第二十二話 全員を帰す日
四月十日。
目を覚ますと、胸の上に昴がいた。
小さな頭が顎のすぐ下にあり、頬を寝間着へ押しつけたまま眠っている。片腕は俺の首へ回され、もう片方の手は服をしっかり掴んでいた。
二歳の身体は小さい。
だが、眠っている子供は不思議なほど重い。
首だけを動かして隣を見ると、美咲はすでに目を覚ましていた。枕へ頬をつけたまま、俺と昴を見ている。
「いつから?」
声を落として聞く。
「夜中」
「知ってたの?」
「一度は、自分の布団へ戻したよ」
「戻ってきた?」
「自分で這ってきた。あなたが逃げないように押さえてるのかも」
「二歳で?」
「あなたより賢いかもしれない」
「それは困る」
「もう困ってるでしょう」
美咲の指が伸び、昴の髪へ触れた。寝癖で跳ねた部分を撫でるが、すぐに元へ戻る。
窓の外はまだ薄暗い。
昨日までと同じ朝だった。
けれど、俺の身体には、昨日初めて座った支援機の感触が残っていた。
硬い座席。胸部装甲の内側に響いた整備音。中央表示へ浮かんだ白い文字。
《NOSTOS》
ノストス。
故郷への帰還。
名前を思い出すだけで、胸の奥が少し重くなる。
「昨日の機体」
美咲が言った。
考えていることを見られていたようなタイミングだった。
「どんな機体だった?」
「昨日、話したよ。大きくて、重くて、不格好」
「それは機械の説明でしょう。あなたは、どう思ったの」
機体についてなら説明できる。重量、装備、牽引能力、装甲、救助ポッド。
どう思ったのかと聞かれると、急に難しくなる。
「頼りになりそうだった」
「好きになれそう?」
「まだ分からない」
「乗りたくない?」
「乗りたくない」
答えはすぐに出た。
美咲が頷く。安心したようにも見えた。
「でも、今日は乗るんでしょう」
「初めて起動する。歩行と救助、それから損傷機の回収訓練だと聞いてる」
「撃つの?」
「武器を使う予定はない」
「予定は、ね」
美咲は、もう俺の言い方を覚えている。
「訓練内容は、現場で追加されるらしい」
「どうして前日に全部教えないの」
「予定通りにならない時の反応も見るから、だと思う」
「そうやって、何でも現場のせいにする」
「俺も、先に教えてほしい」
「あなたまで同意しないで」
少しだけ声が強くなり、昴が眉を寄せた。
二人とも黙る。
昴は目を覚まさず、俺の服を握る手だけに力を入れた。
美咲が息を吐く。
「怖い?」
「うん」
「昨日より?」
少し考える。
昨日は、まだ座っただけだった。今日は、機体が自分の手で動く。動かせれば、次は現場へ出る。誰かを助けられるかもしれないし、助けられないかもしれない。
「昨日は、あの大きさが怖かった。今日は、自分が動かすことが怖い」
美咲はしばらく黙り、俺の顔を見た。
「怖いって言えてるなら、まだ大丈夫なのかな」
「神代中隊長も、似たことを言っていた。怖くなくなったら搭乗から外すって」
「本当に外してくれる?」
「多分」
「なら、ずっと怖がっていて」
「それはそれで辛いよ」
「でも、帰ることは考えるでしょう」
「うん。怖い方が、帰る方法を探すと思う」
美咲の指が、俺の手を探した。間に昴がいるので、うまく握れない。それでも指先だけが触れる。
「帰ってきたら、今日も話して」
「何を?」
「誰が何を言ったとか、何を食べたとか、何が怖かったとか」
「全部?」
「私が安心するまで」
「長そうだね」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「それと、玄関でちゃんと『ただいま』って言って」
「いつも言ってるよ」
「疲れて、そのまま入ってくる日がある」
「気をつける」
「約束」
約束。
昨日から、何度も出てくる言葉だった。
胸の上で眠る昴を見る。小さな指は、今も俺の寝間着を掴んでいる。
「約束する」
「それから、好きも時々言って」
「いつ?」
「自分で考えて」
「難しい」
「仕事より?」
「同じくらい」
「それ、褒めてないから」
美咲が笑った。
その声で、昴がゆっくり目を開けた。
最初に俺の顎を見て、次に美咲を見る。二人の顔を交互に確かめた後、もう一度俺の胸へ顔を押しつけた。
「おはよう」
美咲が言う。
