第二十一話 帰すための機体
四月九日。午前五時四十分。
目覚ましが鳴る少し前に、目が覚めた。
天井も、薄いカーテンも、隣で眠っている美咲の寝息も、昨日までと変わらない。それなのに、今朝は寝室そのものが少し遠く感じられた。
枕元の棚に、一枚の辞令が置かれている。
兼務先、第三戦術機動中隊。
職務、支援隊員兼現場連携官。
何度読んでも、印刷された文字は変わらない。変わらないのに、読むたび意味だけが重くなっていく。
美咲を起こさないよう布団を抜け、床へ足をつけた。春先の冷たさが、足の裏から身体へ上がってくる。
壁には、新しい制服が掛けられていた。
濃紺の上着。左肩には、盾を縦に割るような白い線が入った第三中隊の部隊章が付いている。
帰還経路を表したものだと、辞令と一緒に渡された説明書には書かれていた。戦う部隊の徽章なのに、武器ではなく帰るための道が描かれていることが、妙に心へ残った。
その隣には、昨日まで着ていた管理局の灰色の制服がある。見慣れた襟。何度も腕を通した袖。同じ仕事着のはずなのに、並べると別の人間の服に見えた。
濃紺の袖へ触れる。しわ一つない。
昨夜、俺が風呂へ入っている間に、美咲がアイロンを掛けていた。
第三中隊へ行ってほしくないと言った人が、明日着る制服を誰より丁寧に整えていた。
「もう起きるの?」
背後から声がした。
振り返ると、美咲が布団の中からこちらを見ていた。
「起こした?」
「ううん。あまり眠れてないから」
美咲は身体を起こした。髪が少し乱れ、目元には薄い影がある。
「俺も、目覚ましより先に起きた」
「眠れなかった?」
「少しは寝た」
「私も」
布団を出た美咲が、俺の隣へ立つ。濃紺の制服を見上げ、もう整っている襟を指先でなぞった。
「今日から、これなんだね」
「うん」
「似合うかな」
「まだ着てもいないよ」
「着なくても分かる」
「結衣みたいなことを言うね」
「結衣なら、似合わないって言うと思う」
「多分ね」
二人で少しだけ笑った。
笑い終わると、寝室へ静けさが戻った。美咲の指は、まだ制服の襟に触れている。
「ありがとう」
「何が?」
「アイロン」
美咲は制服から目を離さなかった。
「行ってほしくないから」
「うん」
「でも、しわだらけで送り出す方がもっと嫌だった」
返す言葉が見つからず、美咲の手へ自分の手を重ねた。美咲は振りほどかなかった。
「昨日まで、あなたは危ない現場へ行っても、現場を見に行く人だった」
「今日からも、基本は同じだよ」
「同じじゃない。昨日までは、戦闘が始まったら専門の人へ渡していた。今日からは、その人たちと同じ場所に残るんでしょう」
正しかった。
「それが怖い」
「俺も怖い」
「だったら――」
そこで、美咲は言葉を止めた。
行かないで、と言いかけたのだと思う。言っても俺が行くことを知っている。行くことを責めれば、俺が苦しむことも知っている。
「嫌なら、嫌だって言っていいよ」
美咲が俺を見る。
「言ったら、行かない?」
「……行く」
「なら、今は言わない」
「ごめん」
「謝ってほしいわけじゃない。帰ってきてほしいだけ」
その言葉は、怒りよりも涙よりも重かった。
必ず帰る。そう答えればいい。
以前なら、迷わず言えた。出張へ行く朝も、現場へ向かう朝も、美咲や結衣に聞かれれば、当然のように帰ると答えた。
けれど昨日、一人の作業員が帰らなかった。
あの人も朝、帰るつもりで家を出たはずだ。家族と何か約束していたかもしれない。それでも帰れなかった。
絶対という言葉が、昨日までとは違う重さになっていた。
「約束は、できない」
美咲の顔が僅かに曇る。
「でも、帰ることを捨てない。自分が帰るために考えるし、ほかの人を帰すためにも考える」
美咲はしばらく黙っていた。
やがて、俺の胸へ額をつける。抱きしめるのではなく、そこにいることを確かめるように。
「今は、それでいい」
俺たちは、しばらく動かなかった。
止めておいた目覚ましは鳴らない。窓の外だけが、少しずつ明るくなっていった。
*
午前六時二十二分。
食卓には、いつもより多くの料理が並んでいた。
焼き魚に卵焼き、味噌汁、煮物。弁当へ入れるつもりだったらしい野菜まで、朝食の皿に載っている。
「多くない?」
「今日だけ」
美咲は、それしか答えなかった。
「食べきれないよ」
「残していい」
「もったいない」
「今日だけ」
この家にとって、今日が特別な日なのだと、誰も口にしないまま確認している。
廊下から足音が聞こえ、結衣が居間へ入ってきた。中学校の制服を着ているが、髪にはまだ寝癖が残り、目も半分しか開いていない。
自分の椅子へ向かう途中、壁に掛けられた濃紺の制服へ気づき、足を止めた。
