↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
28/113

第二十二話 全員を帰す日

四月十日。


目を覚ますと、胸の上に昴がいた。


小さな頭が顎のすぐ下にあり、頬を寝間着へ押しつけたまま眠っている。片腕は俺の首へ回され、もう片方の手は服をしっかり掴んでいた。


二歳の身体は小さい。


だが、眠っている子供は不思議なほど重い。


首だけを動かして隣を見ると、美咲はすでに目を覚ましていた。枕へ頬をつけたまま、俺と昴を見ている。


「いつから?」


声を落として聞く。


「夜中」


「知ってたの?」


「一度は、自分の布団へ戻したよ」


「戻ってきた?」


「自分で這ってきた。あなたが逃げないように押さえてるのかも」


「二歳で?」


「あなたより賢いかもしれない」


「それは困る」


「もう困ってるでしょう」


美咲の指が伸び、昴の髪へ触れた。寝癖で跳ねた部分を撫でるが、すぐに元へ戻る。


窓の外はまだ薄暗い。


昨日までと同じ朝だった。


けれど、俺の身体には、昨日初めて座った支援機の感触が残っていた。


硬い座席。胸部装甲の内側に響いた整備音。中央表示へ浮かんだ白い文字。


《NOSTOS》


ノストス。


故郷への帰還。


名前を思い出すだけで、胸の奥が少し重くなる。


「昨日の機体」


美咲が言った。


考えていることを見られていたようなタイミングだった。


「どんな機体だった?」


「昨日、話したよ。大きくて、重くて、不格好」


「それは機械の説明でしょう。あなたは、どう思ったの」


機体についてなら説明できる。重量、装備、牽引能力、装甲、救助ポッド。


どう思ったのかと聞かれると、急に難しくなる。


「頼りになりそうだった」


「好きになれそう?」


「まだ分からない」


「乗りたくない?」


「乗りたくない」


答えはすぐに出た。


美咲が頷く。安心したようにも見えた。


「でも、今日は乗るんでしょう」


「初めて起動する。歩行と救助、それから損傷機の回収訓練だと聞いてる」


「撃つの?」


「武器を使う予定はない」


「予定は、ね」


美咲は、もう俺の言い方を覚えている。


「訓練内容は、現場で追加されるらしい」


「どうして前日に全部教えないの」


「予定通りにならない時の反応も見るから、だと思う」


「そうやって、何でも現場のせいにする」


「俺も、先に教えてほしい」


「あなたまで同意しないで」


少しだけ声が強くなり、昴が眉を寄せた。


二人とも黙る。


昴は目を覚まさず、俺の服を握る手だけに力を入れた。


美咲が息を吐く。


「怖い?」


「うん」


「昨日より?」


少し考える。


昨日は、まだ座っただけだった。今日は、機体が自分の手で動く。動かせれば、次は現場へ出る。誰かを助けられるかもしれないし、助けられないかもしれない。


「昨日は、あの大きさが怖かった。今日は、自分が動かすことが怖い」


美咲はしばらく黙り、俺の顔を見た。


「怖いって言えてるなら、まだ大丈夫なのかな」


「神代中隊長も、似たことを言っていた。怖くなくなったら搭乗から外すって」


「本当に外してくれる?」


「多分」


「なら、ずっと怖がっていて」


「それはそれで辛いよ」


「でも、帰ることは考えるでしょう」


「うん。怖い方が、帰る方法を探すと思う」


美咲の指が、俺の手を探した。間に昴がいるので、うまく握れない。それでも指先だけが触れる。


「帰ってきたら、今日も話して」


「何を?」


「誰が何を言ったとか、何を食べたとか、何が怖かったとか」


「全部?」


「私が安心するまで」


「長そうだね」


「嫌?」


「嫌じゃない」


「それと、玄関でちゃんと『ただいま』って言って」


「いつも言ってるよ」


「疲れて、そのまま入ってくる日がある」


「気をつける」


「約束」


約束。


昨日から、何度も出てくる言葉だった。


胸の上で眠る昴を見る。小さな指は、今も俺の寝間着を掴んでいる。


「約束する」


「それから、好きも時々言って」


「いつ?」


「自分で考えて」


「難しい」


「仕事より?」


「同じくらい」


「それ、褒めてないから」


美咲が笑った。


その声で、昴がゆっくり目を開けた。


