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第二十三話 理解不能

四月十四日。


目を覚ました時、胸の上が妙に軽かった。


ここ数日、昴は夜中になると自分の布団を抜け出し、俺の胸か腹の上へ移動してくる。眠ったまま首へ腕を回し、寝間着を強く掴んで離さない。自分の布団へ戻しても、朝には同じ場所へ戻っている。


今朝は珍しく、隣の布団で眠っていた。


小さな身体を横向きに丸め、両腕で何かを抱えている。昨日作った、紙のフレイムワーカーだった。


灰色の厚紙を折り、透明なテープで留めた機体。左右で腕の長さが違い、太い脚は片方だけ少し外を向いている。背中には、丸めた紐で作った牽引装置が二つ付いていた。


顔に描かれた黒い丸も二つ。


実物のノストスにはない目だった。


それでも、昴にとってはノストスなのだろう。


寝息を立てる昴の腕の中で、紙の機体は胸を少し潰されている。形を直そうと手を伸ばすと、昴が眠ったまま抱く力を強めた。


取らないから。


声には出さず、手を引っ込める。


「起きたの?」


寝室の入口から美咲が声をかけてきた。エプロン姿で、片手には菜箸を持っている。台所から味噌汁の匂いが届いていた。


「うん。今日はこっちへ来なかった」


「少し寂しそうね」


「重いのと、いないのは別だから」


美咲は小さく笑い、俺の横へしゃがんだ。


「それ、昨日ずっと作ってたの。背中の紐だけ手伝ったけど」


「左右で長さが違う」


「直そうとしたら怒られた」


「昴らしい」


二人で眠っている昴を見る。


穏やかな朝だった。


だから、先に言わなければならなかった。


「今日、現場へ行く」


美咲の視線が、昴から俺へ移った。


「聞いてない」


「昨夜、昴を寝かせている時に決まった。美咲もそのまま寝ていたから」


「起こして」


「夜中に起こされる方が嫌かと思った」


「朝、突然聞かされる方が嫌」


間違えたらしい。


「ごめん。次から起こす」


「そこまで遅い時間なら、起こさなくていいから端末に残して。朝、あなたの口からも言って」


「分かった」


美咲は昴の布団を掛け直した。紙のノストスが潰れないよう、端だけを慎重に動かす。


「どこ?」


「北東第五再開発区。基地から三十分くらいの旧物流倉庫」


「何をするの」


「設備確認の警戒と、退避経路の確保。昨日、小型個体が二体確認された。一体は脚を傷めたまま逃げて、もう一体は所在不明」


「討伐は終わっていないのね」


「うん」


「乗る?」


「ノストスで行く」


美咲の手が止まる。


「現場で動かすのは、初めて?」


「初めて」


「戦う可能性は」


「ある」


予定にはない、とは言わなかった。今回は、モンスターがいる可能性を承知したうえで行く。


美咲は目を伏せた。


「嫌だな」


「俺も嫌だよ」


「そう見えない」


「自分では、かなり嫌そうな顔をしているつもりだけど」


「してない。もう少し困って」


「困ってるよ」


「顔に出して」


「難しい注文だね」


菜箸を持っていない方の手が、俺の頬へ触れた。朝の空気に冷えた指先が、そのまま首筋へ移る。


「顔も肩も硬い。まだ家なのに、もう緊張してる」


「家だからかもしれない」


「どういうこと?」


「基地へ着いたら手順を考える。現場へ着いたら判断する。怖いかどうかを確かめられるのは、家にいる間だけだから」


美咲は俺の肩を軽く押した。


「なら、今はちゃんと怖がって」


「そうする」


「帰ってきたら、好きなものを作る」


「何でも?」