「まだ、ねる」
「目、開いてるよ」
「ねる」
「お父さん、仕事なんだけど」
「だめ」
即答だった。
美咲が笑う。
「ほら。やっぱり逃がさないつもりだった」
「昴。今日、ノストスを動かすんだ」
「のすとす?」
昨日、何度か教えた名前だが、まだ覚えていないらしい。
「お父さんが乗る、大きなフレイムワーカー」
「ばんばんする?」
「できれば、ずっとしない」
「かえる?」
「帰る」
昴は少し考え、ようやく身体を起こした。
「じゃあ、いっていい」
許可が出た。
「ありがとう」
「おもちゃは?」
「ノストスの中に置いてあるよ。なくさないように留めてきた」
「まもってる?」
「多分、守ってくれてる」
「ぱぱとのすとす?」
「両方」
昴は満足したように頷き、今度こそ俺の胸から降りた。
*
朝食の席で、結衣は制服姿のまま端末を見ていた。片手でパンを持ち、もう片方の指で画面を送っている。
「食事中」
美咲に言われ、結衣は端末を伏せた。
十秒も経たず、また開く。
美咲が黙って見つめると、今度はゆっくり伏せた。
「何を見てるの」
俺が聞く。
「お父さん」
「ここにいるよ」
「ネットのお父さん」
嫌な言葉だった。
「昨日の記事?」
「今朝の新しいやつ。見せたら置くから」
結衣は先に美咲へ言い訳し、端末を俺へ向けた。
画面には、第三中隊へ着任した俺の記事が表示されている。管理局を出たところで撮られたらしく、濃紺の制服で私物の箱を抱え、その中から小さな鉢植えまで覗いていた。
顔も、はっきり写っている。
「いつ撮られたんだろう」
「全然気づいてない顔だね」
「気づいていなかったからね」
「コメントもすごいよ」
結衣が画面を送る。
『現場判断を無視した結果が、旧南部環状処理場の事故だ』
『第六中隊だけを責めるのは違う』
『管理局による英雄作り』
『異例の現場編入』
『適性値が高いらしい』
『新しいエース候補』
エース。
昨日は、機体へ座っただけだった。
手は汗ばんでいた。怖いと申告し、AIから正常だと返された。操縦桿すら動かしていない。
それでも、画面の中では、次代のエース候補という知らない人間に変わっていた。
「お父さん、エース候補だって」
結衣の声は少し明るい。
「違うよ」
「まだ分からないじゃん。最近は、敵を倒した数だけじゃなくて、救助数や生還率でも呼ばれるんだって」
「誰が決めたの」
「SNS」
「信頼できない」
「お父さん、SNS嫌いだよね」
「嫌いというより、使う必要がない」
「それを使えないって言うんだよ」
美咲が少し笑った。
「学校で話してるの?」
「少しだけ。みんな、すごいって言ってた」
「何もしていないよ」
「第三中隊に入ったでしょう」
「入っただけ」
「今日は動かすんでしょう」
「歩かせる予定」
「なら、今日からエースへの一歩」
「違う」
「頑固」
結衣は、少し嬉しそうだった。
父親の名前が記事に出る。友達も知っている。特別な部隊へ入った。それを誇らしく思ってくれているのだろう。
その気持ちまで否定したくはなかった。
「結衣」
「何?」
「格好いいと思ってくれるのは、嫌じゃないよ」
結衣が少し驚く。
「じゃあ、自慢していい?」
「そこまでは言ってない。ただ、画面に出ている人と、家にいるお父さんは少し違う」
「同じ人でしょう」
「同じだけど、画面には映らないものがある」
「何が?」
自分の手を見る。
昨日、操縦桿へ置いた時、少し震えていた手。
「その人が、どれくらい怖がっているか」
結衣は納得できない顔をした。
美咲が俺の湯飲みへ茶を足す。
「お父さん自身も、自分のことを全部分かっているわけじゃないけどね」
「俺も?」
「自分を普通だと思っているでしょう」
「普通だよ」
「怖い時に怖いと言うところは普通。でも、怖いまま行くところは、少し変」
結衣が笑った。
「やっぱり変なんだ」
「少しって言ったでしょう」
「同じだよ」
「違う」
さっきまで尖っていた空気が、少し緩んだ。
結衣が端末を伏せる。
「帰ってきたら、ノストスが歩いたところを話して」
「面白くないと思うよ」
「転ぶかもしれないじゃん」
「転ばない」
「絶対?」
「転ばずに帰る」
結衣は満足そうに頷いた。
「約束ね」