最初に俺の顎を見て、次に美咲を見る。二人の顔を交互に確かめた後、もう一度俺の胸へ顔を押しつけた。


「おはよう」


美咲が言う。


「まだ、ねる」


「目、開いてるよ」


「ねる」


「お父さん、仕事なんだけど」


「だめ」


即答だった。


美咲が笑う。


「ほら。やっぱり逃がさないつもりだった」


「昴。今日、ノストスを動かすんだ」


「のすとす?」


昨日、何度か教えた名前だが、まだ覚えていないらしい。


「お父さんが乗る、大きなフレイムワーカー」


「ばんばんする?」


「できれば、ずっとしない」


「かえる?」


「帰る」


昴は少し考え、ようやく身体を起こした。


「じゃあ、いっていい」


許可が出た。


「ありがとう」


「おもちゃは?」


「ノストスの中に置いてあるよ。なくさないように留めてきた」


「まもってる?」


「多分、守ってくれてる」


「ぱぱとのすとす?」


「両方」


昴は満足したように頷き、今度こそ俺の胸から降りた。


*


朝食の席で、結衣は制服姿のまま端末を見ていた。片手でパンを持ち、もう片方の指で画面を送っている。


「食事中」


美咲に言われ、結衣は端末を伏せた。


十秒も経たず、また開く。


美咲が黙って見つめると、今度はゆっくり伏せた。


「何を見てるの」


俺が聞く。


「お父さん」


「ここにいるよ」


「ネットのお父さん」


嫌な言葉だった。


「昨日の記事?」


「今朝の新しいやつ。見せたら置くから」


結衣は先に美咲へ言い訳し、端末を俺へ向けた。


画面には、第三中隊へ着任した俺の記事が表示されている。管理局を出たところで撮られたらしく、濃紺の制服で私物の箱を抱え、その中から小さな鉢植えまで覗いていた。


顔も、はっきり写っている。


「いつ撮られたんだろう」


「全然気づいてない顔だね」


「気づいていなかったからね」


「コメントもすごいよ」


結衣が画面を送る。


『現場判断を無視した結果が、旧南部環状処理場の事故だ』


『第六中隊だけを責めるのは違う』


『管理局による英雄作り』


『異例の現場編入』


『適性値が高いらしい』


『新しいエース候補』


エース。


昨日は、機体へ座っただけだった。


手は汗ばんでいた。怖いと申告し、AIから正常だと返された。操縦桿すら動かしていない。


それでも、画面の中では、次代のエース候補という知らない人間に変わっていた。


「お父さん、エース候補だって」


結衣の声は少し明るい。


「違うよ」


「まだ分からないじゃん。最近は、敵を倒した数だけじゃなくて、救助数や生還率でも呼ばれるんだって」


「誰が決めたの」


「SNS」


「信頼できない」


「お父さん、SNS嫌いだよね」


「嫌いというより、使う必要がない」


「それを使えないって言うんだよ」


美咲が少し笑った。


「学校で話してるの?」


「少しだけ。みんな、すごいって言ってた」


「何もしていないよ」


「第三中隊に入ったでしょう」


「入っただけ」


「今日は動かすんでしょう」


「歩かせる予定」


「なら、今日からエースへの一歩」


「違う」


「頑固」


結衣は、少し嬉しそうだった。


父親の名前が記事に出る。友達も知っている。特別な部隊へ入った。それを誇らしく思ってくれているのだろう。


その気持ちまで否定したくはなかった。


「結衣」


「何?」


「格好いいと思ってくれるのは、嫌じゃないよ」


結衣が少し驚く。


「じゃあ、自慢していい?」


「そこまでは言ってない。ただ、画面に出ている人と、家にいるお父さんは少し違う」


「同じ人でしょう」


「同じだけど、画面には映らないものがある」


「何が?」


自分の手を見る。


昨日、操縦桿へ置いた時、少し震えていた手。


「その人が、どれくらい怖がっているか」


結衣は納得できない顔をした。


美咲が俺の湯飲みへ茶を足す。


「お父さん自身も、自分のことを全部分かっているわけじゃないけどね」


「俺も?」


「自分を普通だと思っているでしょう」


「普通だよ」


「怖い時に怖いと言うところは普通。でも、怖いまま行くところは、少し変」


結衣が笑った。


「やっぱり変なんだ」


「少しって言ったでしょう」


「同じだよ」


「違う」