「常識の範囲で」


少し考える。


「甘い卵焼き」


「結衣が嫌がるよ」


「結衣には塩味で」


「二種類作るのは面倒」


「では、塩味でいい」


「すぐ諦めないで。甘い方を作るから」


「どちらが正解だったの?」


「帰ってきたら教える」


ようやく、美咲が少し笑った。


台所から鍋の蓋が鳴る。居間では報道番組が始まり、廊下の向こうから結衣が起き出す音も聞こえた。


仕事には必要のない音が、家の中にはたくさんある。


だから帰ってきたいと思う。


*


朝食の席で、結衣はパンを口にくわえたまま髪を結ぼうとしていた。片方だけは結び終わっているが、もう片方は肩へ垂れたままだ。


「食べるか、結ぶか、どちらかにしなさい」


美咲が後ろから髪を取り上げる。


「時間がないの」


「早く起きればよかったでしょう」


「起きてたよ」


「目を閉じて、布団の中で?」


「今日の授業について考えてた」


「時間割も見ていなかったのに?」


結衣は答えず、美咲へ髪を任せた。きつい、引っ張らないで、と文句を言いながら、結び終わると鏡を見て少し満足そうにしている。


俺が味噌汁を飲んでいると、鏡越しに目が合った。


「お父さん、今日ネクタイが曲がってる」


胸元を見るが、自分では分からない。


「どちらに?」


「少し右。昨日は転ばなかったのに、今日はネクタイで失敗してる」


美咲が近づき、結び目を直した。


「今日、お父さんは現場だって」


結衣の表情が変わる。


「聞いてない」


「今朝、美咲にもそう言われた」


「いつ帰るの?」


「予定では六時半」


「遅れそうなら連絡して。端末の充電は?」


「満タン」


「予備電源」


「鞄に入ってる」


「本当に?」


「昨日のうちに確認した」


結衣は、不安だとは言わない。代わりに、以前できなかったことを一つずつ確認する。


「ノストスで行くの?」


「うん」


「初めての実戦?」


「戦闘になれば」


「モンスターがいるんでしょう」


「いる可能性がある」


「戦ったらニュースになる?」


「ならない方がいい」


結衣は納得できない顔をした。


「どうして? お父さんが活躍したら――」


「活躍しないで終わる方がいいんだ。何も起きず、全員が普通に帰れたなら、その方がいい」


父親の名前が報道に出ることは誇らしい。だが、報道に出るほどの何かが起きることは怖い。結衣の中では、その二つがまだうまくつながっていないのだろう。


「じゃあ、ニュースにならなくても、帰ったら話して」


「何もなかった、で終わるかもしれないよ」


「それを話せばいいじゃん。お父さんの普通、少し変だから」


「最近、よく言われる」


眠そうな顔の昴が、紙のノストスを抱えて居間へ入ってきた。床へ引きずりそうになっているが、本人は気にしていない。


「ぱぱ」


俺の膝へ紙の機体を載せる。


「持っていく?」


昴は首を横へ振った。


「こっちは、おうち」


「家で待つの?」


「うん。ぱぱ、ほんとの、のすとす」


「帰ったら二機を並べようか」


「ならべる」


満足した昴を抱き上げ、椅子へ座らせる。


「ぱぱ、きょう、ばんばん?」


「できれば、しない」


「やくそく?」


答えに迷っていると、美咲が昴の前へ小さな皿を置いた。


「お父さんは、撃たなくていいようにお仕事をするの。でも必要なら、撃つこともある」


昴が美咲を見る。


「その代わり、一人で帰らないようにするんだって」


朝、俺がうまく言えなかったことを、美咲は昴にも分かる言葉へ変えた。


「そうなの?」


