表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
27/53

第二十一話 帰すための機体

短めですが、大切な所だと思ってこうしてみました。

四月九日。午前五時四十分。


目覚ましが鳴る少し前に、蒼真は目を覚ました。


天井を見つめたまま、しばらく身体を動かさない。


昨日までと同じ寝室。


昨日までと同じ薄いカーテン。


隣では、美咲が静かな寝息を立てている。


それなのに、今日だけは、何もかも違って見えた。


枕元の棚には、一枚の辞令が置かれている。


第三戦術機動中隊。


支援隊員兼現場連携官。


紙に印刷された文字は、昨夜から何度読んでも変わらない。


変わらないのに、読むたびに意味だけが重くなっていく。


蒼真は静かに布団を抜け出した。


床へ足をつける。


春先の冷たさが、足の裏から身体へ上がってくる。


壁には、新しい制服が掛けられていた。


濃紺の上着。


左肩には第三中隊の部隊章。


盾を縦に割るように、中央へ一本の白い線が入っている。


帰還経路。


昨夜、美咲へそう説明した。


戦う部隊の徽章なのに、描かれているのが武器ではなく、帰るための道だということが、蒼真には妙に印象に残っていた。


その隣には、昨日まで着ていた管理局の制服がある。


灰色の上着。


見慣れた襟。


何度も腕を通した袖。


同じ仕事着のはずなのに、並んでいると、別の人間の服に見えた。


蒼真は濃紺の袖へ触れた。


しわ一つない。


昨夜、蒼真が風呂へ入っている間に、美咲がアイロンを掛けていた。


行ってほしくないと言った人が。


明日着る制服を、誰よりも丁寧に整えていた。


「もう起きるの?」


背後から声がした。


振り返る。


美咲が、布団の中からこちらを見ていた。


「起こした?」


「ううん」


美咲は身体を起こす。


髪が少し乱れている。


目元には、薄い影があった。


「眠れなかった?」


蒼真が聞く。


「そっちこそ」


「少しだけ」


「私も」


美咲は布団から出て、蒼真の横へ立った。


制服を見る。


部隊章へ触れる。


「今日から、これなんだね」


「うん」


「似合うかな」


「まだ着てないよ」


「着なくても分かる」


「結衣みたいなこと言うね」


「結衣なら、似合わないって言うでしょ」


「たぶん」


小さく笑う。


ほんの一瞬だけ。


けれど、その笑いは長く続かなかった。


美咲は制服の襟を整えた。


すでに整っている場所を、指先で何度もなぞる。


「ありがとう」


蒼真が言った。


「何が?」


「アイロン」


美咲は制服から目を離さない。


「嫌だから」


「え?」


「行ってほしくないの」


「うん」


「でも、しわだらけで送り出す方が、もっと嫌だった」


蒼真は返す言葉を探した。


見つからなかった。


代わりに、美咲の手へ自分の手を重ねた。


美咲は振りほどかなかった。


「昨日までは」


美咲が言う。


「管理局なら、危ない現場へ行っても、あなたは現場を見に行く人だった」


「うん」


「今日からは?」


蒼真は少し考える。


「現場へ残る人になる」


「それが怖い」


「僕も怖いよ」


「だったら」


そこまで言って、美咲は黙った。


行かないで。


その言葉を飲み込んだのだと思う。


言っても、蒼真が行くことを知っている。


そして行くことを責めれば、蒼真が苦しむことも知っている。


「嫌なら、嫌って言っていいよ」


蒼真は言った。


美咲は蒼真を見た。


「言ったら行かない?」


「……行く」


「じゃあ、言わない」


「ごめん」


「謝ってほしいわけじゃない」


「うん」


「帰ってきてほしいだけ」


その言葉は怒りよりも涙よりもずっと重かった。


蒼真は、すぐに答えられなかった。


必ず帰る。


そう言えばいい。


以前なら言えた。


出張へ行く朝。


現場へ向かう朝。


美咲や結衣に「帰ってくる?」と聞かれれば、当然のように「帰る」と答えた。


けれど昨日、一人の作業員が帰らなかった。


朝、家を出る時にはその人も、帰るつもりだったはずだ。


家族がいたかもしれない。


帰宅したら何を食べるか考えていたかもしれない。


約束していたかもしれない。


それでも帰れなかった。


「約束はできない」


蒼真は言った。


美咲の顔が、わずかに曇る。


「でも」


続ける。


「帰るつもりで行く」


美咲は何も言わない。


「帰るために考える」


「……うん」


「帰すためにも考える」


美咲は、ようやく小さく頷いた。


「それでいい」


そして。


蒼真の胸へ額をつけた。


抱きしめるわけではない。


ただそこにいることを確かめるように。


しばらく二人は動かなかった。


目覚まし時計は鳴らない。


止められたままになっている。


朝だけが、静かに始まっていた。