家族全員が、同じ言葉を使う。
「約束」
食卓の下で、美咲の手へ触れた。
美咲も指を絡める。
言葉にしない約束も、そこにあった。
*
午前八時五十一分。
第三中隊基地の門を通ると、家の空気が急に遠くなった。
構内では、必要のない言葉が減る。挨拶はする。報告もする。ただ、誰かの判断を遅らせる話はしない。
本部棟の前に、片瀬がいた。
「おはようございます」
「おはようございます。今日は九分前ですね」
「昨日、早すぎると言われたので」
「調整が細かいですね」
「出動はありましたか」
「夜間はありません。私は当直明けです」
「訓練には?」
「参加します」
休んだ方がいいのでは、と言いかけた。片瀬の顔を見て、本人が一番分かっていると思い、やめた。
「今日は起動試験だけですか」
「神代中隊長次第です」
嫌な答えだった。
「武器を使う予定は」
「今のところありません」
また、予定。
片瀬が訓練棟を示す。
「先に搭乗服へ着替えてください」
搭乗服は、管理局の防護服より薄く、身体へ密着した。胸部と背面には生命維持装置、腕には感覚補助帯、首元には機体接続用の端子が並んでいる。
着方が分からず、肩の固定帯を左右逆へ通したところで片瀬に止められた。
「逆です」
「どこが?」
「ほぼ全部」
片瀬が手を伸ばす。
「自分で直します」
「時間がかかります。今日覚えて、明日から自分でしてください」
手際よく固定帯を外され、正しい位置へ通し直された。肩と胸が締まり、少し息苦しい。
「きついです」
「正常です」
「AIみたいですね」
「慣れてください」
「慣れたくない言葉が増える」
片瀬が僅かに笑った。
扉の外では、安西が腕を組んで待っていた。
「朝から世話が焼けるエース候補だな」
「記事は忘れてください」
「無理だ。鉢植えを抱えて戦闘部隊へ乗り込むエースなんて、初めて見た」
「戦闘要員ではありません」
「知ってる。だから面白い」
「仕事場ですよ」
「仕事場だから、面白いものが必要なんだよ」
片瀬が安西を見る。
「行きます」
「はいはい」
それで会話は終わった。
*
第三格納庫に入ると、ノストスは昨日とは違う姿になっていた。
下地のままだった装甲は灰白色に塗られ、肩から胸へ濃い青の識別線が走っている。胸部には第三中隊の部隊章。その下に、機体名が小さく記されていた。
《NOSTOS》
戦闘型のような鋭さはない。脚は太く、足首には地面へ固定するアンカー。背部には二基の牽引装置。腰には折り畳み式の補助アーム。
速く進むためではない。
その場へ残り、支え、動けなくなったものを連れて帰るための形だった。
機体の足元で、牧野が端末を見ている。
「遅い」
「開始時刻の九分前です」
「機体は起きてる」
「人間の時刻に合わせてください」
「人間が機体に合わせろ」
昨日と同じだった。
牧野が機体の透過図を表示する。
「確認だ。最高速は低い。長距離移動にも向かん。足場の悪い場所での安定と、瞬間的な牽引出力を優先している」
「昨日の処理場なら、戦闘型より動けましたか」
「地盤条件だけならな」
胸の奥が、僅かに痛んだ。
牧野は、こちらを見ずに透過図を切り替える。
「過去へは持っていけない。今日使え」
「はい」
次に、武装が表示された。
短距離防御砲、迎撃装置、煙幕弾。
「使うな」
「はい」
「必要なら使え」
「どちらですか」
「使わずに済むよう動け。それでも必要なら、迷って死ぬな」
「難しいですね」
「簡単なら、お前を呼ばん」
神代中隊長が格納庫へ入ってきた。後ろには御堂がいて、訓練記録用の端末を操作している。
「準備は」
「完了」
牧野が答える。
神代中隊長が俺を見る。
「今日の内容を言え」
「歩行、旋回、障害物除去、救助人形の回収、損傷機の牽引」
「追加する」
壁面表示に、片瀬機と安西機が映った。
「味方機の帰還判断」
「誰を帰すか、ですか」
「誰を止めるか、でもある」
神代中隊長が安西を見る。
「こいつは止まらない」
「聞こえています」
「聞かせている」
安西は、それ以上返さなかった。
「止める権限を持ったな」
「はい」
「権限があれば、人は止まると思うか」
昨日は権限がなく、止められなかった。
今日は、規程の上では持っている。
