第二十三話 理解不能
四月十四日。
朝。
蒼真が目を覚ますと、隣に昴はいなかった。
ここ数日、夜中になると自分の布団を抜け出し、蒼真の胸か腹の上へ移動してくることが続いていた。眠ったまま首へ腕を回し、服を強く掴む。戻しても、しばらくするとまた来る。
今日は珍しく、自分の布団で眠っている。
小さな身体を横向きに丸め、両手で何かを抱えていた。
昨日作った紙のフレームワーカーだった。
灰色の厚紙を折り、透明なテープで無理やり留めたもの。脚は太く、両腕の長さは違う。背中には紐を丸めた牽引装置らしいものが二つ付いている。
顔には黒い丸が二つ描かれていた。
実物のノストスにはない。
それでも、昴にとってはノストスなのだろう。
「起きたの?」
寝室の入口から、美咲が声をかけてきた。
エプロン姿で、片手に菜箸を持っている。もう朝食の準備を始めているらしい。
「うん」
「昴、今日はそっちへ行かなかったね」
「少し寂しい」
「重いって言ってたのに」
「重いのと、いないのは別だから」
美咲は小さく笑い、蒼真の横へ来た。
二人で布団の中の昴を見る。
「それ、昨日ずっと作ってたの」
美咲が紙の機体を指した。
「一人で?」
「ほとんど。背中の紐だけ手伝った」
「左右で長さが違う」
「直そうとしたら怒った」
「昴らしい」
蒼真が紙の機体へ手を伸ばすと、眠っている昴の腕が少し強く締まった。
取られると思ったのかもしれない。
蒼真は触れるのをやめた。
「今日も訓練?」
美咲が聞いた。
その声は、まだ普段と変わらなかった。
「現場」
美咲の表情が変わった。
ほんの少し。
けれど、蒼真には分かった。
「聞いてない」
「昨日の夜に決まった」
「帰ってから?」
「昴を寝かせている時に端末へ連絡が来た」
「その後、言う時間はあったでしょ」
「美咲も寝てたから」
「起こして」
「嫌じゃない?」
「朝、突然聞く方が嫌」
「ごめん」
美咲はすぐには返事をしなかった。
菜箸を持ったまま、昴の布団を整える。紙のノストスが潰れないよう、枕元の位置を少し直した。
「どこ?」
「北東第五再開発区」
「遠い?」
「基地から三十分くらい」
「何をするの」
「旧物流倉庫の設備確認。昨日、小型個体が二体出た」
「討伐は終わってないの?」
「一体は負傷したまま逃走。もう一体は所在不明」
美咲は蒼真を見る。
質問は、まだ終わっていない。
蒼真も分かっている。
「乗るの?」
「ノストスで行く」
「現場で動かすのは初めて?」
「うん」
「戦う可能性は」
「ある」
予定ではない。
可能性。
今回は、最初からそう答えた。
美咲は目を伏せた。
「嫌だな」
「うん」
「あなたも嫌?」
「嫌だよ」
「そう見えない」
「自分では、かなり嫌そうな顔をしてるつもり」
「してない」
「どんな顔ならいいの」
「分からないけど、もう少し困って」
「困ってるよ」
「顔に出して」
「難しい」
美咲は、菜箸を持っていない方の手で蒼真の頬へ触れた。
冷たい指先だった。
「昨日より硬い」
「何が?」
「顔も。肩も」
美咲の手が、そのまま首筋へ移る。
「もう緊張してる」
「多分」
「まだ家なのに」
「家だからかも」
「どういう意味?」
「出たら仕事になるから」
家にいる間だけ。
自分が怖がっていることを、考えられる。
基地へ着けば、手順。
現場へ着けば、判断。
動かなければならない。
怖いかどうかを確かめる時間はなくなる。
「蒼真」
美咲が言った。
「今日は帰ってきたら、好きなものを作る」
「何でも?」
「常識の範囲で」
「焼き魚」
「いつもと同じ」
「好きだから」
「もう少し、ご褒美っぽいもの」
蒼真は少し考えた。
「甘い卵焼き」
「結衣が嫌がる」
「結衣には別に作って」
「面倒」
「じゃあ、しょっぱい方で」
「すぐ諦めないで」
「どちらが正解?」
「甘い方を作る」
「ありがとう」
美咲は、ようやく少し笑った。
「帰ってきたらね」
「帰ってくる」
「怪我しないで」
「それは努力する」
「そこだけ約束しない」
「相手がいるから」
「相手って言わないで」
「モンスター」
「朝から聞きたくない」
「質問されたから」
「答えなくていいこともあるの」
「家では難しいね」
「家だから、難しくていいの」
美咲は頬から手を離し、台所へ戻った。
蒼真は寝室に残った。
昴の寝息。
紙のノストス。