午前六時二十二分。


食卓には、いつもより多くの料理が並んでいた。


焼き魚。


卵焼き。


味噌汁。


小さな鉢に盛られた煮物。


昼の弁当へ入れるはずだった野菜まで、朝食の皿に載せられている。


「多くない?」


蒼真が言う。


「今日だけ」


美咲は短く答えた。


「食べきれないよ」


「残せばいい」


「もったいない」


「今日だけ」


また、その言葉。


今日だけ。


この家にとって今日が特別な日だということを、誰も言わずに確認している。


廊下から足音が聞こえた。


「おはよう」


結衣が居間へ入ってくる。


中学校の制服。


寝癖の残った髪。


眠そうに目をこすりながら、自分の椅子へ向かう。


途中で壁に掛けられた濃紺の制服に気づいた。


足が止まる。


「着るの?」


「食べてから」


「本当に行くんだ」


美咲と同じ言葉。


蒼真は苦笑した。


「辞令だからね」


結衣は顔をしかめる。


「そういう意味じゃない」


「ごめん」


「謝ることでもないし」


椅子へ座る。


卵焼きを一つ取る。


まだ口へ運ばず、制服を見ている。


「やっぱり、管理局の制服の方が似合ってた」


「まだ着てないけど」


「分かる」


「朝から厳しいな」


「だって、お父さん、戦う人っぽくないもん」


「戦う人になるわけじゃない」


「機体に乗るんでしょ」


「支援機にね」


「支援機だって、フレームワーカーじゃん」


「そうだね」


「武器もある?」


蒼真は少し迷った。


嘘をつく理由はない。


「たぶん」


「撃つの?」


「必要なら」


結衣の箸が止まった。


「必要ならって、誰が決めるの?」


「自分で決めることになる」


「お父さんが?」


「うん」


美咲が味噌汁を置く音が、少しだけ大きく響いた。


結衣は蒼真を見る。


「怖くないの?」


「怖いよ」


「じゃあ、なんで行くの」


「昨日みたいなことを、次は止めたいから」


昨日。


その言葉で、食卓の空気が変わる。


事故の映像。


崩れた建物。


搬送される負傷者。


画面の端に表示された死亡者数。


一名。


結衣は昨夜、ニュースを見ていた。


何も言わず、ただ、蒼真の隣に座っていた。


「昨日の人」


結衣が小さな声で言う。


「お父さんの知ってる人?」


「名前は知らない」


「話した?」


「少しだけ」


「何て?」


蒼真は思い出す。


作業前の確認。


短い返事。


その人は、早く終わらせたいと言っていた。


理由までは聞かなかった。


「早く終わらせたいって」


「どうして?」


「聞かなかった」


結衣は目を伏せた。


「家に帰りたかったのかもね」


「うん」


それ以上、誰も言わなかった。


小さな足音が、廊下から近づいてくる。


「ぱぱ!」


昴だった。


寝間着のままで髪は跳ねている。


片手には、昨日まで枕元へ置いていた小さな作業用ワーカーの玩具を持っていた。


蒼真の脚へ抱きつく。


「おはよう」


「おはよ!」


昴は蒼真の膝へよじ登ろうとする。


蒼真は身体を抱き上げ、自分の隣へ座らせた。


「今日は早いね」


「ぱぱ、いるから」


「いつもいるよ」


「きょう、ろぼっと?」


どうやら昨夜の会話を覚えていたらしい。


結衣が少し笑う。


「昴、ロボットじゃなくてフレームワーカー」


「ふれーむわーかー」


「そう」


昴は得意げに繰り返す。


そして壁際の制服に気づいた。


「ぱぱのおふく?」


「今日からね」


「くろい」


「濃紺」


「こん?」


「黒でいいよ」


美咲が苦笑する。


昴は椅子から降りると、制服の前へ歩いていく。


届かない。


背伸びをして袖の先へ指を触れさせる。


「かっこいい」


結衣が吹き出した。


「ほら。昴は何でも格好いいって言う」


「ぱぱ、かっこいい!」


昴は振り返り、今度は大きな声で言った。


蒼真は笑った。


「ありがとう」


「のる?」


「乗るかもしれない」


「ばんばんする?」


「しない」


「ぜったい?」


また。


約束。


蒼真は一瞬、答えに詰まる。


昴には、まだ分からない。


戦うこと。


人が死ぬこと。


帰れないこと。


分からないままでいてほしい。


けれど、何でも「絶対」と言うのは、もうできなかった。


「できるだけ、しない」


昴は首を傾げた。


よく分からなかったのだろう。


それでも。


「うん!」


と元気よく頷いた。


それから。


蒼真の膝へ戻る。


制服を見て。


蒼真を見て。


真剣な顔をした。


「ぱぱ」


「うん?」


「かえってくる?」


食卓が静かになった。


美咲も結衣も蒼真を見る。


昴の小さな手が、蒼真の袖を掴んでいる。


何の疑いもない目。


帰ってくることが当然だと思っている。


だからこそ軽くは答えられなかった。