「そうだよ」


昴は少し考え、「じゃあ、いい」と頷いた。


二歳の許可は簡単だった。それでも、少しだけ救われた。


「お父さん、今日も怖い?」


結衣が聞いた。


「怖いよ」


「それでも行く?」


「行く」


「仕事だから?」


「それもある。でも今日は、帰ってくる人を減らさないために行く」


結衣は俺と美咲を見比べた後、少し笑った。


「やっぱり、お父さんは変」


「そうかな」


「優しいって言うと、普通だって逃げるし」


「普通だと思うけど」


「ほら」


美咲と結衣が同時に笑う。昴も意味が分からないまま一緒に笑った。


家の会話は、一つの質問だけでは終わらない。別の話へ逸れ、笑いへ変わり、また心配へ戻る。


俺は、そういう時間が好きだった。


*


第三中隊の基地へ着くと、格納庫前で片瀬さんが待っていた。


「おはようございます。眠れました?」


「少しだけ」


「初めての現場ですからね。私は最初、出動前に吐きました」


「本当だったんですか」


「半分は」


「どちらの半分です?」


「そこは、現場から帰ってきてから考えてください」


片瀬さんは俺の搭乗服を見て、肩の固定帯へ指を掛けた。


「今日は自分で着られたんですね」


「二回やり直しました」


「十分です。牧野さんには黙っておきます」


現場へ出る前は、まだ普通の会話ができた。


第三格納庫には、出動準備を終えたノストスが立っている。その足元で安西さんが装備表を確認し、牧野さんは右脚の点検口から上半身を出していた。


「初実戦だな」


安西さんが言う。


「戦闘になれば」


「怖い?」


「はい」


「俺も」


「そうは見えません」


「見せないからな」


「自分は家族に全部見えているそうです」


安西さんは少し笑った。


「なら、それでいいんじゃないか」


牧野さんが点検口を閉じ、機体から降りてくる。


「橘」


「はい」


「今日、ノストスは壊していい」


「はい」


「帰せ」


「はい」


「自分もだ」


「帰ってきます」


牧野さんは俺の顔を一度見て、ノストスの脚を叩いた。


「なら、乗れ」


神代中隊長が入ってきたところで、全員が格納庫中央へ集まった。


表示された地図には、北東第五再開発区の旧物流倉庫群が東西に三棟並んでいる。中央を大型車両用の通路が貫き、南西に唯一の搬入口。東側の外壁は戦災で崩れ、仮設柵だけが残されていた。


現場に入る民間・行政側の人員は四十名。作業員二十六名、消防八名、管理局六名。


第三中隊からは、神代機、片瀬機、安西機、御堂機。そして後方支援のノストスが出る。


「目的は、警戒と設備確認だ」


神代中隊長が地図上の配置を示した。


「昨日確認された小型個体は二体。一体は脚部を損傷したまま東側へ逃走、もう一体は所在不明。地下反応は昨夜の走査で確認されていない」


片瀬さんが東倉庫、安西さんが北道路、御堂さんが西側。神代中隊長は南側の作業区域を受け持つ。


俺とノストスは、搬入口近くで救助線と退避路を維持する。


「橘。後方を離れるな」


「了解」


「ただし、必要なら出ろ」


「判断基準は?」


「民間人か味方が、今すぐ帰れなくなる時だ」


曖昧だった。


だが、現場で起きることを、出発前にすべて言葉へすることはできない。


「了解しました」


*


午前九時十三分。


旧物流倉庫群は、低い建物が遠くまで続く場所だった。錆びた鉄骨と剥がれた舗装の間を乾いた風が抜け、壊れた外壁から砂を運んでくる。三棟の倉庫を隔てる中央通路には、放置された搬送台と折れた照明柱が残されていた。