「本当に着るんだ」
「食べてからね」
「そういう意味じゃない」
結衣は少し顔をしかめて座り、卵焼きを一つ取った。口へ運ばず、もう一度制服を見る。
「やっぱり、管理局の服の方が似合ってた」
「まだ着てないけど」
「着なくても分かる。お父さん、戦う人っぽくないもん」
「戦う人になるわけじゃない。支援と現場の調整が仕事だよ」
「でも、フレイムワーカーには乗るんでしょう」
「臨時でね。今日乗るかどうかも、まだ聞いてない」
「武器は?」
嘘をつく理由はなかった。
「支援機にも、最低限はあると思う」
「撃つかどうかは、お父さんが決めるの?」
「状況によっては」
美咲が味噌汁を置く音が、少しだけ大きくなった。
結衣は箸を止め、俺を見る。
「怖くないの?」
「怖いよ」
「じゃあ、どうして行くの」
「昨日みたいな時に、もう一度見てくれと頼むだけで終わりたくないから」
昨日、という言葉で食卓の空気が変わった。
結衣は昨夜、ニュースを見ていた。崩れた処理場。搬送される負傷者。画面の端に表示された死亡者一名という文字。
何も言わず、俺の隣へ座っていた。
「亡くなった人、お父さんの知ってる人だった?」
「作業名簿で名前は確認した。でも、直接はほとんど話していない」
「その人も、家に帰るつもりだったよね」
「そうだと思う」
それ以上、誰も続けなかった。
小さな足音が廊下から近づいてくる。
「ぱぱ!」
昴が、寝間着のまま走ってきた。跳ねた髪と、片手に持った小さな作業用ワーカーの玩具が一緒に揺れている。
俺の脚へ抱きつき、そのまま膝へ上ろうとする。身体を抱き上げ、隣の椅子へ座らせた。
「今日は早いね」
「ぱぱ、いるから」
「いつもいるよ」
「きょう、ろぼっと?」
昨夜の話を覚えていたらしい。
「ロボットじゃなくて、フレイムワーカー」
結衣が教える。
「ふれいむわーかー」
昴は得意そうに繰り返し、壁際の制服へ気づいた。
「ぱぱのおふく?」
「今日からね」
「くろい」
「濃紺」
「こん?」
「黒でいいよ」
美咲が苦笑する。
昴は椅子を降り、制服へ近づいた。背伸びをして袖の先へ触れる。
「かっこいい」
「ほら。昴は何でも格好いいって言う」
結衣が笑う。
「ぱぱ、かっこいい!」
今度は俺へ向かって、同じことを大きな声で言った。
「ありがとう」
「のる?」
「今日は、乗るかもしれない」
「ばんばんする?」
「できれば、ずっとしない」
「かえってくる?」
食卓が静かになった。
美咲も結衣も、俺を見る。昴だけが、帰ってくることを疑っていない目で見上げている。
軽く答えることはできなかった。それでも、二歳の子供へ危険と確率を説明することもできない。
昴の頭へ手を置く。
「帰ってくる」
美咲が僅かに目を見開いた。
昴は嬉しそうに笑い、自分の小指を差し出した。
「やくそく」
「帰ることを、諦めない。約束する」
意味は分からなかったと思う。
それでも昴は満足し、俺の小指へ自分の小さな指を絡めた。
*
午前七時十分。
濃紺の制服へ袖を通す。布地は管理局の制服より軽いのに、左肩の部隊章だけが重く感じられた。
鏡の前でネクタイを締めようとすると、美咲が正面へ立った。
「貸して」
「自分でできるよ」
「知ってる」
一度結んだネクタイを、美咲は曲がっていると言ってほどいた。二度目は長さが違うと言い、もう一度やり直した。
いつもなら数秒で終えることを、今日は何度も繰り返している。
時間を止められない代わりに、少しでも遅くしようとしているように見えた。
「電車に遅れる」
「次があるでしょう」
「着任初日なんだけど」
「そうだった」
美咲は、ようやく結び目を整えた。襟、肩、胸の氏名章へ順番に触れる。
「橘蒼真」
「うん」
「第三戦術機動中隊付、支援隊員兼現場連携官」
「長いね」
「権限も長い」
「責任もね」
美咲は手を下ろし、俺を見た。
「帰ってきて」
今度は、言葉を探さなかった。
「帰ってくる」
「うん」
玄関では、結衣が先に靴を履いていた。俺の制服姿を見上げ、少し考える。
「やっぱり似合わない」
「朝から二回目だよ」
「でも、格好悪くはない」
「それは褒めてる?」
「多分」
結衣は扉を開け、外へ出た。数歩進んだところで振り返る。
「お父さん」
「何?」
「みんなが無理するのを止めるの、得意そう」
それだけ言って、学校へ向かって走っていった。
美咲が隣で小さく笑う。
「褒められたね」
「多分ね」
昴も廊下を走ってきた。手にしていた作業用ワーカーの玩具を、俺へ差し出す。
「ぱぱ、これ」
「持っていくの?」
「まもるやつ」
小さな玩具は、片腕が外れかけていた。何度も床へ落とし、風呂にまで持って入ろうとした、大事なものだ。