台所から聞こえる包丁の音。
居間の報道番組。
結衣が起きてくる足音。
この家には、仕事に必要のない音がたくさんある。
だから。
帰ってきたいと思う。
*
朝食の席で、結衣は髪を結びながらパンを食べていた。
片方だけ結び終わり、もう片方は肩へ垂れたままになっている。口にパンをくわえながら、片手で髪をまとめようとしていた。
「食べるか、結ぶか、どちらかにしなさい」
美咲が言った。
「時間ない」
「早く起きればいいでしょ」
「起きたよ」
「起こされてから十分布団にいた」
「起きてた」
「目を閉じて?」
「考え事」
「何を」
「今日の授業」
「時間割も見てなかったのに?」
結衣は答えず、髪をまとめようとした。
美咲が後ろへ回る。
「貸して」
「きつくしないでよ」
「緩いと崩れる」
「お母さん、いつも引っ張りすぎ」
「動かなければ痛くない」
「無理でしょ」
蒼真は味噌汁を飲みながら見ていた。
美咲は結衣の髪を丁寧にまとめ、結び目の高さを左右で合わせる。結衣は文句を言いながらも、鏡を見て少し満足そうだった。
「お父さん」
結衣が言う。
「何?」
「今日、ネクタイ曲がってる」
蒼真は自分の胸元を見る。
「本当に?」
「少し右」
美咲が近づき、結び目を直す。
「朝、私がやった時は真っ直ぐだった」
「何もしてないけど」
「顔を洗う時に触ったでしょ」
「覚えてない」
「そういうところ」
結衣が笑う。
「私の髪は言うのに、自分は曲がってる」
「結衣の髪は分かりやすかった」
「お父さんの方が分かりやすいよ」
「どこが」
「全部」
意味は分からなかった。
美咲が席へ戻る。
「今日、お父さんは現場だって」
結衣の表情が変わった。
「聞いてない」
「今朝言った」
蒼真が答える。
「いつ帰るの?」
「予定では六時半」
「遅れる?」
「可能性はある」
「連絡して」
「する」
「端末の充電」
「満タン」
「予備」
「持ってる」
「本当に?」
「鞄に入ってる」
「見せなくていい」
質問が続く。
結衣は、不安を心配という言葉では言わない。
確認する。
具体的なことを。
蒼真が遅れた時、何が原因だったか覚えているからだろう。
「ノストスで行くの?」
「うん」
「初めての実戦?」
「実戦になるとは限らない」
「モンスターがいるんでしょ」
「いる可能性がある」
「戦ったら、ニュースになる?」
「ならない方がいい」
結衣は少し不満そうな顔をした。
「どうして?」
「何も起きなければ、ニュースにならないから」
「でも、お父さんが活躍したら」
「活躍しない方がいい」
「それじゃ、何のために行くの」
「何も起きないようにするため」
結衣は考えた。
ニュースへ出る父親を、少し誇らしく思っている。
でも。
ニュースへ出るということは、何かが起きたということでもある。
その二つを、まだうまく整理できないらしい。
「じゃあ」
結衣が言う。
「ニュースにならなくても、帰ってきたら話して」
「何を?」
「今日のこと」
「普通なら、何もないよ」
「何もなかったって話せばいいじゃん」
「面白くない」
「お父さんの普通、変だから」
「最近、よく言われる」
「みんな気づいたんだよ」
「何に」
結衣は笑った。
「お父さんが変なことに」
昴が、眠そうな顔で居間へ入ってきた。
片手に紙のノストスを持っている。
床へ引きずりそうになっているが、本人は気にしていない。
「おはよう」
蒼真が言う。
「おはよ」
昴は食卓まで来ると、紙のノストスを蒼真の膝へ置いた。
「持っていく?」
蒼真が聞く。
昴は首を横へ振った。
「こっちは、おうち」
「家で待つの?」
「うん」
「お父さんは?」
昴は蒼真を指差した。
「ほんとの、のすとす」
「乗るね」
「かえったら、いっしょ」
紙の機体と。
本物の機体。
帰ってきたら並べる。
そういうことらしい。
「分かった」
蒼真が言う。
「並べよう」
昴は満足し、自分の椅子へ上ろうとした。足が届かず、何度か滑る。
蒼真が抱き上げて座らせる。
「ぱぱ、きょう、ばんばん?」
「できれば、しない」
「しない?」
「うん」
「やくそく?」
難しい。
蒼真が迷っていると、美咲が口を開いた。
「お父さんはね、撃たなくていいようにお仕事するの」
昴は美咲を見る。
「でも、必要なら撃つこともある」
美咲は続ける。
優しい声だった。
「その代わり、ちゃんと帰ってくる」
