数字で言い訳しないの」

美咲が廊下へ出てきた。

「おかえり」

「ただいま」

「ご飯、もうできてるよ」

「着替えてくる」

「先に手洗って」

「うん」

それだけ。

美咲は今日の現場を聞かなかった。

蒼真も。

話さなかった。

現場では雨が降った。

地下水が出た。

工事を止めた。

それは。

家の夕食には。

必要のない話だった。

夕食では、結衣が部活の話をしていた。

入学してまだ日も浅いが、先輩の名前が少しずつ会話へ出るようになっている。

「でね、三年の先輩がすっごく速いの。走るのじゃなくて、準備が」

「準備?」

蒼真が聞く。

「先生が何か言う前に、もう全部分かってるの。あれ取ってって言う前に取ってるし」

「長くやってるからじゃない?」

「でも私たちが動くと邪魔って言われる」

「最初は仕方ないよ」

「お父さんもそうだった?」

「何が?」

「仕事始めた時」

「邪魔だったと思う」

「本人が言うの?」

「何も知らなかったから」

「怒られた?」

「いっぱい」

「誰に?」

「色んな人」

「今は?」

蒼真は少し考えた。

「今も怒られる」

美咲が笑う。

「今日も?」

「今日は怒られてない」

「珍しい」

「そんなに毎日怒られてないよ」

「家では?」

「誰に?」

「私」

「怒られてる?」

美咲が箸を止める。

「自覚ないの?」

結衣が笑う。

昴も。

一緒に笑う。

「何で昴まで」

「ぱぱ、おこられた!」

「昴もよく怒られてるよ」

「おこられてない!」

「昨日、テープ勝手に使って怒られたでしょ」

「おこられてない!」

都合の悪いことは。

忘れるらしい。

食事が進む。

途中で。

結衣が思い出した。

「お父さん」

「何?」

「今日、モンスター出た?」

「出なかったよ」

「ノストス乗った?」

「乗った」

「何したの?」

「後ろにいた」

「それだけ?」

「それだけ」

結衣が少し物足りなさそうな顔をした。

「何それ」

「仕事だよ」

「つまんなくない?」

「こういう方がいい」

「そうなの?」

「うん」

「ふーん」

それ以上。

結衣も聞かなかった。

代わりに。

「そうだ!」

急に声が大きくなる。

「休み見た!?」

朝。

言われた。

「見た」

三人の視線。

集まる。

「どうだった?」

美咲も聞く。

「今のところ、三日と四日は休み」

「二日!」

結衣が喜ぶ。

「まだ変わるかもしれないよ」

「二日!」

「聞いてる?」

「一泊できるじゃん!」

もう。

聞いていない。

「どこ行く?」

結衣が美咲を見る。

「だから、まだ何も決めてないって」

「温泉?」

「結衣、温泉好きだった?」

「旅館が好き」

「何が違うの」

「ご飯!」

「そこ?」

「あと布団!」

「家にもあるでしょ」

「違うの!」

昴も。

参加する。

「ぼくも!」

「何が?」

「おふとん!」

分かっていない。

美咲が笑う。

「お父さんはどこ行きたい?」

聞かれる。

「みんなが行きたいところ」

結衣の顔が。

少し不満そうになる。

「そういうの禁止」

「何で?」

「お父さんも行くんだから」

美咲まで頷く。

「それは私も賛成」

「じゃあ……」

考える。

最近。

ずっと。

現場。

基地。

管理局。

家。

それだけだった。

久しぶりに。

仕事と何の関係もない場所。

「海が見えるところ」

言ってみた。

結衣が笑う。

「それいい!」

美咲も。

「じゃあ、探してみようか」

「温泉あるところ!」

「結局温泉なの?」

「旅館!」

「どっちなのよ」

話。

長くなる。

今日の現場の話より。

ずっと。

長い。

蒼真は。

その方が。

良かった。

夜。

寝る前。

美咲が布団を整えている時。

蒼真は少しだけ迷った。

言うべきか。

言わなくていいか。

まだ。

何も決まっていない。

「美咲」

「何?」

「仕事、少し変わるかもしれない」

美咲の手が止まる。

でも。

詳しくは聞かなかった。

「危なくなる?」

「多分、そんなには変わらない」

「そう」

「まだ決まってない」

「決まったら教えて」

「うん」

それで。

終わった。

「それより」

美咲が布団へ入る。

「宿、早く探さないと埋まるよ」

「もう?」

「ゴールデンウィークだよ?」

「そんなに?」

「明日、一緒に見る?」

「うん」

「結衣に任せると高いところ選ぶから」

「何で?」

「娘だから」

「関係ある?」

「あるの」

よく分からない。

でも。

その話の方が。

今は大事だった。

明日。

宿を探す。

海が見えるところ。

結衣が喜ぶところ。

昴が走り回っても大丈夫なところ。

美咲が。

少しゆっくりできるところ。

仕事のことは。

仕事へ行ってから。

考えればいい。

その日の手書きの日記には、家族旅行のことは書かなかった。

仕事の日記だから。

記したのは。

今日の現場。

そして。

最後に聞いた話だけ。

四月十九日。

西部第二復旧区。

旧高架貨物線。

橋脚撤去準備。

敵性反応なし。

戦闘なし。

南側地盤。

異常。

藤堂。

発見。

旧排水路。

破損。

地下水。

地盤支持力低下。

森下。

退避。

久賀。

全面停止。

同意。

作業中断。

負傷者。

なし。

機材損傷。

なし。

ノストス。

損傷。

なし。

工程。

遅延。

今日。

誰も戦わなかった。

誰も怪我しなかった。

良かった。

帰局。

課長。

現場支援隊員。

試験運用。

候補。

作業停止。

退避判断。

救助。

戦闘時。

後方支援。

戦闘指揮。

なし。

警備隊長。

ノストス。

必要時使用。

返答。

来週。

まだ。

分からない。

課長。

敵を倒せる人は他にいる。

現場を止められる人は少ない。

考える。

以上。

日記を閉じる。

今日。

敵は出なかった。

銃も。

杭撃ちも。

使わなかった。

ノストスは。

傷一つ増えていない。

それでも。

現場を止めた。

結果。

全員帰った。

蒼真は。

机の上に置いた資料を見る。

《現場支援隊員 試験運用要綱》

戦うためではない。

止める。

逃がす。

助ける。

帰す。

それなら。

自分にも。

できるかもしれない。

まだ。

答えは出さない。

次の休み。

家族でどこへ行くか。

そちらも。

まだ決まっていない。

今夜考えるなら。

蒼真は。

そちらの方が良かった。

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