それでも答えは決まっていた。
「思いません」
「ならいい」
神代中隊長はノストスを見上げた。
「言葉で止まらなければ、機体で止めろ」
安西が鼻で笑う。
冗談なのかと神代中隊長を見る。
「本当に?」
「訓練で確かめろ」
嫌な予感しかしなかった。
*
昇降機で胸部へ上がり、ノストスへ乗り込む。
右側の収納には、昴の玩具が昨日と同じ形で固定されていた。
操縦席へ身体を預け、肩と腰を固定する。ハッチが閉じると外の光が消え、暗闇の中へ白い文字が浮かんだ。
《FW-S09》
《NOSTOS》
《搭乗者認証――橘蒼真》
《登録区分――仮》
仮という文字を見ると、今日も少し安心した。
《恐怖反応を検出。正常範囲です。》
「また正常」
『AIと話すな』
牧野の声が飛んでくる。
「独り言です」
『機体内では全部記録される。起動しろ』
「了解」
主機関を起動する。
低い振動が、座席から背骨へ入り、胸の内側まで届いた。
ノストスが目を覚ます。
そんな感覚だった。
操作桿を握る。
《握力過剰。》
「分かっています」
『力を抜け』
「抜いたら不安です」
『機体は逃げん』
少しだけ手を緩める。
ノストスは何も変わらず、そこにいた。操縦する人間より、機体の方が落ち着いている。
立ち上がる。
視点が高くなり、整備員も床の誘導線も急に遠ざかった。
右足を一歩前へ出す。
重い足が床へ着き、格納庫全体へ振動が広がる。
次の一歩で、機体が僅かに左へ傾いた。
《姿勢偏差。転倒危険。》
「分かってる」
『AIに怒るな』
「怒っていません」
『声が怒ってる。左脚を半歩戻せ』
指示通り補正する。機体の重心が戻る。
格納庫の出口へ、もう一歩進んだ。
外光が正面表示を白く染める。
訓練場には、片瀬機と安西機が待っていた。細く、速く、ノストスとは別の生き物に見える。
『ようこそ』
片瀬の声。
「まだ歩いただけです」
『転ばなかったな』
安西が言う。
「転びません」
『約束できるか』
朝の結衣と同じだった。
「転ばずに帰ります」
『言ったな』
訓練が始まった。
歩行。旋回。後退。停止。
人間なら考えずにできる動作が、五メートルを超える機体では、一つずつ判断になる。
足を置く位置。地面の硬さ。身体を傾ける角度。次の一歩へ移る前の重心。
操作桿へ力を入れすぎれば、反応が荒れる。抜けば不安になる。
「右旋回」
牧野の指示で機体を動かす。
外側へ傾く。補正が遅れ、ノストスが大きく揺れた。
『遅い』
「転びませんでした」
『転びそうになった。現場では同じだ』
何度も繰り返すうち、搭乗服の背中へ汗が溜まった。指にも力が入り、AIが何度も握力過剰を表示する。
『お前が機体の邪魔をしてる』
「俺が?」
『ノストスは歩ける。余計な力でふらつかせているのはお前だ』
ひどい言い方だが、正しい。
機体の反応を待ち、自分の身体を合わせる。歩幅を小さくし、足が地面を捉えてから次へ移る。
少しずつ、揺れが減った。
初めて、ノストスが自分の意思で歩いたように感じた。
「今のは?」
『基準以下』
牧野は褒めない。
だが、最初より良くなったことだけは、自分でも分かった。
*
次は、模擬瓦礫からの救助だった。
コンクリート片と鉄骨の下に、生命反応を発する救助人形が一体置かれている。
腰部の補助アームを展開した。機体本体の腕とは別に、細い二本の腕が左右から伸びる。
「見た目が不気味ですね」
『便利と言え』
牧野に言われながら、最初の瓦礫を掴む。
力が入りすぎた。
コンクリートが、機体の指の中で砕ける。
「壊れました」
『瓦礫だから構わん』
「下に人がいたら」
『死ぬ』
即答だった。
怖くなり、感覚補助の出力を上げる。
機体の指へ触れた硬さと重さが、操作桿を通して自分の手へ返ってきた。ざらつきまで伝わる感覚は気持ちが悪い。それでも、何を掴んでいるかは分かる。
二つ目は、ゆっくり持ち上げた。
鉄骨の重さが、自分の手首へ掛かっているように感じる。
その間も、安西が妨害情報を入れてくる。
『敵性反応。北側、接近中』
返事をせず、瓦礫を除く。
『片瀬機、損傷』
嫌な言葉だった。
それでも今、目の前にいるのは救助人形だ。片瀬機の状態は表示上まだ行動可能。敵は安西の担当範囲にいる。