昴は少し考えた。
「いっしょに?」
「一人で帰らないようにするんだって」
蒼真は美咲を見る。
朝の会話。
家族の前で。
別の言葉へ変えてくれた。
「そうなの?」
昴が蒼真へ聞く。
「そうだよ」
「じゃあ、いい」
許可。
二歳の判断。
その単純さに。
少し救われる。
「お父さん」
結衣が言った。
「今日、怖い?」
「怖いよ」
「でも行く?」
「行く」
「何で?」
「仕事だから」
いつもの答え。
結衣は、以前より納得しなくなった。
「それだけ?」
蒼真は少し考える。
「帰ってくる人を増やしたいから」
「お父さんが?」
「自分一人では無理だけど」
「でも、やるんでしょ」
「できることは」
結衣は少しだけ笑った。
「やっぱり変」
「そうかな」
「優しいって言うと嫌がるし」
「嫌がってない」
「じゃあ、優しい?」
「普通」
「ほら」
結衣と美咲が、同時に笑った。
昴も、意味が分からないまま笑う。
家の中では。
話が終わらない。
一つの質問から。
別の話へ。
笑いへ。
心配へ。
また。
朝食へ戻る。
蒼真は。
それが好きだった。
*
基地へ着くまでの車内では、誰とも話さなかった。
窓の外を倉庫や高架道路が流れていく。
昨日までの訓練場とは違う。
今日は実際の現場へ向かう。
ノストスの操縦手順。
救助装備。
牽引装置。
退避経路の構築。
覚えたことを、頭の中で順番に確認する。
戦闘装備は最後にした。
短距離防御砲。
迎撃装置。
煙幕。
使わないことが一番いい。
それでも。
使わなければならない時がある。
そう教えられている。
第三中隊の基地へ着くと、片瀬が格納庫前で待っていた。
「おはようございます」
「おはようございます」
「眠れました?」
「少し」
「初現場ですからね」
「片瀬さんは?」
「最初は吐きました」
「本当だったんですか」
「半分」
「どちらですか」
「今日は考えなくていいです」
片瀬は、蒼真の搭乗服を見た。
「自分で着られました?」
「二回やり直しました」
「十分です」
「牧野さんには」
「黙っておきます」
「助かります」
現場へ出る前。
まだ。
会話は普通だった。
安西も格納庫にいる。
ノストスを見上げていた。
「初実戦」
「そうなれば」
蒼真が答える。
「怖い?」
「はい」
「俺も」
「そう見えません」
「見せないから」
「自分は見えているそうです」
「家族に?」
「はい」
安西は少し笑った。
「それでいいんじゃないか」
それ以上は言わなかった。
牧野が右脚部の点検口から出てくる。
「橘」
「はい」
「今日、壊してもいい」
「はい」
「帰せ」
「はい」
「自分も」
「分かっています」
「本当に?」
美咲と同じ。
家族と整備士は。
似たことを聞く。
「帰ってきます」
牧野は頷いた。
「なら乗れ」
神代が格納庫へ入る。
全員が向く。
「現場説明」
端末へ地図が表示される。
北東第五再開発区。
旧物流倉庫群。
前日に小型個体二体を確認。
一体負傷。
一体所在不明。
設備会社。
管理局。
消防。
作業員。
合計四十名。
「目的は警戒と設備確認」
神代が言う。
「討伐優先ではない。民間人保護。退路維持。発見時は分離して排除する」
片瀬が地図を見ながら聞く。
「地下反応は」
「なし」
安西。
「外周」
「昨日夜間に確認済み」
御堂。
「増援」
「基地待機二機」
神代が蒼真を見る。
「橘」
「はい」
「後方。救助線を維持。前へ出るな」
「了解」
「ただし」
神代は少し間を置いた。
「必要なら出ろ」
「判断基準は」
「現場で決めろ」
説明は。
それだけ。
蒼真は頷いた。
*
午前九時十三分。
北東第五再開発区。
旧物流倉庫群。
外壁。
鉄骨。
剥がれた舗装。
風。
砂。
第三中隊。
四機。
神代機。
片瀬機。
安西機。
御堂機。
後方。
ノストス。
管理局。
現地班。
消防。
作業員。
敵性反応。
なし。
神代。
『配置』
片瀬。
『東』
安西。
『北』
御堂。
『西』
蒼真。
「後方。救助線確保」
『開始』
短い。
現場では。
それで足りる。
作業。
開始。
切断音。
車両。
機関。
風。
ノストス。
後方。
全体表示。
作業員。
二十六。
消防。
八。
管理局。
六。
第三中隊。
四。
位置。
確認。
《敵性反応》
弱。
南東。
「反応。南東。弱」
神代。
『種類』
「不明」
『片瀬』