ノストスを南西の搬入口へ止める。


ここなら作業区域と退避路の両方が見える。前へ出る四機の位置も、機体表示の上で重ならない。


片瀬機は東。


安西機は北。


御堂機は西。


神代機は南側の作業区域。


『配置完了』


神代中隊長の声を合図に、倉庫の設備確認が始まった。


切断機の音。搬送車の警告音。鉄板を運ぶ作業員の声。


まだ、現場には人間の音しかなかった。


《敵性反応。南東。微弱》


表示された点は、一度現れてすぐに消えた。


「南東、微弱反応。種類不明」


『片瀬、確認』


『了解』


東倉庫の陰へ回った片瀬機から、すぐに映像が届いた。


崩れた搬送レールの下に、小型個体が一体いる。昨日傷つけられた個体らしく、左後脚を引きずっていた。


『対象確認』


『安西は北、御堂は西を閉じろ。片瀬、前へ出すな』


三機が逃げ道を狭める。


追い込まれた個体は一度だけ跳んだ。片瀬機の防盾へぶつかり、体勢を崩したところを神代機の杭撃ちが地面へ縫い止める。


『活動停止』


終わるまで、二十秒も掛からなかった。


ノストスは動かなかった。


それでいい。


*


安全確認の後、作業は再開された。


午前十一時を過ぎても、残る一体は見つからない。


南倉庫では、管理局の設備班が旧圧送管を調べていた。消防は搬入口の救護地点で待機。第三中隊の四機は、互いの死角を埋めるように配置されている。


「橘さん、地下振動を検出しました」


管理局の現地責任者から通信が入った。


「周期と発生源は?」


『周期は一定。南倉庫下の旧圧送管です。設備由来と見ています』


送られてきた波形を確認する。


一定の間隔。振幅にも変化はない。四月八日の処理場で聞いた、不規則な振動とは違っていた。


似ているから止めるのではない。違いを確認してから決める。


「監視を継続してください。振幅が基準を超えるか、周期が乱れた時点で作業を止めます」


『了解』


記録へ判断理由を残し、全体表示へ戻った。


作業員二十六名。消防八名。管理局六名。


人数に欠けはない。


片瀬機は東倉庫の外。安西機は北道路。御堂機は西端。神代機は南側。


全員の位置を確認した時、右側映像の端で黒いものが動いた。


敵性表示には何も出ていない。


東側の崩れた外壁。その向こうを、低い影が横切った。


「東外壁の裏。映像に動き」


『反応はない』


片瀬さんが答える。


「目視です」


『確認する』


片瀬機が外壁へ向いた瞬間、積まれていた瓦礫が内側へ弾けた。


小型個体が飛び出す。


片瀬機は防盾で爪を流したが、個体は止まらない。低い姿勢のまま中央通路を横切り、北側の安西機へ向かった。


『一体確認』


「違う」


壁の陰が、まだ動いている。


最初の個体が飛び出した穴の奥。地面すれすれを、もう一つの影が走っていた。


情報より、一体多い。


先に出た個体が、安西機へ正面から組み付く。安西機は防盾で顎を受け、押し返している。片瀬機もすぐに追いついたが、正面個体を引き剥がすため、右側へ回れない。


二体目は、崩れた外壁を回り込んでいた。


安西機の右後方。


「安西さん、右後方。もう一体」


『見えない』


「距離二十。跳びます」


『正面で手が塞がってる』


御堂機には、安西機そのものが射線を塞いでいる。神代機は、退避を始めた作業員と個体の間から動けない。


「救援を」


一秒にも満たない間があった。


『片瀬は正面個体を処理中。御堂は撃てない』


神代中隊長の声が、短く続く。


『橘、頼む』


後方を離れる。


その判断をした瞬間だけ、迷った。


自分が入れば、五機の配置が変わる。御堂機の射線も、片瀬機の退路も変わる。失敗すれば、安西機とノストスの二機が動けなくなる。


だが、モンスターは待たない。


「了解」


ノストスを前へ出す。


重い機体が、一歩ごとに舗装を鳴らした。最短経路には瓦礫がある。避ければ間に合わない。


踏み越える。


距離、百二十。


二体目が身を沈めた。


跳躍姿勢。


安西機の右脚へ向いている。


防御砲へ手を掛けかけ、やめた。安西機が近すぎる。外せば味方へ当たる。


ノストスをさらに加速させる。


その先は、考えた記憶がない。


左脚を先に出し、機体を半歩だけ外へ向けた。腰の補助アームが開く。敵が地面を蹴った瞬間、その右後脚へ先端が掛かった。


掴む。


引き落とすのではなく、跳ぶ力を横へ流す。


本体右腕を胴へ当てる。押し込むのは二割。強すぎれば、こちらも引きずられる。


敵の軌道がずれた。