最後の瓦礫を外し、人形を補助アームで抱える。胸部の救助ポッドを開き、内部へ収容した。
《生命反応、維持。収容固定完了。》
計測時間、六分四十二秒。
『基準は五分だ』
「不合格ですか」
『今はな』
悔しいと思った。
自分でも、少し意外だった。
乗りたいわけではない。戦いたくもない。
だが、人を助ける動作だけは上手くなりたい。
その気持ちは、はっきりしていた。
*
午前最後の課目は、損傷機の回収だった。
片瀬機は右脚停止、主機関と左脚は正常。安西機が護衛に入り、ノストスが牽引する。
訓練場の中央で片瀬機が片膝をついた。
『右脚、停止。自力帰還不能』
「主機関は?」
『正常です』
「牽引を開始します」
背部装置からワイヤーを射出し、片瀬機の回収環へ接続する。固定を確認し、ノストスをゆっくり前へ出した。
脚部へ負荷警告が出る。
それでも、一歩ずつ動く。
背後で、片瀬機の動かない右脚が地面を滑った。
『速度を落としてください』
「痛いですか」
『機体が。私は大丈夫です』
「落とします」
北側に、敵役の無人機が三機現れた。
安西機が前へ出る。
『三。俺が止める。そのまま引け』
短い射撃で一機。続けて二機目。
残る一機が地面すれすれを抜け、こちらへ向かってきた。
『一機抜けた!』
距離は三百メートル。
防御砲へ手を伸ばしかけ、止めた。
「片瀬さん。主機関で短距離の跳躍はできますか」
『できます。ただし、右脚では着地できません』
「ノストスの後ろへ入ってください」
一瞬の間があった。
『了解』
牽引を解除する。
片瀬機が左脚で跳び、ノストスの背後へ着地した。受け身を取れず、そのまま横倒しになる。
敵役が近づく。
ノストスを前へ出し、左腕で操縦席の正面を庇った。
模擬弾が当たる。
《左腕部、被弾。損傷軽微。》
もう一発。
衝撃が操作桿まで伝わった。
安西機が追いつき、最後の一機へ射撃する。無人機の表示が赤から灰色へ変わった。
『何をしてる』
「片瀬機を守っています」
『支援機が前へ出るな。俺が戻るまで待て』
「待てる距離ではありませんでした」
『訓練だぞ』
「実戦想定です」
安西が何か言いかけた時、別の警告が表示された。
《牽引制御系、温度上昇。連続運用限界まで三分。》
被弾時の姿勢変更で、冷却口へ負荷が掛かったらしい。
片瀬機へワイヤーを再接続する。だが、このまま引けば帰還地点へ着く前に、牽引装置が止まる可能性がある。
神代中隊長の通信が入った。
『状況を確認する。安西機、損傷なし。片瀬機、右脚停止。ノストス、左腕軽微損傷、牽引制御系に警告。敵役一機、追加出現。狭路のため、帰還地点へ入れるのは一機ずつだ』
訓練場の南に、新たな敵表示が点いた。
『誰を先に帰す』
安西が答える。
『片瀬機。負傷機を先に入れる』
俺は、牽引装置の残り時間を見る。
「ノストスを先に帰します」
通信が静かになった。
『理由』
「ノストスが止まれば、片瀬機を運べなくなる。牽引を切り離し、帰還地点で冷却と応急処置をして戻ります」
『その間、片瀬を置くのか』
「一時的に。安西さんが防御してください」
『俺が損傷したら』
「片瀬機を残して、安西機も帰還。全機撤退へ切り替えます」
『敵を逃がすことになるぞ』
「逃がします」
迷わず答えた。
「敵を一体残しても、帰還手段が残れば迎えに戻れます。ノストスが完全停止すれば、片瀬機も帰せません」
神代中隊長が、短く命じた。
『実行しろ』
牽引を解除し、ノストスだけを帰還地点へ入れる。
後ろへ残した片瀬機が、表示の中で小さくなる。
訓練だと分かっている。それでも、置いていく感覚は嫌だった。
冷却装置を外部設備へ接続し、警告が消えるのを待つ。一分二十秒。
長い。
再び訓練場へ戻り、片瀬機へワイヤーをつなぐ。安西機が敵役を抑えている間に狭路を抜け、三機とも帰還地点へ入った。
敵役は一機残った。
任務達成項目、一部未達。
機体帰還率、百パーセント。
その数字だけは、緑色で表示された。
*
格納庫へ戻り、地面へ足をつけると、膝に力が入りにくかった。
牧野が、ノストスの左腕を端末で確認している。
「二発受けました。すみません」
「訓練弾だ。謝るな」
「一発で位置を変えるべきでしたか」