さっきまで尖っていた空気が、少し緩んだ。


結衣が端末を伏せる。


「帰ってきたら、ノストスが歩いたところを話して」


「面白くないと思うよ」


「転ぶかもしれないじゃん」


「転ばない」


「絶対?」


「転ばずに帰る」


結衣は満足そうに頷いた。


「約束ね」


家族全員が、同じ言葉を使う。


「約束」


食卓の下で、美咲の手へ触れた。


美咲も指を絡める。


言葉にしない約束も、そこにあった。


*


午前八時五十一分。


第三中隊基地の門を通ると、家の空気が急に遠くなった。


構内では、必要のない言葉が減る。挨拶はする。報告もする。ただ、誰かの判断を遅らせる話はしない。


本部棟の前に、片瀬がいた。


「おはようございます」


「おはようございます。今日は九分前ですね」


「昨日、早すぎると言われたので」


「調整が細かいですね」


「出動はありましたか」


「夜間はありません。私は当直明けです」


「訓練には?」


「参加します」


休んだ方がいいのでは、と言いかけた。片瀬の顔を見て、本人が一番分かっていると思い、やめた。


「今日は起動試験だけですか」


「神代中隊長次第です」


嫌な答えだった。


「武器を使う予定は」


「今のところありません」


また、予定。


片瀬が訓練棟を示す。


「先に搭乗服へ着替えてください」


搭乗服は、管理局の防護服より薄く、身体へ密着した。胸部と背面には生命維持装置、腕には感覚補助帯、首元には機体接続用の端子が並んでいる。


着方が分からず、肩の固定帯を左右逆へ通したところで片瀬に止められた。


「逆です」


「どこが?」


「ほぼ全部」


片瀬が手を伸ばす。


「自分で直します」


「時間がかかります。今日覚えて、明日から自分でしてください」


手際よく固定帯を外され、正しい位置へ通し直された。肩と胸が締まり、少し息苦しい。


「きついです」


「正常です」


「AIみたいですね」


「慣れてください」


「慣れたくない言葉が増える」


片瀬が僅かに笑った。


扉の外では、安西が腕を組んで待っていた。


「朝から世話が焼けるエース候補だな」


「記事は忘れてください」


「無理だ。鉢植えを抱えて戦闘部隊へ乗り込むエースなんて、初めて見た」


「戦闘要員ではありません」


「知ってる。だから面白い」


「仕事場ですよ」


「仕事場だから、面白いものが必要なんだよ」


片瀬が安西を見る。


「行きます」


「はいはい」


それで会話は終わった。


*


第三格納庫に入ると、ノストスは昨日とは違う姿になっていた。


下地のままだった装甲は灰白色に塗られ、肩から胸へ濃い青の識別線が走っている。胸部には第三中隊の部隊章。その下に、機体名が小さく記されていた。


《NOSTOS》


戦闘型のような鋭さはない。脚は太く、足首には地面へ固定するアンカー。背部には二基の牽引装置。腰には折り畳み式の補助アーム。


速く進むためではない。


その場へ残り、支え、動けなくなったものを連れて帰るための形だった。


機体の足元で、牧野が端末を見ている。


「遅い」


「開始時刻の九分前です」


「機体は起きてる」


「人間の時刻に合わせてください」


「人間が機体に合わせろ」


昨日と同じだった。


牧野が機体の透過図を表示する。


「確認だ。最高速は低い。長距離移動にも向かん。足場の悪い場所での安定と、瞬間的な牽引出力を優先している」


「昨日の処理場なら、戦闘型より動けましたか」


「地盤条件だけならな」


胸の奥が、僅かに痛んだ。


牧野は、こちらを見ずに透過図を切り替える。


「過去へは持っていけない。今日使え」


「はい」


次に、武装が表示された。


短距離防御砲、迎撃装置、煙幕弾。


「使うな」


「はい」


「必要なら使え」


「どちらですか」


「使わずに済むよう動け。それでも必要なら、迷って死ぬな」


「難しいですね」


「簡単なら、お前を呼ばん」


神代中隊長が格納庫へ入ってきた。後ろには御堂がいて、訓練記録用の端末を操作している。


「準備は」


「完了」


牧野が答える。


神代中隊長が俺を見る。


「今日の内容を言え」


「歩行、旋回、障害物除去、救助人形の回収、損傷機の牽引」


「追加する」


壁面表示に、片瀬機と安西機が映った。


「味方機の帰還判断」