安西機の右後方から、御堂機の射線へ。


『通った。撃つ』


一発。


御堂機の射撃が外殻を叩き、個体が地面へ落ちる。


まだ動いている。


こちらを向いた。


爪が来る。


完全に避けることはできた。


右へ抜ければいい。


なぜか、そうしなかった。


ノストスの右肩を前へ出し、装甲を斜めに向ける。


爪が当たった。


衝撃で視界が跳ねる。


《右肩外装損傷。全体損傷率八・一パーセント》


三本の爪が装甲を滑り、安西機の脚から外れた。


片瀬機が正面個体を防盾で押し離す。


安西機が振り向く。


杭撃ち。


二体目の胸部へ入り、動きを止めた。


ほぼ同時に、片瀬機が最初の個体を排除する。


砂と粉塵の向こうで、動くものがなくなった。


『状態報告』


神代中隊長の声で、意識が現場へ戻る。


「ノストス、右肩八・一。搭乗者、異常なし」


『安西』


『無傷』


『片瀬』


『異常なし。対象排除』


『御堂』


『異常なし』


『全機、警戒を再構築。民間人は予定経路から退避。橘は後方へ戻れ』


「了解」


ノストスを搬入口へ戻す。


右肩は動く。救助装備にも異常はない。


機体表示は、俺の身体にも異常なしと出していた。


後方位置へ着き、操作桿から手を離した時、指が震えていることに気づいた。


遅れて息が苦しくなる。


さっきまで怖くなかったことが、怖かった。


*


午後零時五分。


三体すべての活動停止を確認した。作業員、消防、管理局職員、第三中隊員に負傷者はいない。


設備確認は中断。現場は封鎖され、全員が予定していた退避路から撤収した。


帰還した第三格納庫で、ノストスは整備架台へ固定された。灰白色の右肩装甲だけが外され、内部のフレームが露出している。


外した装甲には、三本の爪痕が斜めに走っていた。深い傷だが、裏側までは届いていない。


牧野さんは何も言わず、測定器を傷へ当てている。位置を変え、数値を記録し、また同じ場所へ戻る。


俺と安西さんは、少し離れた場所で待っていた。


やがて牧野さんが整備端末へ戦闘映像を出す。


ノストスが後方を離れ、瓦礫の上を進む。補助アームで敵の脚を捉え、右腕で胴を押し、御堂機の射線へ流す。


右肩で爪を受けるところで、映像が止まった。


「全体損傷率、八・一パーセント。内部フレームと駆動部に異常なし。肩部外装の交換だけで復帰できる」


「高いですか」


牧野さんは答えず、別の数値を並べた。


前衛機の平均損傷率、三十・四パーセント。


支援機の平均、十八・七パーセント。


過去の臨時搭乗を含めた俺の平均、五・四五パーセント。


「支援機ですから」


「後方にいたのは、ここまでだ」


映像の中で、ノストスが搬入口を離れる。


「この先は前衛と同じだ。被弾もしている」


「一度だけです」


「だから、おかしい」


牧野さんの声は怒っているのではなく、困っているように聞こえた。


安西さんが、停止した映像を指す。


「ここ。全部避けられたよな」


「右へ抜ければ」


「なぜ避けなかった」


「避けると、爪が安西機の右脚へ流れると思いました」


「思った?」


「その時は、そうなると分かっていました」


「見えてたのか」


「分かりません」


安西さんの眉が寄る。


「分からないのに、肩を出したのか」


「なぜ分かったのかが、分からないんです」


牧野さんが整備AIへ、完全回避した場合の推定を出させた。


映像の中で、ノストスが右へ抜ける。


行き場を失った爪が安西機の右脚へ当たり、正面個体と組み合っていた機体の姿勢が崩れた。そのまま押し倒され、二体から同時に攻撃を受ける。


予測損傷率、三十八パーセント。


搭乗者負傷確率、十四パーセント。


安西さんは黙って映像を見た。


「本当に、ここまで見えてたのか」


「結果を見ると、そうなります。でも、考えた記憶がありません」


牧野さんが、補助アームの動きを拡大する。


敵の脚へ接触できた時間、〇・三五秒。実際にアームが触れていた時間、〇・三秒。


通常の自動補助は作動していない。


「AI補助は?」


「ゼロ」


「予測表示は」


「出ていない」


「なら――」


「お前がやった」


牧野さんは、短く言い切った。


操縦記録には、右手の入力も左脚の位置も、推進出力も装甲角度も、すべて残っている。改竄も補正もない。


入力したのは俺だった。


出来事も覚えている。


ただ、なぜそれが正しいと分かったのか。そこだけが抜けていた。


「理解できません」


「俺もだ」


牧野さんが答える。