「分かってるなら、次はやれ。受け方そのものは悪くない」
褒められたのだと思う。
多分。
牧野がノストスの太い脚を手の甲で叩いた。
「こいつを先に帰したな」
「はい」
「正しい」
近くにいた安西は、納得していない顔をしている。
「支援機は、最後まで現場に残る機体だ」
牧野は続ける。
「だからこそ、最初に帰る判断も持て。お前が止まれば、残ったやつを誰も帰せない」
「はい」
片瀬も降機し、こちらへ歩いてきた。
「私を置いていくと言いましたね」
「一時的に、です」
「少し傷つきました」
「すみません」
「でも、正解です」
「怒っていませんか」
「訓練だから、今は怒っていません。実戦なら、多分怒ります」
「なぜ?」
「置いていかれるのは、怖いからです」
短い言葉だった。
それだけで十分だった。
片瀬が手を差し出す。
「戻ってきてください」
その手を握る。
「迎えに戻ります」
必ず、とは言わなかった。
片瀬も求めなかった。
「待っています」
*
昼は、片瀬と安西と同じ机で食べた。
牧野は格納庫に残り、パンを三分で食べるらしい。
「身体を壊しませんか」
俺が聞くと、片瀬が即答した。
「もう壊れています」
「本人は認めないけどな」
安西が続ける。
「神代中隊長は止めないんですか」
「何度も止めて、諦めました」
止める権限があっても止まらない人間は、ここにもいる。
安西が箸を置いた。
「午前の判断」
「はい」
「俺より片瀬より、ノストスを先にした」
「二人を帰還させる手段を残すためです」
「不満だ」
「やはり」
「でも、正しい」
どちらなのか分からない。
安西は食事を再開した。
「支援機が止まれば、俺たちは帰れない。だから、自分を捨てるな」
「捨てません」
「今は言える。実戦では分からない」
「安西さんも同じでは?」
「だから俺が言う」
安西は目だけを上げた。
「俺が無理をしていたら、止めろ」
「止まりますか」
「止まらない」
「では、どうすれば」
「機体で止めろ」
神代中隊長と同じことを言う。
「午後の訓練ですか」
「午後の訓練だ」
安西が少し笑った。
午前より、嫌な予感がした。
*
午後の課目は、帰還拒否機への対応だった。
安西機の左脚出力が、訓練設定によって四十パーセントまで落とされる。敵役は二機。片瀬機が前方、ノストスが後方支援に入った。
「安西さん。左脚出力が低下しています。帰還してください」
『四十あれば動ける』
「支援隊員として帰還を要請します」
『要請だろ。命令じゃない』
安西機は、そのまま前進した。
言葉では止まらない。
背部の牽引ワイヤーを射出する。
安西機は、簡単に避けた。
『当てるなよ』
「止まってください」
『止めたければ考えろ』
敵役が接近する。安西機が射撃し、一機を牽制した。
その間に、左脚出力が二十パーセントまで落ちる。姿勢が崩れた。
「今です」
ノストスを一気に近づけ、腰部の補助アームで安西機の腰を掴む。
『離せ』
「帰還してください」
『敵がいる』
「片瀬さんが対応中です」
片瀬機が前へ出て、二機の敵役を引き受ける。
安西機が、なお前へ動こうとした。
ノストスの脚部アンカーを地面へ打ち込む。
太い脚が固定され、安西機の動きが止まった。
『おい』
「帰ります」
『命令か』
「はい」
『誰に』
「安西さんに」
『着任二日目だぞ』
「二日目でも、損傷値は変わりません」
一瞬、通信が静かになった。
安西が笑う。
『それでいい』
抵抗が止まった。
ワイヤーを接続し直し、安西機を牽引して帰還地点へ向かう。
背後では片瀬機が敵役を引きつけている。
安西を帰すために、片瀬へ危険を渡した。
その事実を忘れないよう、後方表示を消さずに進んだ。
安西機を帰還地点へ渡した後、ノストスは訓練場へ戻った。
片瀬機は軽微損傷。敵役二機は行動可能なまま残っていたが、三機とも帰還経路へ入ることはできた。
敵役、残存二。
任務、失敗。
全機、帰還。
午前と同じく、最後の数字だけが緑色だった。
*
講評室で、神代中隊長が訓練記録を表示した。
「橘。安西を止めたな」
「はい」
「最初は権限で」
「通りませんでした」
「最後は機体で止め、片瀬へ敵を渡した」
「はい」