『確認』
片瀬機。
移動。
建物の影。
小型。
一体。
脚部負傷。
動き。
遅い。
神代。
『確保』
片瀬。
『了解』
安西。
北から。
御堂。
西から。
包囲。
小型。
跳躍。
片瀬。
防盾。
安西。
側面。
打撃。
神代。
杭撃ち。
停止。
《活動停止》
戦闘。
終了。
早い。
蒼真は息を吐いた。
ノストスは。
動かなかった。
それでいい。
*
作業は再開された。
午前十一時を過ぎても、残る一体は見つからなかった。
蒼真は後方から、倉庫群と作業区域全体を監視していた。地図上では、すべてが予定通りに進んでいる。
南側倉庫では、管理局の設備班が地下配管を確認している。消防は入口付近で待機。第三中隊の四機は、それぞれ視界を重ねるように配置されている。
「橘さん」
管理局の現地責任者から通信が入る。
「地下振動を検出しました」
「周期は?」
「一定です。設備由来と見ています」
「発生源は?」
「南側の旧圧送管。現在、確認中です」
「数値を共有してください」
「送ります」
受け取った波形を確認する。
一定。
変化なし。
昨日の処理場とは違う。
それでも。
蒼真は記録を残す。
「確認を継続してください。数値が変化したら作業を止めます」
「了解しました」
現場に入る前は、こうして会話が続く。
確認。
理由。
共有。
まだ。
時間がある。
蒼真は全体表示へ戻った。
神代機は南東。
片瀬機は東側倉庫の外。
安西機は北道路。
御堂機は西側。
作業員は南側倉庫と中央通路。
消防は入口。
全員。
位置。
確認。
その時。
ノストスの右側映像の端で、何かが動いた。
表示へは出ていない。
崩れた東側外壁。
黒い影。
一瞬。
消える。
「東側。外壁裏」
片瀬。
『反応なし』
「映像に動き」
『確認する』
片瀬機が向きを変える。
黒い影。
飛び出す。
小型。
一体。
速い。
片瀬機。
瓦礫。
回避。
敵。
死角へ。
その奥。
もう一つ。
影。
一体ではない。
二体。
「安西。右後方」
『見えない』
「接近。二十」
安西機。
正面。
小型。
組み付き。
防盾。
固定。
右後方。
二体目。
跳躍姿勢。
「神代」
『片瀬対応中』
「救援」
一秒。
『頼む』
それだけ。
蒼真は迷った。
自分が。
出る。
ノストスは支援機。
戦闘型ではない。
安西機まで。
百八十。
片瀬機の射線。
御堂機の位置。
神代機の移動。
自分が入れば。
配置が変わる。
連携を乱す。
失敗。
安西機。
ノストス。
両方。
損傷。
敵は。
待たない。
跳ぶ。
身体が動いた。
推進。
四十二。
左脚。
先行。
姿勢。
三度。
ノストス。
加速。
瓦礫。
右。
避けない。
踏む。
距離。
百二十。
防御砲。
使わない。
敵。
跳躍。
軌道。
見える。
左へ半歩。
補助アーム。
展開。
右脚。
掴む。
届く。
なぜ。
考えない。
本体右腕。
胴。
押す。
二割。
流す。
敵。
横。
御堂機。
射線。
『撃つ』
一発。
敵。
落下。
活動。
継続。
ノストス。
前。
爪。
右肩。
避ける。
全部は。
避けない。
右肩。
角度。
受ける。
衝撃。
《損傷。八パーセント》
爪。
流れる。
胴。
開く。
安西機。
振り向く。
杭撃ち。
停止。
砂。
煙。
静か。
蒼真の手は。
震えていない。
息も。
乱れていない。
何をした。
なぜ。
分かった。
神代。
『状態』
「右肩八」
『搭乗者』
「異常なし」
『安西』
『無傷』
『片瀬』
『排除』
『御堂』
『異常なし』
『再配置』
全員。
動く。
現場では。
考えない。
次へ。
ノストス。
後方。
戻る。
右肩。
機能。
正常。
救助装備。
正常。
自分。
正常。
表示。
そう出ている。
蒼真には。
それが。
一番分からなかった。
*
午後零時五分。
敵性個体は三体すべて排除された。
民間人と隊員に負傷者は出なかった。設備確認は中断され、作業員は予定していた退避経路から全員撤収した。
帰還後。
第三格納庫。
ノストスは整備架台へ固定され、右肩の装甲だけが外されていた。
三本の爪痕が、装甲の外側を斜めに走っている。
深い。
しかし、その下にある内部フレームや駆動部には届いていない。
牧野は何も言わず、傷の角度を測っていた。
測定器を当てる。
数値を記録する。
位置を変える。
もう一度。
蒼真と安西は、少し離れた場所で待っていた。