「誰を帰すか、ですか」


「誰を止めるか、でもある」


神代中隊長が安西を見る。


「こいつは止まらない」


「聞こえています」


「聞かせている」


安西は、それ以上返さなかった。


「止める権限を持ったな」


「はい」


「権限があれば、人は止まると思うか」


昨日は権限がなく、止められなかった。


今日は、規程の上では持っている。


それでも答えは決まっていた。


「思いません」


「ならいい」


神代中隊長はノストスを見上げた。


「言葉で止まらなければ、機体で止めろ」


安西が鼻で笑う。


冗談なのかと神代中隊長を見る。


「本当に?」


「訓練で確かめろ」


嫌な予感しかしなかった。


*


昇降機で胸部へ上がり、ノストスへ乗り込む。


右側の収納には、昴の玩具が昨日と同じ形で固定されていた。


操縦席へ身体を預け、肩と腰を固定する。ハッチが閉じると外の光が消え、暗闇の中へ白い文字が浮かんだ。


《FW-S09》


《NOSTOS》


《搭乗者認証――橘蒼真》


《登録区分――仮》


仮という文字を見ると、今日も少し安心した。


《恐怖反応を検出。正常範囲です。》


「また正常」


『AIと話すな』


牧野の声が飛んでくる。


「独り言です」


『機体内では全部記録される。起動しろ』


「了解」


主機関を起動する。


低い振動が、座席から背骨へ入り、胸の内側まで届いた。


ノストスが目を覚ます。


そんな感覚だった。


操作桿を握る。


《握力過剰。》


「分かっています」


『力を抜け』


「抜いたら不安です」


『機体は逃げん』


少しだけ手を緩める。


ノストスは何も変わらず、そこにいた。操縦する人間より、機体の方が落ち着いている。


立ち上がる。


視点が高くなり、整備員も床の誘導線も急に遠ざかった。


右足を一歩前へ出す。


重い足が床へ着き、格納庫全体へ振動が広がる。


次の一歩で、機体が僅かに左へ傾いた。


《姿勢偏差。転倒危険。》


「分かってる」


『AIに怒るな』


「怒っていません」


『声が怒ってる。左脚を半歩戻せ』


指示通り補正する。機体の重心が戻る。


格納庫の出口へ、もう一歩進んだ。


外光が正面表示を白く染める。


訓練場には、片瀬機と安西機が待っていた。細く、速く、ノストスとは別の生き物に見える。


『ようこそ』


片瀬の声。


「まだ歩いただけです」


『転ばなかったな』


安西が言う。


「転びません」


『約束できるか』


朝の結衣と同じだった。


「転ばずに帰ります」


『言ったな』


訓練が始まった。


歩行。旋回。後退。停止。


人間なら考えずにできる動作が、五メートルを超える機体では、一つずつ判断になる。


足を置く位置。地面の硬さ。身体を傾ける角度。次の一歩へ移る前の重心。


操作桿へ力を入れすぎれば、反応が荒れる。抜けば不安になる。


「右旋回」


牧野の指示で機体を動かす。


外側へ傾く。補正が遅れ、ノストスが大きく揺れた。


『遅い』


「転びませんでした」


『転びそうになった。現場では同じだ』


何度も繰り返すうち、搭乗服の背中へ汗が溜まった。指にも力が入り、AIが何度も握力過剰を表示する。


『お前が機体の邪魔をしてる』


「俺が?」


『ノストスは歩ける。余計な力でふらつかせているのはお前だ』


ひどい言い方だが、正しい。


機体の反応を待ち、自分の身体を合わせる。歩幅を小さくし、足が地面を捉えてから次へ移る。


少しずつ、揺れが減った。


初めて、ノストスが自分の意思で歩いたように感じた。


「今のは?」


『基準以下』


牧野は褒めない。


だが、最初より良くなったことだけは、自分でも分かった。


*


次は、模擬瓦礫からの救助だった。


コンクリート片と鉄骨の下に、生命反応を発する救助人形が一体置かれている。


腰部の補助アームを展開した。機体本体の腕とは別に、細い二本の腕が左右から伸びる。


「見た目が不気味ですね」


『便利と言え』


牧野に言われながら、最初の瓦礫を掴む。


力が入りすぎた。


コンクリートが、機体の指の中で砕ける。


「壊れました」


『瓦礫だから構わん』


「下に人がいたら」


『死ぬ』


即答だった。


怖くなり、感覚補助の出力を上げる。