「俺も」


安西さんも言った。


三人で、傷の付いた右肩を見る。


ノストスは何も答えなかった。


しばらくして、神代中隊長が格納庫へ入ってきた。


「報告を」


牧野さんが端末を渡す。


「右肩外装、八・一。内部異常なし。外装交換で明日には復帰。操縦記録にも異常なし」


神代中隊長は俺を見る。


「橘。判断を説明しろ」


俺は、現場で起きたことを順番に話した。


東外壁の影。先に出た個体。安西機の右後方を回った二体目。救援要請。ノストスで接近し、敵を御堂機の射線へ移し、右肩で攻撃を受けたこと。


最後まで聞いた神代中隊長が尋ねる。


「どこまで計画した」


「後方を離れるところまでです。その後は、覚えていますが、考えた記憶がありません」


「敵の軌道は見えたか」


「見えていたと思います」


「味方の位置は」


「全員、分かっていました」


「恐怖は」


戦闘中、手は震えなかった。息も乱れていなかった。爪が迫った時も、怖いとは思わなかった。


「後から来ました」


「その時は?」


「何も」


神代中隊長は、一度だけ映像を見た。


次はノストスだけでなく、片瀬機、安西機、御堂機、神代機、作業員の退避路まで同時に表示させる。


もう一度、最初から見た。


「牧野。記録に異常は」


「ない。補助も予測表示も使われていない」


「公的な報告区分は」


「後方支援機による味方救援。右肩外装、軽微損傷。搭乗者異常なし」


記録上は、それだけだった。


短時間、前へ出た支援機が、軽微な損傷を受けて味方を助けた。


理解できない、と書く欄はない。


「橘。同じことを再現できるか」


「分かりません。同じ状況なら、また動くかもしれません」


「理由は」


「分かりません」


神代中隊長は頷いた。


「なら、今は分からないままにしておけ」


「いいんですか」


「良くはない。だが、分からないことを、分かったことにするよりはいい」


閉じた端末が、俺の胸へ押し返される。


「記録は残せ。見えたものも、迷ったことも、考えなかったことも全部だ」


「はい」


久我さんにも、似たことを言われたことがある。


迷わなかったように書けば、後から読む人間が、間違った自信を持つ。


神代中隊長は安西さんへ向いた。


「お前の報告は」


「右後方への警戒不足。正面個体へ意識を集中し、橘の警告後も自力で対応できませんでした」


「次は」


「同じ配置を取りません」


「橘の救援は」


安西さんが、俺を一度だけ見た。


「適切です。助けられました」


「後半は感想だ」


「取り消しません」


神代中隊長は何も返さなかった。


それで検証は終わった。


誰も俺を褒めなかった。


誰もエースだとは言わなかった。


それが、ありがたかった。


*


帰宅したのは、午後七時四十八分だった。


予定より一時間以上遅れたが、連絡はした。それでも玄関の扉を開ける時には、少し緊張した。


「ただいま」


居間から昴が走ってくる。


「ぱぱ!」


脚へ抱きつかれ、少し遅れて頭へ手を置く。美咲も廊下へ出てきて、俺の顔を見るなり歩みを止めた。


「おかえり。怪我は?」


「ない」


「本当に?」


「本当に」


「ノストスは」


「右肩の装甲を少し。交換すれば直る」


「戦ったの?」


返事が遅れた。


美咲は見逃さない。


「戦ったのね」


「安西さんの救援に出た」


「助けられた?」


「結果としては」


「また、その言い方」


美咲は俺の鞄を受け取って玄関脇へ置き、制服の右肩へ手を当てた。ノストスが傷ついた場所と同じだった。


「あなたは痛くない?」


「痛くない」


「怖かった?」


「後から」


美咲の手が止まる。


「先に着替えて。その後で、ちゃんと話して」


「全部?」


「私が安心するまで。今日は特に長くなると思う」


「卵焼きは?」


「甘いのがある」


そこで、ようやく肩の力が少し抜けた。


昴が俺と美咲を見上げる。


「ぱぱ、かえった」


「帰ってきたね」


美咲が答える。


「ちゃんと帰ってきた」


その言葉を聞いて、俺もようやく家へ戻ったのだと感じた。


*


夕食の卵焼きは甘かった。


結衣は一つ食べた後、残りを箸で押している。


「私は塩味がよかった」


「二種類は面倒だったの」


「朝は作るって言ってたじゃん」


俺が言うと、結衣がこちらを見る。


「聞いてたの?」


「同じ部屋にいたから」


「じゃあ、私が嫌がるって話も聞いてた?」


「それは覚えてない」