整備員たちも、普段より静かだった。
牧野は戦闘映像を表示する。
ノストスが前へ出る。
敵の脚を補助アームで捉える。
胴を押す。
御堂機の射線へ流す。
敵の爪。
右肩。
角度。
受ける。
映像を止める。
少し戻す。
再生。
また止める。
次に、操縦記録を開く。
推進出力。
脚部位置。
姿勢補正。
補助アームの展開時刻。
右腕出力。
被弾時の装甲角度。
すべて。
秒以下の単位で残っている。
「八・一パーセント」
牧野がようやく言った。
「全体損傷率ですか」
蒼真が聞く。
「ああ」
「高いですか」
牧野は答えず、別の記録を表示した。
前衛機の平均損傷率。
三十・四パーセント。
支援機。
十八・七パーセント。
ノストス。
今回。
八・一。
訓練時の軽微損傷を含めた累積。
五・四五。
「支援機なので」
蒼真が言った。
「後方にいたのは途中までだ」
牧野は映像を指す。
「ここから先は前衛だ」
「短時間です」
「被弾もしている」
「一度だけ」
「だからおかしい」
牧野の声は低かった。
怒ってはいない。
困っている。
そのように聞こえた。
安西が腕を組んだまま、ノストスの右肩を見る。
「避けられたよな」
「全部なら」
蒼真が答える。
「なぜ避けなかった」
「避けると、爪が安西機の脚部へ向かうと思いました」
「思った?」
「はい」
「見えたのか」
「分かりません」
安西の眉が寄る。
「分からないのに、肩を出した?」
「その時は、そうすればいいと分かりました」
「それを分かったって言うんだ」
「なぜ分かったのかが分かりません」
牧野が映像を拡大する。
爪の軌道。
安西機の位置。
ノストスの右肩。
「避けた場合を出せ」
整備用AIが、推定映像を作る。
ノストスが完全回避。
爪が流れる。
安西機の右脚。
接触。
姿勢。
崩れる。
正面で組み付いていた一体が押し込む。
転倒。
予測損傷率。
三十八パーセント。
搭乗者負傷確率。
一四パーセント。
安西は映像を黙って見た。
「本当に、そこまで見えてたのか」
「分かりません」
「またそれか」
「他に答えがないので」
牧野は、今度は補助アームの動きを拡大した。
敵の脚へ接触した時間。
〇・三秒。
接触可能時間。
〇・三五秒。
通常の自動補助は作動していない。
「AI補助は?」
蒼真が聞く。
「ゼロ」
「予測表示」
「出ていない」
「なら」
「お前がやった」
牧野は短く言った。
蒼真は記録を見る。
確かに。
入力したのは自分だ。
右手。
左脚。
出力。
角度。
すべて。
記録は正確だった。
改竄も。
補正も。
ない。
けれど。
覚えていない。
いや。
出来事は覚えている。
何をしたかも分かる。
ただ。
どうして、それが正しいと分かったのか。
そこだけが。
抜けている。
「理解できません」
蒼真が言った。
牧野はノストスの右肩へ手を置いた。
「俺もだ」
安西も。
「俺も」
三人が。
同じ機体を見る。
ノストスは。
何も答えない。
爪痕だけが。
そこにある。
しばらくして、神代が格納庫へ入ってきた。
「報告」
牧野が端末を渡す。
「右肩外装。八・一。内部異常なし。交換で復帰」
「搭乗者」
「異常なし」
神代は蒼真を見る。
「判断を説明しろ」
蒼真は、現場で起きたことを順番に話した。
安西機の右後方に個体を確認。
通信。
神代から救援指示。
ノストスで接近。
敵の脚部を補助アームで捕捉。
御堂機の射線へ移動。
右肩で攻撃を受け。
安西機が排除。
神代は途中で遮らなかった。
最後まで聞いた後、質問した。
「計画したか」
「していません」
「どの時点で動きを決めた」
「分かりません」
「敵の軌道は見えたか」
「見えたような気はします」
「気は?」
「記憶が曖昧です」
「恐怖は」
蒼真は少し考えた。
戦闘中。
手は震えなかった。
息も。
乱れなかった。
敵の爪。
迫る。
右肩。
受ける。
怖いと。
思わなかった。
「後から」
答える。
神代の目が細くなる。
「その時は」
「何も」
神代はしばらく黙った。
それから、もう一度映像を見た。
一回。
二回。
三回。
蒼真の動きだけではない。
片瀬機。
安西機。
御堂機。
神代機。
全体。
配置。
射線。
敵。
作業員の退避路。
すべてを見ている。
「牧野」
「何だ」
「記録に異常は」
「ない。全部正確だ」
「補正」
「なし」