機体の指へ触れた硬さと重さが、操作桿を通して自分の手へ返ってきた。ざらつきまで伝わる感覚は気持ちが悪い。それでも、何を掴んでいるかは分かる。


二つ目は、ゆっくり持ち上げた。


鉄骨の重さが、自分の手首へ掛かっているように感じる。


その間も、安西が妨害情報を入れてくる。


『敵性反応。北側、接近中』


返事をせず、瓦礫を除く。


『片瀬機、損傷』


嫌な言葉だった。


それでも今、目の前にいるのは救助人形だ。片瀬機の状態は表示上まだ行動可能。敵は安西の担当範囲にいる。


最後の瓦礫を外し、人形を補助アームで抱える。胸部の救助ポッドを開き、内部へ収容した。


《生命反応、維持。収容固定完了。》


計測時間、六分四十二秒。


『基準は五分だ』


「不合格ですか」


『今はな』


悔しいと思った。


自分でも、少し意外だった。


乗りたいわけではない。戦いたくもない。


だが、人を助ける動作だけは上手くなりたい。


その気持ちは、はっきりしていた。


*


午前最後の課目は、損傷機の回収だった。


片瀬機は右脚停止、主機関と左脚は正常。安西機が護衛に入り、ノストスが牽引する。


訓練場の中央で片瀬機が片膝をついた。


『右脚、停止。自力帰還不能』


「主機関は?」


『正常です』


「牽引を開始します」


背部装置からワイヤーを射出し、片瀬機の回収環へ接続する。固定を確認し、ノストスをゆっくり前へ出した。


脚部へ負荷警告が出る。


それでも、一歩ずつ動く。


背後で、片瀬機の動かない右脚が地面を滑った。


『速度を落としてください』


「痛いですか」


『機体が。私は大丈夫です』


「落とします」


北側に、敵役の無人機が三機現れた。


安西機が前へ出る。


『三。俺が止める。そのまま引け』


短い射撃で一機。続けて二機目。


残る一機が地面すれすれを抜け、こちらへ向かってきた。


『一機抜けた!』


距離は三百メートル。


防御砲へ手を伸ばしかけ、止めた。


「片瀬さん。主機関で短距離の跳躍はできますか」


『できます。ただし、右脚では着地できません』


「ノストスの後ろへ入ってください」


一瞬の間があった。


『了解』


牽引を解除する。


片瀬機が左脚で跳び、ノストスの背後へ着地した。受け身を取れず、そのまま横倒しになる。


敵役が近づく。


ノストスを前へ出し、左腕で操縦席の正面を庇った。


模擬弾が当たる。


《左腕部、被弾。損傷軽微。》


もう一発。


衝撃が操作桿まで伝わった。


安西機が追いつき、最後の一機へ射撃する。無人機の表示が赤から灰色へ変わった。


『何をしてる』


「片瀬機を守っています」


『支援機が前へ出るな。俺が戻るまで待て』


「待てる距離ではありませんでした」


『訓練だぞ』


「実戦想定です」


安西が何か言いかけた時、別の警告が表示された。


《牽引制御系、温度上昇。連続運用限界まで三分。》


被弾時の姿勢変更で、冷却口へ負荷が掛かったらしい。


片瀬機へワイヤーを再接続する。だが、このまま引けば帰還地点へ着く前に、牽引装置が止まる可能性がある。


神代中隊長の通信が入った。


『状況を確認する。安西機、損傷なし。片瀬機、右脚停止。ノストス、左腕軽微損傷、牽引制御系に警告。敵役一機、追加出現。狭路のため、帰還地点へ入れるのは一機ずつだ』


訓練場の南に、新たな敵表示が点いた。


『誰を先に帰す』


安西が答える。


『片瀬機。負傷機を先に入れる』


俺は、牽引装置の残り時間を見る。


「ノストスを先に帰します」


通信が静かになった。


『理由』


「ノストスが止まれば、片瀬機を運べなくなる。牽引を切り離し、帰還地点で冷却と応急処置をして戻ります」


『その間、片瀬を置くのか』


「一時的に。安西さんが防御してください」


『俺が損傷したら』


「片瀬機を残して、安西機も帰還。全機撤退へ切り替えます」


『敵を逃がすことになるぞ』


「逃がします」


迷わず答えた。


「敵を一体残しても、帰還手段が残れば迎えに戻れます。ノストスが完全停止すれば、片瀬機も帰せません」


神代中隊長が、短く命じた。


『実行しろ』


牽引を解除し、ノストスだけを帰還地点へ入れる。


後ろへ残した片瀬機が、表示の中で小さくなる。


訓練だと分かっている。それでも、置いていく感覚は嫌だった。