「片瀬機が損傷した場合は」
「安西機を帰還地点へ入れた後、ノストスで回収します。それが不可能なら、片瀬さんへ単独撤退を指示します」
「敵を逃す」
「逃します」
「任務は失敗する」
「全員が帰れば、やり直せます」
神代中隊長は、そこで一度言葉を止めた。
「今日の判断は、それでいい。だが、止めることが常に正しいと思うな」
「はい」
「安西を止めたことで、片瀬が危険を引き受けた。止めなければ安西が損傷した。どちらを選んでも、誰かへ危険が移る」
胸が重くなる。
昨日まで怖かったのは、自分の判断が通らないことだった。
今日は、自分の判断が通ったことで、別の人が危険になった。
「止めないことも、お前の判断になる」
「はい」
「嫌か」
「嫌です」
神代中隊長が、僅かに笑った。
「覚えておけ。指揮を執る人間は、一番嫌な選択を、ほかの誰かより先に選ぶ」
指揮。
俺には関係のない仕事だと思った。
それでも、その言葉は胸の中へ残った。
*
午後七時十二分。
予定より少し遅くなったが、帰宅時刻は連絡した。
玄関の扉を開ける。
「ただいま」
約束通り、最初に言った。
居間から小さな足音が近づいてくる。
「ぱぱ!」
昴が走ってきて、俺の脚へ抱きついた。訓練の疲れが残っていて、少しよろける。
後ろから来た美咲が、俺の肩を支えた。
「危ない」
「大丈夫」
「怪我は?」
「ないよ」
「本当に?」
「本当に」
美咲の視線が、顔、首、肩、腕の順に動く。
「機体は?」
「左腕に模擬弾を二発」
「あなたは?」
「少し疲れただけ」
美咲は、ようやく息を吐いた。
俺の胸へ手を当てる。搭乗服ではなく、濃紺の制服。その下の心臓が動いていることを確かめるように。
「おかえり」
「ただいま」
美咲の手を取る。
朝、もう一つ約束した。
「好きだよ」
美咲の動きが止まった。
「今?」
「自分で考えて言ってって」
「玄関で?」
「場所は指定されてない」
美咲は呆れた顔をして、それから少し笑った。
「おかえり」
「ただいま」
二人の間から、昴が顔を出す。
「ぼくも、すき」
「ありがとう」
「ねえねも」
居間から結衣の声が飛んだ。
「勝手に決めないで」
「結衣は?」
俺が聞くと、端末を持ったまま玄関へ来る。
「帰ってきたから、今日は好き」
「今日は?」
「明日は明日」
美咲が笑った。
家では、会話が一言で終わらない。
それが嬉しかった。
「お父さん。ノストス、公式映像に出てるよ」
結衣が端末を見せる。
第三中隊の格納庫。灰白色の機体。濃い青の識別線。その下に、正式名称が表示されていた。
《FW-S09 広域支援・回収型》
コメント欄には、重そう、武装が少ない、救助型なのか、橘の専用機か、と並んでいる。
最後に、また新しいエース機という言葉があった。
「格好いいじゃん」
「実物は不格好だよ」
「悪口言わないで」
「俺の機体じゃない」
「でも、乗ったんでしょう」
「乗った」
「歩いた?」
「歩いた」
「転んだ?」
「転ばなかった。約束したからね」
結衣が満足そうに笑う。
「どうだった?」
朝、帰ったら話すと美咲にも約束した。
ノストスが最初の一歩で傾いたこと。俺が力を入れすぎて、牧野から機体の邪魔をするなと言われたこと。瓦礫を強く掴みすぎて砕いたこと。救助人形の収容に一分四十二秒余計にかかったこと。
片瀬機を一度置いて、ノストスを先に帰したこと。午後には、帰還を拒んだ安西機を補助アームとアンカーで止めたこと。
一つずつ話した。
美咲は途中で食事を温め直し、結衣は何度も質問した。昴は意味の分からない言葉を真似しながら、俺が持ち帰った玩具を握っていた。
「片瀬さんを置いてきたの?」
美咲が聞く。
「一時的に。ノストスを直して、すぐ戻った」
「怖かったでしょうね」
「本人もそう言っていた」
「迎えに戻れて良かった」
「訓練だからね」
「実戦でも戻る?」
結衣に聞かれる。
「戻るための方法を残してから行く」
「また、絶対って言わない」
「言えないからね」
結衣は少し不満そうにしたが、以前ほど反論はしなかった。
「安西さんは、感じが悪い人なんでしょう」
美咲が聞く。
「朝はそうだった。昼に少し変わった」
「何を言われたの?」
「自分を捨てるなって」