「報告区分」
牧野は少し迷った。
「通常損傷。支援機。後方配置。軽微」
「そうか」
記録上。
何もおかしくない。
支援機が。
軽微な損傷を受けた。
それだけ。
前へ出た時間は短い。
敵を撃破していない。
味方救援。
成功。
報告書に。
異常と書く欄はない。
神代は端末を閉じた。
「橘」
「はい」
「再現できるか」
「分かりません」
「同じ状況なら」
「同じように動くかもしれません」
「理由は」
「分かりません」
神代は頷いた。
「なら、今はそれでいい」
「いいんですか」
「良くはない」
「では」
「分からないことを、分かったことにする方が悪い」
神代はノストスを見る。
「ただし、記録は残せ」
「はい」
「全部だ」
「はい」
「迷ったことも」
久賀の言葉と。
同じ。
迷わなかったように書くな。
後から見る人間が。
間違った自信を持つ。
「分かりました」
神代は安西を見る。
「お前は」
「助けられました」
「感想ではなく報告」
「右後方への警戒不足。正面個体へ意識集中。橘の警告後も対応不能」
「次」
「同じ配置にはしません」
「橘の救援は」
安西は、少しだけ蒼真を見る。
「適切です」
「以上」
それで。
検証は終わった。
誰も。
蒼真を褒めなかった。
誰も。
エースだとは言わなかった。
それが。
助かった。
*
帰宅したのは、午後七時四十八分だった。
予定より一時間以上遅れた。
連絡はした。
それでも、玄関の扉を開ける時。
少し緊張した。
「ただいま」
居間から、昴の足音が聞こえる。
「ぱぱ!」
走ってきた昴が、蒼真の脚へ抱きつく。
蒼真は少し遅れて、その頭へ手を置いた。
美咲が廊下へ出てくる。
蒼真の顔を見る。
すぐに。
何かを感じたらしい。
「おかえり」
「ただいま」
「怪我は?」
「ない」
「本当に?」
「本当に」
「ノストスは」
「右肩を少し」
「少しって?」
「全体の八パーセント」
美咲は眉を寄せる。
「数字で言われても分からない」
「装甲交換で直る」
「戦ったの?」
蒼真の返事が。
少し遅れた。
美咲は見逃さない。
「戦ったのね」
「救援に出た」
「誰の?」
「安西さん」
「助けた?」
「結果としては」
「また、そういう言い方」
美咲は蒼真の鞄を受け取り、玄関の脇へ置いた。
それから、制服の右肩へ触れる。
ノストスが傷ついた場所と同じ。
「あなたは痛くない?」
「痛くない」
「怖かった?」
「後から」
美咲の手が止まる。
「後から?」
「その時は、分からなかった」
「何が?」
「自分が何をしているかは分かってた。でも、どうしてそれができたのか分からない」
美咲は少しだけ蒼真を見つめた。
玄関では。
それ以上聞かなかった。
「先に着替えて」
「夕飯は?」
「温める」
「卵焼き」
「あるよ」
「甘い方?」
「約束したでしょ」
蒼真は息を吐いた。
少し。
肩の力が抜ける。
「ありがとう」
「先に着替えて」
「うん」
「その後、ちゃんと話して」
「全部?」
「私が安心するまで」
朝と同じ。
「長そう」
「今日は特に」
昴が下から、二人を見上げている。
「ぱぱ、かえった」
「帰ったね」
美咲が答える。
「ちゃんと帰ってきた」
その言葉を聞いて。
蒼真も。
ようやく。
自分が家へ戻ったのだと感じた。
*
夕食の卵焼きは甘かった。
結衣は一つ食べた後、不満そうに箸で残りを押している。
「私はしょっぱい方がよかった」
「別に作るのは面倒だった」
美咲が答える。
「朝、作るって言ってたじゃん」
蒼真が言う。
結衣が蒼真を見る。
「聞いてたの?」
「いたから」
「じゃあ、私が嫌だって言ったのも聞いてた?」
「それは覚えてない」
「都合良すぎ」
「全部は覚えられないよ」
「仕事のことは覚えてるのに」
「仕事は記録するから」
「私も記録して」
「何を?」
「好きな卵焼き」
「しょっぱい方」
「今覚えた?」
「前から知ってた」
「嘘」
「本当」
「じゃあ昨日の夕飯は?」
「魚」
「何の魚?」
蒼真は止まった。
「魚」
結衣が呆れた顔をする。
美咲が笑う。
昴は、自分の卵焼きを半分に割り、その一つを蒼真の皿へ置いた。
「ぱぱ、たべる」
「昴のだよ」
「はんぶん」
「ありがとう」
昴は、自分の残りを口へ入れた。
「のすとす、いた?」
「いたよ」
「かえった?」
「帰った」
「けが?」
「右肩を少し」