冷却装置を外部設備へ接続し、警告が消えるのを待つ。一分二十秒。


長い。


再び訓練場へ戻り、片瀬機へワイヤーをつなぐ。安西機が敵役を抑えている間に狭路を抜け、三機とも帰還地点へ入った。


敵役は一機残った。


任務達成項目、一部未達。


機体帰還率、百パーセント。


その数字だけは、緑色で表示された。


*


格納庫へ戻り、地面へ足をつけると、膝に力が入りにくかった。


牧野が、ノストスの左腕を端末で確認している。


「二発受けました。すみません」


「訓練弾だ。謝るな」


「一発で位置を変えるべきでしたか」


「分かってるなら、次はやれ。受け方そのものは悪くない」


褒められたのだと思う。


多分。


牧野がノストスの太い脚を手の甲で叩いた。


「こいつを先に帰したな」


「はい」


「正しい」


近くにいた安西は、納得していない顔をしている。


「支援機は、最後まで現場に残る機体だ」


牧野は続ける。


「だからこそ、最初に帰る判断も持て。お前が止まれば、残ったやつを誰も帰せない」


「はい」


片瀬も降機し、こちらへ歩いてきた。


「私を置いていくと言いましたね」


「一時的に、です」


「少し傷つきました」


「すみません」


「でも、正解です」


「怒っていませんか」


「訓練だから、今は怒っていません。実戦なら、多分怒ります」


「なぜ?」


「置いていかれるのは、怖いからです」


短い言葉だった。


それだけで十分だった。


片瀬が手を差し出す。


「戻ってきてください」


その手を握る。


「迎えに戻ります」


必ず、とは言わなかった。


片瀬も求めなかった。


「待っています」


*


昼は、片瀬と安西と同じ机で食べた。


牧野は格納庫に残り、パンを三分で食べるらしい。


「身体を壊しませんか」


俺が聞くと、片瀬が即答した。


「もう壊れています」


「本人は認めないけどな」


安西が続ける。


「神代中隊長は止めないんですか」


「何度も止めて、諦めました」


止める権限があっても止まらない人間は、ここにもいる。


安西が箸を置いた。


「午前の判断」


「はい」


「俺より片瀬より、ノストスを先にした」


「二人を帰還させる手段を残すためです」


「不満だ」


「やはり」


「でも、正しい」


どちらなのか分からない。


安西は食事を再開した。


「支援機が止まれば、俺たちは帰れない。だから、自分を捨てるな」


「捨てません」


「今は言える。実戦では分からない」


「安西さんも同じでは?」


「だから俺が言う」


安西は目だけを上げた。


「俺が無理をしていたら、止めろ」


「止まりますか」


「止まらない」


「では、どうすれば」


「機体で止めろ」


神代中隊長と同じことを言う。


「午後の訓練ですか」


「午後の訓練だ」


安西が少し笑った。


午前より、嫌な予感がした。


*


午後の課目は、帰還拒否機への対応だった。


安西機の左脚出力が、訓練設定によって四十パーセントまで落とされる。敵役は二機。片瀬機が前方、ノストスが後方支援に入った。


「安西さん。左脚出力が低下しています。帰還してください」


『四十あれば動ける』


「支援隊員として帰還を要請します」


『要請だろ。命令じゃない』


安西機は、そのまま前進した。


言葉では止まらない。


背部の牽引ワイヤーを射出する。


安西機は、簡単に避けた。


『当てるなよ』


「止まってください」


『止めたければ考えろ』


敵役が接近する。安西機が射撃し、一機を牽制した。


その間に、左脚出力が二十パーセントまで落ちる。姿勢が崩れた。


「今です」


ノストスを一気に近づけ、腰部の補助アームで安西機の腰を掴む。


『離せ』


「帰還してください」


『敵がいる』


「片瀬さんが対応中です」


片瀬機が前へ出て、二機の敵役を引き受ける。


安西機が、なお前へ動こうとした。


ノストスの脚部アンカーを地面へ打ち込む。


太い脚が固定され、安西機の動きが止まった。


『おい』


「帰ります」


『命令か』


「はい」


『誰に』


「安西さんに」


『着任二日目だぞ』


「二日目でも、損傷値は変わりません」


一瞬、通信が静かになった。


安西が笑う。


『それでいい』