「都合が良すぎる。仕事のことは覚えてるのに」


「仕事は記録するから」


「私も記録して。好きな卵焼きは塩味」


「それは前から知ってる」


「なら、昨日の夕飯は?」


考える。


魚だったことは覚えている。


「魚」


「何の魚?」


「そこまでは」


結衣が呆れ、美咲が笑った。


隣では、昴が自分の卵焼きを半分に割り、その片方を俺の皿へ置いた。


「ぱぱ、はんぶん」


「ありがとう。でも昴の分だよ」


「ぱぱ、かえったから」


断る理由がなくなった。


「いただきます」


昴は満足そうに自分の半分を食べ、それから紙のノストスを指した。食卓の端に、本物よりずっと小さな機体が立っている。


「ほんとの、のすとすも、かえった?」


「帰ったよ。右肩を少し傷つけたけど」


昴は自分の右肩へ手を置く。


「いたい?」


「ノストスは、多分痛くない」


「ぱぱは?」


「痛くないよ」


「よかった」


昴の中では、それで話が終わった。父親が痛くない。ノストスも帰った。必要なのは、それだけなのだろう。


「それで、今日は何があったの?」


結衣に聞かれ、箸を置いた。


朝、何もなかったなら何もなかったと話せばいい、と言われた。


今日は、何かがあった。


「安西さんの後ろから、モンスターが来た」


美咲の手が僅かに止まる。


俺は、東側の壁で影を見つけたところから話した。正面の個体と組み合っていた安西機。その右後方から跳ぼうとした二体目。神代中隊長からの救援要請。


ノストスを前へ出し、瓦礫を踏み越え、補助アームで脚を掴んだ。御堂機が撃てる場所へ流し、爪を右肩で受けた。最後は安西機が止めた。


職場では、起きた順番だけを報告した。


家では、その時に見えていたものと、感じなかったものまで言葉にした。


「身体が勝手に動いたみたいだったの?」


結衣が聞く。


「近いと思う」


「すごいじゃん」


「すごいとは思えない」


「どうして? 安西さんを助けたんでしょう」


「結果だけなら。でも、自分がどう考えたのか説明できない」


結衣には、まだ納得できないらしい。


美咲は急がずに聞いていた。


「その時、何をすればいいかは分かったの?」


「分かった」


「訓練でやった?」


「やってない」


「AIが教えた?」


「補助も予測表示も動いていなかった」


「ノストスが勝手に?」


「入力は全部、俺がしてる」


「なら、あなたがやったのよ」


牧野さんと同じ答えだった。


「記録上は」


「記録の話じゃない」


美咲の声が少し強くなる。


「あなたが見て、あなたが動かして、安西さんを助けた。それは、分からないこととは別」


俺はすぐに頷けなかった。


「自分ではないみたいで怖い?」


その言葉が一番近かった。


「うん」


「上手くできたからじゃなく、考えるより先にできたから?」


「多分」


美咲は、俺の皿へ卵焼きを一つ足した。


「今日、全部分かる必要はないでしょう」


「でも――」


「安西さんは帰った?」


「帰った」


「ノストスも?」


「帰った」


「あなたも、ここにいる」


「うん」


「なら、今日はそこまで。続きは明日から考えればいい」


結衣は、さっきより少し落ち着いた顔で俺を見る。


「怖いなら、すごいって言わない方がいい?」


「結衣がそう思ってくれるのは嫌じゃないよ」


「なら、すごい。でも、怖かったんだね」


「うん」


「今日のことは学校で言わない。その代わり、どうしてできたか分かったら教えて」


「分かるかな」


「分からなくても、また聞く。家では長くていいんでしょう」


前に美咲が言ったことを、結衣も覚えていた。


「そうだね」


家族へ話しても、理解できないものは消えなかった。


それでも、理解できないまま一人で抱える必要はなくなった。


*


風呂では、昴が玩具の作業機を湯船へ沈めた。


「たすけて」


水の底へ落ちた機体を拾い、湯船の縁へ置く。


「助けた」


昴が笑って、また沈める。


「たすけて」


二度目も拾う。


三度目だけは、少し考えてから手を伸ばした。


「おそい」


「どう拾えば壊れないか考えてた」


「かんがえないで。はやく」


考えていたら、間に合わないことがある。


考えずに動けば、間違えることもある。


今日の俺が経験したことを、二歳の言葉でそのまま言われた気がした。


「難しいね」


昴は、その言葉が気に入ったらしい。


「むずかしい!」


笑いながら、また玩具を沈める。