蒼真は昴の頭へ手を置いた。


柔らかい髪。


温かい額。


「帰ってくる」


今度は、言った。


美咲がわずかに目を見開く。


結衣も。


昴だけが嬉しそうに笑った。


「やくそく?」


「帰るために行く」


昴は意味を理解していない。


それでも。


「やくそく!」


と勝手に決めて、蒼真の指へ自分の小指を絡めた。


小さな指。


簡単に折れてしまいそうなほど細い。


蒼真は、そっと小指を曲げた。


「約束」


その言葉は美咲にしたものとは違う。


必ず無傷で帰るという約束ではない。


危険なことをしないという約束でもない。


どんな判断をする時も。


帰ることを捨てない。


帰すことを諦めない。


そういう約束だった。


昴には、まだ分からない。


けれど蒼真には、それでよかった。


朝食が終わる頃。


外はすっかり明るくなっていた。


午前七時十分。


蒼真は濃紺の制服へ袖を通した。


布地は思ったより軽い。


けれど肩の部隊章が、やけに重く感じる。


鏡の前でネクタイを締めようとすると。


「貸して」


美咲が正面へ立った。


「自分でできるよ」


「知ってる」


ネクタイをほどく。


結び直す。


一度目。


「曲がってる」


もう一度。


二度目。


「長さが違う」


またほどく。


蒼真は何も言わず、美咲の手元を見ていた。


指が遅い。


いつもなら数秒で終わることを。


何度も繰り返している。


時間を止められない代わりに。


少しでも遅くしようとしている。


「電車に遅れる」


蒼真が言う。


「次があるでしょ」


「着任初日なんだけど」


「そうだった」


美咲はようやく結び目を完成させた。


襟を整える。


肩のほこりを払う。


胸の氏名章へ触れる。


「橘蒼真」


「うん」


「第三戦術機動中隊」


「うん」


「支援隊員兼現場連携官」


「長いよね」


「偉い人みたい」


「権限だけは」


「責任も」


「うん」


美咲は手を下ろす。


「戻ってきて」


「帰るつもりで行く」


「違う」


美咲は蒼真を見る。


「帰るつもりじゃなくて」


少しだけ、声が震えた。


「帰ってきて」


蒼真は今度は迷わなかった。


「帰ってくる」


美咲は頷いた。


「うん」


玄関。


結衣は先に学校へ行く支度をしている。


靴を履きながら、蒼真を一度だけ見る。


「似合わない」


「まだ言う?」


「でも」


結衣は立ち上がる。


少し考えて。


「格好悪くはない」


「それ、褒めてる?」


「たぶん」


「ありがとう」


「帰ってきてね」


「うん」


「昴との約束だけじゃなくて」


「分かってる」


「お母さんとも」


「分かってるよ」


結衣はようやく少し笑った。


「じゃあ、行ってきます」


「行ってらっしゃい」


先に扉を開ける。


外へ出る。


少し進んだところで振り返った。


「お父さん」


「何?」


「止めるの、得意そう」


「何を?」


「みんなが無理するの」


それだけ言って結衣は走っていった。


蒼真は玄関に立ったまま、その背中を見送る。


美咲が隣へ来る。


「褒められたね」


「たぶん」


昴が走ってくる。


玩具のワーカーを、蒼真へ差し出す。


「ぱぱ、これ!」


「持っていくの?」


「まもるやつ!」


小さな玩具。


腕が一本取れかけている。


何度も遊んだ跡がある。


「なくすかもしれないよ」


「いいよ」


「大事なんじゃない?」


「ぱぱのほうが、だいじ」


蒼真は、言葉を失った。


美咲が顔を逸らす。


笑ったのか泣きそうになったのかは分からない。


蒼真は玩具を受け取り、制服の内ポケットへ入れた。


「借りるね」


「かえしてね」


「うん」


「ぱぱも、かえってね」


「うん」


蒼真は昴の頭を撫でた。


美咲を見る。


結衣の去った道を見る。


家の中を見る。


いつもの玄関。


いつもの靴。


いつもの朝。


それを今日ほど大切だと思ったことはなかった。


「行ってきます」


美咲が答える。


「行ってらっしゃい」


昴が大きく手を振る。


「ぱぱ、いってらっしゃい!」


扉が閉じる。


家族の姿が見えなくなる。


蒼真は濃紺の袖を一度だけ握った。


それから第三中隊へ向かうため歩き出した。


今日から誰かを倒すためではない。


誰かが帰ってくるための仕事が始まる。


そして。その仕事がいつか蒼真を。


戦場全体を見る人間へ変えていくことを。


この時の彼は、まだ知らなかった。

面白いと思われたら、ブックマークして頂ければ幸いです。

また、いいね。評価もしていただけたら執筆の励みになりますので、よろしくお願いします。

感想も頂けましたらありがたいです。

よろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