抵抗が止まった。


ワイヤーを接続し直し、安西機を牽引して帰還地点へ向かう。


背後では片瀬機が敵役を引きつけている。


安西を帰すために、片瀬へ危険を渡した。


その事実を忘れないよう、後方表示を消さずに進んだ。


安西機を帰還地点へ渡した後、ノストスは訓練場へ戻った。


片瀬機は軽微損傷。敵役二機は行動可能なまま残っていたが、三機とも帰還経路へ入ることはできた。


敵役、残存二。


任務、失敗。


全機、帰還。


午前と同じく、最後の数字だけが緑色だった。


*


講評室で、神代中隊長が訓練記録を表示した。


「橘。安西を止めたな」


「はい」


「最初は権限で」


「通りませんでした」


「最後は機体で止め、片瀬へ敵を渡した」


「はい」


「片瀬機が損傷した場合は」


「安西機を帰還地点へ入れた後、ノストスで回収します。それが不可能なら、片瀬さんへ単独撤退を指示します」


「敵を逃す」


「逃します」


「任務は失敗する」


「全員が帰れば、やり直せます」


神代中隊長は、そこで一度言葉を止めた。


「今日の判断は、それでいい。だが、止めることが常に正しいと思うな」


「はい」


「安西を止めたことで、片瀬が危険を引き受けた。止めなければ安西が損傷した。どちらを選んでも、誰かへ危険が移る」


胸が重くなる。


昨日まで怖かったのは、自分の判断が通らないことだった。


今日は、自分の判断が通ったことで、別の人が危険になった。


「止めないことも、お前の判断になる」


「はい」


「嫌か」


「嫌です」


神代中隊長が、僅かに笑った。


「覚えておけ。指揮を執る人間は、一番嫌な選択を、ほかの誰かより先に選ぶ」


指揮。


俺には関係のない仕事だと思った。


それでも、その言葉は胸の中へ残った。


*


午後七時十二分。


予定より少し遅くなったが、帰宅時刻は連絡した。


玄関の扉を開ける。


「ただいま」


約束通り、最初に言った。


居間から小さな足音が近づいてくる。


「ぱぱ!」


昴が走ってきて、俺の脚へ抱きついた。訓練の疲れが残っていて、少しよろける。


後ろから来た美咲が、俺の肩を支えた。


「危ない」


「大丈夫」


「怪我は?」


「ないよ」


「本当に?」


「本当に」


美咲の視線が、顔、首、肩、腕の順に動く。


「機体は?」


「左腕に模擬弾を二発」


「あなたは?」


「少し疲れただけ」


美咲は、ようやく息を吐いた。


俺の胸へ手を当てる。搭乗服ではなく、濃紺の制服。その下の心臓が動いていることを確かめるように。


「おかえり」


「ただいま」


美咲の手を取る。


朝、もう一つ約束した。


「好きだよ」


美咲の動きが止まった。


「今?」


「自分で考えて言ってって」


「玄関で?」


「場所は指定されてない」


美咲は呆れた顔をして、それから少し笑った。


「おかえり」


「ただいま」


二人の間から、昴が顔を出す。


「ぼくも、すき」


「ありがとう」


「ねえねも」


居間から結衣の声が飛んだ。


「勝手に決めないで」


「結衣は?」


俺が聞くと、端末を持ったまま玄関へ来る。


「帰ってきたから、今日は好き」


「今日は?」


「明日は明日」


美咲が笑った。


家では、会話が一言で終わらない。


それが嬉しかった。


「お父さん。ノストス、公式映像に出てるよ」


結衣が端末を見せる。


第三中隊の格納庫。灰白色の機体。濃い青の識別線。その下に、正式名称が表示されていた。


《FW-S09 広域支援・回収型》


コメント欄には、重そう、武装が少ない、救助型なのか、橘の専用機か、と並んでいる。


最後に、また新しいエース機という言葉があった。


「格好いいじゃん」


「実物は不格好だよ」


「悪口言わないで」


「俺の機体じゃない」


「でも、乗ったんでしょう」


「乗った」


「歩いた?」


「歩いた」


「転んだ?」


「転ばなかった。約束したからね」


結衣が満足そうに笑う。


「どうだった?」


朝、帰ったら話すと美咲にも約束した。


ノストスが最初の一歩で傾いたこと。俺が力を入れすぎて、牧野から機体の邪魔をするなと言われたこと。瓦礫を強く掴みすぎて砕いたこと。救助人形の収容に一分四十二秒余計にかかったこと。