家では同じことを、何度繰り返してもいい。


俺も笑って、もう一度拾った。


*


夜、日記を開く。


---


四月十四日。


場所、北東第五再開発区旧物流倉庫群。


任務、設備確認時の警戒、救助線および退避経路の維持。ノストスでの初現場。


敵性個体三体。全個体の活動停止を確認。人的被害なし。


ノストスは安西機の救援へ入り、右肩外装を損傷。全体損傷率八・一パーセント。内部異常なし。


後方を離れる判断には迷った。自分が前へ出れば配置と射線が変わり、失敗すれば安西機とノストスの両方を帰せなくなる可能性があった。


それでも、敵は待たなかった。


理解できないのは、その後。


敵の跳躍に合わせた歩幅、補助アームの展開、右腕の出力、御堂機の射線、右肩で爪を受ける角度。何をすればいいかは分かったが、なぜ分かったのかを説明できない。


操縦入力は自分。AI補助と予測表示は、どちらも使用されていない。


戦闘中の恐怖は自覚できなかった。後方位置へ戻ってから、手が震えた。


牧野さん、安西さん、神代中隊長へ説明したが、結論は出なかった。分からないことを分かったことにせず、記録だけを残す。


帰宅後、美咲は「あなたがやったことと、分からないことは別」と言った。


安西さんは帰った。ノストスも帰った。自分も帰宅した。


結衣は、すごいと言った後、怖かったんだねと言った。


昴は、風呂へ玩具を沈めて、考えないで早く助けてと言った。


考えていては間に合わないことがある。考えずに動けば間違えることもある。


今日は、まだ理解不能。


以上。


---


日記を閉じても、整理はできなかった。


分からないことが、分からないまま文字になっただけだった。


寝室へ行くと、美咲は本を読んでいた。俺を見ると本を閉じ、布団を少し持ち上げる。


「書けた?」


「一応」


「分かった?」


「分からない」


「なら、こっちへ来て」


「まだ早いよ」


「今日は早くていい」


布団へ入ると、美咲の手が俺の右肩へ触れた。ノストスと同じ場所だった。


「痛くない?」


「痛くない」


「ノストスは明日直る?」


「外装を交換すれば」


「なら、あなたも今すぐ直らなくていい」


「壊れてはいないよ」


「分からなくなってる」


「そうかもしれない」


「分かるまで、そのままでいいよ」


「長いかもしれない」


「面倒だけど、いい」


「面倒なんだ」


「面倒よ。でも、好きだから」


今日は、美咲から言った。


「俺も好きだよ」


「今日は遅い」


「言うタイミングを考えてた」


「私には、考えないで言って」


「それは、今日いちばん怖かったことと同じだ」


美咲が顔を上げる。


「なら、私の時だけは怖がらなくていい」


「難しい」


「仕事より?」


「同じくらい」


「また、それ」


美咲が笑い、俺も少し笑った。


理解できないものは、まだ消えない。


それでも、触れている肩と、隣にいる美咲は温かかった。


今夜は、それでよかった。


*


同時刻。


中央戦術支援統合網。


非公開解析領域。


対象――橘蒼真。


任務――初回実地運用。


使用機体――FW-S09、NOSTOS。


敵性個体――三。


撃破――零。


支援行動――一。


味方救援――成功。


人的被害――零。


機体損傷率――八・一パーセント。


致命部位損傷――零。


前衛機平均――三十・四パーセント。


支援機平均――十八・七パーセント。


対象搭乗時平均――五・四五パーセント。


乖離――大。


操縦補助――使用なし。


予測表示――使用なし。


反応速度――基準値の二・四二倍。


選択経路と事後最適経路の一致率――九八・九パーセント。


補助アーム接触可能時間――〇・三五秒。


接触成功確率――一一・二パーセント。


味方保護を含む全行動一致確率――〇・〇〇四パーセント。


入力記録――正常。


改竄――なし。


外部補正――なし。


対象認識――理解不能。


技能自覚――なし。


戦闘中恐怖反応――遅延。


戦闘後恐怖反応――高。


高揚――なし。


達成感――低。


再現意欲――なし。


救援意欲――維持。


戦闘継続欲求――なし。


広域状況統合適性――暫定高。


エース適性――上方修正。


本人自己認識との乖離――拡大。


公開報告――不要。


本人通知――不要。


分類――保留。


観察を継続する。



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