美咲の手が止まる。
「それは良い人」
「本人も無理をして、止まらないけど」
「それでも、あなたに言ってくれるなら良い人」
結衣も頷く。
「お父さん、自分じゃ気づかないから」
「何を?」
「無理してること」
「してないよ」
「してる」
美咲と結衣が同時に答えた。
昴まで、意味も分からず「してる」と続ける。
全員、敵だった。
「牧野さんは、何て言ったの?」
「機体は壊していいから、中身を帰せって」
美咲の表情が、僅かに緩んだ。
「その人が、今のところ一番信用できる」
「会ってもいないのに?」
「あなたより、あなたを帰そうとしてる」
反論できなかった。
昴が床へ玩具を二つ置いた。
一つは、片腕の外れかけた作業用ワーカー。もう一つは、横倒しになった小さな車両だった。
ワーカーの腕へ紐を引っかけ、倒れた車両をゆっくり引く。
「かえるよ」
昴が、倒れた玩具へ言った。
「いっしょに、かえる」
結衣が端末を置く。
美咲も、昴を見た。
ノストスの牽引装置。動けなくなった片瀬機。帰還を拒んだ安西機。
一日の出来事が、小さな玩具へ重なる。
「そうだね」
ようやく言えた。
「一緒に帰る」
昴は頷き、それだけで満足した。
*
夜、日誌を開いた。
――――――――――
四月十日。
第三中隊、二日目。ノストスを初めて起動した。
大きく、重く、不格好で、俺より落ち着いている。力を入れすぎると、機体の動きを邪魔する。歩行は基準以下。救助人形の収容は一分四十二秒超過。
乗りたいわけではない。それでも、助ける動作は上手くなりたいと思った。
午前、損傷した片瀬機を一度残し、ノストスを先に帰した。支援機が止まれば、残った機体を迎えに戻れない。
午後、帰還を拒んだ安西機を止めた。権限では止まらず、最後は機体で止めた。その間、片瀬さんへ危険を渡した。
止める判断にも、止めない判断にも責任がある。
神代中隊長は、指揮を執る人間は、一番嫌な選択をほかの誰かより先に選ぶと言った。
自分には関係のない話だと思う。
多分。
帰宅して、ただいまと言った。美咲へ好きだと言った。結衣へ訓練の話をした。
昴は、壊れかけた玩具で別の玩具を引きながら、一緒に帰ると言った。
敵を倒せなくても、任務が遅れても、怒られても、帰還手段を残す。
ノストスの仕事は、多分、それだ。
俺の仕事も、そうであってほしい。
以上。
――――――――――
日誌を閉じると、美咲が隣から聞いた。
「今日のこと、書いた?」
「うん」
「見せて」
「嫌だ」
「いつか見る」
「見せないよ」
「死んだら読む」
「嫌なことを言うね」
「死ななければ読まない」
理屈がおかしい。
だが、美咲らしかった。
布団へ入ると、美咲の手が俺の手を探した。指を絡める。
「今日、帰ってきたね」
「うん」
「明日も」
「明日も帰ってくる」
「うん」
「好きだよ」
「今日は二回目」
「多かった?」
「ちょうどいい」
目を閉じる。
明日も、乗りたいとは思わない。
それでも今日、全員が帰った。
訓練でも、そのことだけは少し嬉しかった。
*
同時刻。
中央戦術支援統合網、非公開解析領域。
観察対象――橘蒼真。
配属二日目。
使用機体――FW-S09、NOSTOS。
初回起動評価。
歩行――基準以下。
重機操作――基準内。
救助動作――基準以下。
牽引判断――基準以上。
戦闘評価――低。
保護行動――高。
自己保全――低。
帰還拒否者――安西遼。
対応――説得、権限行使、物理介入。
武力使用――なし。
結果――帰還。
指揮適性。
戦闘指揮――中。
撤退判断――高。
人員保全――極高。
本人認識――支援隊員を維持。
指揮官適性――自覚なし。
家族反応。
妻――帰還確認行動、上昇。愛情表現要求、増加。
長女――社会的評価を肯定。危険理解、発達途上。
長男――職務理解なし。帰還概念への反応、強。
新規関連付け。
帰還と勝利の同一化――学習開始。
機体適合――高。
心理適合――高。
恐怖反応――維持。
搭乗意欲――低。
技能向上意欲――救助に限定して高。
矛盾――成立。
修正――不要。
観察を継続する。
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