片瀬機を一度置いて、ノストスを先に帰したこと。午後には、帰還を拒んだ安西機を補助アームとアンカーで止めたこと。


一つずつ話した。


美咲は途中で食事を温め直し、結衣は何度も質問した。昴は意味の分からない言葉を真似しながら、俺が持ち帰った玩具を握っていた。


「片瀬さんを置いてきたの?」


美咲が聞く。


「一時的に。ノストスを直して、すぐ戻った」


「怖かったでしょうね」


「本人もそう言っていた」


「迎えに戻れて良かった」


「訓練だからね」


「実戦でも戻る?」


結衣に聞かれる。


「戻るための方法を残してから行く」


「また、絶対って言わない」


「言えないからね」


結衣は少し不満そうにしたが、以前ほど反論はしなかった。


「安西さんは、感じが悪い人なんでしょう」


美咲が聞く。


「朝はそうだった。昼に少し変わった」


「何を言われたの?」


「自分を捨てるなって」


美咲の手が止まる。


「それは良い人」


「本人も無理をして、止まらないけど」


「それでも、あなたに言ってくれるなら良い人」


結衣も頷く。


「お父さん、自分じゃ気づかないから」


「何を?」


「無理してること」


「してないよ」


「してる」


美咲と結衣が同時に答えた。


昴まで、意味も分からず「してる」と続ける。


全員、敵だった。


「牧野さんは、何て言ったの?」


「機体は壊していいから、中身を帰せって」


美咲の表情が、僅かに緩んだ。


「その人が、今のところ一番信用できる」


「会ってもいないのに?」


「あなたより、あなたを帰そうとしてる」


反論できなかった。


昴が床へ玩具を二つ置いた。


一つは、片腕の外れかけた作業用ワーカー。もう一つは、横倒しになった小さな車両だった。


ワーカーの腕へ紐を引っかけ、倒れた車両をゆっくり引く。


「かえるよ」


昴が、倒れた玩具へ言った。


「いっしょに、かえる」


結衣が端末を置く。


美咲も、昴を見た。


ノストスの牽引装置。動けなくなった片瀬機。帰還を拒んだ安西機。


一日の出来事が、小さな玩具へ重なる。


「そうだね」


ようやく言えた。


「一緒に帰る」


昴は頷き、それだけで満足した。


*


夜、日誌を開いた。


――――――――――


四月十日。


第三中隊、二日目。ノストスを初めて起動した。


大きく、重く、不格好で、俺より落ち着いている。力を入れすぎると、機体の動きを邪魔する。歩行は基準以下。救助人形の収容は一分四十二秒超過。


乗りたいわけではない。それでも、助ける動作は上手くなりたいと思った。


午前、損傷した片瀬機を一度残し、ノストスを先に帰した。支援機が止まれば、残った機体を迎えに戻れない。


午後、帰還を拒んだ安西機を止めた。権限では止まらず、最後は機体で止めた。その間、片瀬さんへ危険を渡した。


止める判断にも、止めない判断にも責任がある。


神代中隊長は、指揮を執る人間は、一番嫌な選択をほかの誰かより先に選ぶと言った。


自分には関係のない話だと思う。


多分。


帰宅して、ただいまと言った。美咲へ好きだと言った。結衣へ訓練の話をした。


昴は、壊れかけた玩具で別の玩具を引きながら、一緒に帰ると言った。


敵を倒せなくても、任務が遅れても、怒られても、帰還手段を残す。


ノストスの仕事は、多分、それだ。


俺の仕事も、そうであってほしい。


以上。


――――――――――


日誌を閉じると、美咲が隣から聞いた。


「今日のこと、書いた?」


「うん」


「見せて」


「嫌だ」


「いつか見る」


「見せないよ」


「死んだら読む」


「嫌なことを言うね」


「死ななければ読まない」


理屈がおかしい。


だが、美咲らしかった。


布団へ入ると、美咲の手が俺の手を探した。指を絡める。


「今日、帰ってきたね」


「うん」


「明日も」


「明日も帰ってくる」


「うん」


「好きだよ」


「今日は二回目」


「多かった?」


「ちょうどいい」


目を閉じる。


明日も、乗りたいとは思わない。


それでも今日、全員が帰った。


訓練でも、そのことだけは少し嬉しかった。


*


同時刻。


中央戦術支援統合網、非公開解析領域。


観察対象――橘蒼真。


配属二日目。


使用機体――FW-S09、NOSTOS。


初回起動評価。


歩行――基準以下。


重機操作――基準内。


救助動作――基準以下。


牽引判断――基準以上。


戦闘評価――低。


保護行動――高。


自己保全――低。


帰還拒否者――安西遼。


対応――説得、権限行使、物理介入。


武力使用――なし。


結果――帰還。


指揮適性。


戦闘指揮――中。


撤退判断――高。


人員保全――極高。


本人認識――支援隊員を維持。


指揮官適性――自覚なし。


家族反応。


妻――帰還確認行動、上昇。愛情表現要求、増加。


長女――社会的評価を肯定。危険理解、発達途上。


長男――職務理解なし。帰還概念への反応、強。


新規関連付け。


帰還と勝利の同一化――学習開始。


機体適合――高。


心理適合――高。


恐怖反応――維持。


搭乗意欲――低。


技能向上意欲――救助に限定して高。


矛盾――成立。


修正――不要。


観察を継続する。




面白いと思われたら、ブックマークして頂ければ幸いです。

また、いいね。評価もしていただけたら執筆の励みになりますので、よろしくお願いします。

感想も頂けましたらありがたいです。

よろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。