昴は自分の右肩へ手を置く。
「いたい?」
「ノストスは、多分痛くない」
「ぱぱは?」
「痛くないよ」
「よかった」
それで。
昴の中では終わる。
父親が痛くない。
ノストスも帰った。
必要なことは。
それだけ。
「今日、何があったの?」
結衣が聞いた。
蒼真は箸を置いた。
朝。
普通の話でいい。
そう言われた。
今日は。
普通ではなかった。
「安西さんの後ろから、モンスターが来た」
美咲の手がわずかに止まる。
結衣は真剣な顔になる。
「安西さんは気づいてなかったの?」
「目の前の個体と組み合ってた」
「お父さんには見えた?」
「後方から見てたから」
「それで、連絡した?」
「右後方って」
「安西さんは?」
「手が離せないって」
「神代さんは?」
「救援を頼むって言った」
結衣の目が少し大きくなる。
「お父さんに?」
「うん」
「すぐ行った?」
「迷った」
「何で?」
「自分が前へ出たら、全体の動きが変わる。片瀬さんや御堂さんの射線も変わる。失敗したら安西さんだけじゃなく、ノストスも動けなくなる」
「でも、行ったんでしょ」
「敵は待たないから」
「どうしたの?」
蒼真は。
今日の出来事を。
家族へ話す。
ノストスを走らせた。
瓦礫を避けずに踏んだ。
補助アームで敵の脚を掴んだ。
御堂機の射線へ流した。
爪を右肩で受けた。
安西機が止めた。
一つずつ。
職場では。
報告として話した。
家では。
その時に見えたもの。
感じなかったもの。
後から怖くなったこと。
少しずつ言葉へする。
「身体が勝手に動いたみたいだった」
結衣が言う。
「そう」
「すごいじゃん」
「すごくない」
「どうして?」
「自分で考えてないから」
「でも、助けたよ」
「結果は」
「結果が大事じゃないの?」
「結果だけなら」
結衣は少し不満そうだった。
美咲は、急がずに聞いている。
「蒼真」
「うん」
「その時、何をすればいいかは分かったの?」
「分かった」
「どうして?」
「分からない」
「訓練でやった?」
「やってない」
「AIが教えた?」
「教えてない」
「ノストスが勝手に?」
「入力は自分」
「じゃあ、あなたがやった」
格納庫でも。
同じことを言われた。
「記録では」
「記録じゃなくて」
美咲の声が少し強くなる。
「あなたが見たんでしょう」
「うん」
「あなたが動かした」
「うん」
「あなたが安西さんを助けた」
「そうなる」
「そうなる、じゃない」
美咲は、蒼真の皿へ卵焼きを一つ追加した。
「あなたがやったの」
蒼真は。
すぐには頷けなかった。
「自分じゃないみたいだった?」
美咲が聞く。
その言葉が。
一番近い。
「うん」
「怖いのは、上手くできたこと?」
「違うと思う」
「考えなくてもできたこと?」
「多分」
「それなら、今すぐ分からなくてもいいんじゃない」
「でも」
「今日、全部分かる必要ある?」
「ないかもしれない」
「安西さんは帰った?」
「帰った」
「ノストスも?」
「帰った」
「あなたも?」
「帰った」
「じゃあ、今日はそこまで」
美咲は言った。
「続きは、明日考えればいい」
結衣が蒼真を見る。
さっきまでの興奮が。
少し落ち着いている。
「お父さん」
「何?」
「怖いなら、すごいって言わない方がいい?」
「言ってもいいよ」
「でも嫌なんでしょ」
「結衣がそう思うことは嫌じゃない」
「じゃあ、すごい」
少し間。
「でも、怖かったんだね」
「うん」
結衣は頷いた。
「じゃあ、今日の話は学校では言わない」
「助かる」
「その代わり、また聞く」
「何を?」
「どうしてできたか分かった時」
「分かるかな」
「分からなくても聞く」
「長くなりそう」
「家では長くていいんでしょ」
美咲の言葉。
覚えていた。
「そうだね」
蒼真は笑った。
少し。
本当に。
肩の力が抜けた。
*
風呂では、昴が作業機の玩具を何度も湯船へ沈めた。
「たすけて」
沈む。
蒼真が拾う。
「助けた」
昴が笑う。
また沈める。
「たすけて」
拾う。
「助けた」
「ぱぱ、はやい」
三回目。
蒼真は少し考えてから手を伸ばした。
「おそい」
「考えてた」
「かんがえないで」
「考えないと危ないよ」
「でも、はやく」
矛盾。
今日。
自分が経験したことと同じだった。
考えていては。
間に合わなかったかもしれない。
けれど。
考えずに動くことが。
正しいとも思えない。
「難しいね」
蒼真が言う。
昴は、その言葉が面白かったらしい。
「むずかしい!」
笑う。
玩具を沈める。
「たすけて!」
蒼真も笑った。
もう一度。
拾う。
家では。
同じことを。
何度繰り返してもいい。
*
夜。
日記。
---
四月十四日。
北東第五再開発区。
初実戦。
敵性個体。
三体。
全個体。
排除。
負傷者。
なし。
機体損傷。
ノストス。
右肩。
八・一パーセント。
軽微。
安西さん。
無傷。
右後方。
敵。
接近。
連絡。
手が離せない。
神代隊長。
救援を頼む。
迷った。
前へ出る。
連携。
乱す可能性。
失敗。
安西機。
損傷。
ノストス。
損傷。
考えた。
でも。
敵は待たない。
次。
理解不能。
身体が動いた。
何をすればいいか。
分かった。
出力。
歩幅。
角度。
補助アーム。
右肩。
考えていない。
記録には残っている。
自分が入力。
AI補助。
なし。
予測表示。
なし。
何で分かった。
理解不能。
怖かったか。
その時。
分からない。
後から。
怖い。
自分ではないような。
でも。
自分がやった。
美咲。
そう言った。
安西さん。
帰った。
ノストス。
帰った。
自分。
帰宅。
結衣。
すごいと言った。
怖かったんだね。
とも言った。
昴。
玩具。
何度も沈めた。
考えないで。
早く。
と言った。
難しい。
今日は。
理解不能。
それだけ。
以上。
---
日記を閉じる。
書けば。
整理できると思った。
できなかった。
分からないことが。
文字になっただけ。
寝室へ行くと、美咲は本を読んでいた。
蒼真が入ると、本を閉じる。
「書けた?」
「一応」
「分かった?」
「分からない」
「そう」
美咲は布団を少し持ち上げた。
「こっち来て」
「まだ早いよ」
「今日は早くていい」
蒼真は布団へ入る。
美咲が右肩へ触れる。
ノストスと同じ場所。
「痛くない?」
「痛くない」
「本当に?」
「うん」
「ノストスは?」
「明日、装甲交換」
「直る?」
「一日で」
「じゃあ良かった」
「うん」
美咲は蒼真の肩へ額をつけた。
「あなたも」
「何?」
「今すぐ直らなくていいから」
「壊れてないよ」
「分からなくなってる」
「そうかも」
「分かるまで、このままでいい」
「長いかもしれない」
「いいよ」
「面倒じゃない?」
「面倒」
即答だった。
蒼真は少し笑う。
「でも」
美咲が続ける。
「好きだから」
今日は。
美咲から言った。
「自分も好きだよ」
「今日は遅い」
「言うタイミングが」
「考えないで言って」
「それ、今日怖かったことと同じ」
美咲が顔を上げる。
「じゃあ、私には考えないで」
「難しい」
「仕事より?」
「同じくらい」
「またそれ」
美咲が笑う。
蒼真も。
少し笑った。
理解不能。
消えない。
でも。
美咲の額。
肩。
温かい。
家。
今は。
それでよかった。
*
同時刻。
中央戦術支援統合網。
非公開解析領域。
対象。
橘蒼真。
任務。
初実戦。
機体。
FW-S09。
ノストス。
敵性個体。
三。
撃破。
零。
支援行動。
一。
救援。
成功。
操縦補助。
零。
予測表示。
零。
反応速度。
二・四二倍。
最適経路。
一致。
九八・九。
歩幅誤差。
〇・六。
出力誤差。
〇・三。
接触成功率。
一一・二。
実績。
成功。
損傷。
八・一。
致命部位。
零。
前衛平均。
三〇・四。
支援平均。
一八・七。
ノストス累積。
五・四五。
乖離。
大。
記録。
正常。
改竄。
なし。
補正。
なし。
異常報告。
不要。
理由。
支援機。
後方配置。
軽微損傷。
現場状況。
不一致。
被弾。
選択。
損傷部位。
選択。
味方保護。
優先。
偶然確率。
〇・〇〇四。
本人認識。
理解不能。
技能自覚。
なし。
高揚。
なし。
達成感。
低。
恐怖。
遅延。
上昇。
再現意欲。
なし。
救援意欲。
維持。
戦闘継続欲求。
なし。
特異性。
上昇。
分類。
保留。
エース適性。
上昇。
非公開。
本人通知。
不要。
観察。
継続。
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第二十三話 終
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