「なくすかもしれないよ」
「いいよ」
「大事なんでしょう」
「ぱぱのほうが、だいじ」
言葉が出なかった。
美咲が顔を逸らす。笑ったのか、泣きそうになったのかは分からない。
俺は玩具を受け取り、制服の内ポケットへ入れた。
「借りるね」
「かえしてね。ぱぱも」
「うん」
昴の頭を撫で、美咲を見る。
いつもの玄関。並んだ靴。結衣が出ていったばかりの道。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
昴も、大きく手を振った。
「ぱぱ、いってらっしゃい!」
扉が閉じ、家族の姿が見えなくなる。
濃紺の袖を一度だけ握り、第三中隊へ向かって歩き出した。
誰かを倒すためではない。
誰かが帰ってくるための仕事へ。
*
午前七時四十六分。
第三中隊基地の正門前に立った。
濃紺の制服。防壁。警備端末。構内を行き交う搬送車両。格納庫の方角から、低い機関音が絶えず聞こえてくる。
左手には、管理局の机から運んできた私物の箱を抱えていた。書類はほとんど電子化されているので、中身は少ない。家族の写真、筆記具、何年も枯れずに残っている小さな鉢植え。それから、内ポケットに昴の玩具。
初出勤というより、引っ越しに近い。
警備端末へ身分証を当てる。
《橘蒼真。第三戦術機動中隊付、支援隊員兼現場連携官。入構を許可します。》
機械の声に、自分の知らない肩書きを呼ばれた。
門が開く。
戻ろうと思えば、まだ戻れる。
そう考えたのは一瞬だけだった。背後で門が閉じる音を聞きながら、指定された本部棟へ向かった。
玄関前に、片瀬がいた。
何度も現場で顔を合わせているが、基地で会うのは初めてだった。管理局の俺を見る時とは違い、今日は最初に左肩の部隊章へ目を向けた。
「おはようございます」
「おはようございます。早いですね」
「八時集合と聞きました」
「まだ十四分あります」
「遅れるよりは」
「第三中隊では、早すぎる人は牧野さんに捕まります」
「何をされるんですか」
「仕事を増やされます」
帰りたくなった。
片瀬は、俺の抱えている箱を見る。
「持ちます」
「大丈夫です」
「今日から同じ中隊です。遠慮すると、あとで面倒ですよ」
「誰が」
「私が」
箱を半分奪うように受け取られた。
本部棟へ入ると、管理局とは空気が違った。廊下を歩く人の足が速い。会話は短く、立ち止まっている人がほとんどいない。壁面表示には機体の状態と待機区分が並び、誰かが出動すれば、建物全体が同時に動くように作られている。
それでも、全員が無言というわけではなかった。
片瀬が箱から覗く鉢植えを見て、通り過ぎる隊員が二度見する。管理局から植物を持ってきた人間は、珍しいらしい。
「それ、どこへ置くんですか」
「俺の机があるなら、そこへ」
「ありますよ」
「もう?」
「昨日の夕方から」
事故が終わる前から、俺の席だけができていた。
課長の言った通り、今回の異動は昨日思いついたものではない。
案内された部屋には、神代中隊長、安西、御堂がいた。
神代中隊長が中央。安西は壁際で腕を組み、御堂は俺の分らしい端末を設定している。
「橘蒼真です。本日付で――」
「知っている」
神代中隊長に、最初の挨拶を途中で止められた。
「現場で何度も会っている。必要なのは自己紹介ではなく、今日から何が変わるかだ」
「では、先に確認させてください」
「言え」
「俺は常任搭乗者にはなりません。乗ることを前提に、配置へ組み込まないでください」
安西が小さく息を吐いた。
「初日に最初の言葉が拒否かよ」
「曖昧にすると、後で通常業務になります」
「もう機体まで用意されてるぞ」
「それでもです」
安西と視線が合う。
感じが悪い。
多分、向こうも同じことを思っている。
神代中隊長は、机の上の規程を開いた。
「搭乗区分は臨時。通常編成の定員には含めない。搭乗が必要な場合は、正式搭乗者、遠隔機、無人支援装置の順に検討し、代替がない場合に要請する」
「要請なら拒否できる」
「できる。命令へ切り替える場合は、命令者と理由を記録する」
課長から聞いた内容と同じだった。
「異議は」
「今のところはありません」
「次。お前に戦術指揮権はない」
「必要ありません」
「敵性個体が確認された後、攻撃と部隊配置を決めるのは現地指揮官だ。お前は非戦闘員の退避、復興設備の停止、救助経路の確保を担当する」
「戦闘が始まる前は」
「共同現場安全停止権を使える。原因不明の兆候を危険と認定した場合、現場作業は停止。警戒部隊も未確認脅威対応へ移り、再確認を終えるまで通常配置へ戻れない」
「現地指揮官が拒否したら」
「拒否はできる。ただし、根拠を記録し、別の共同責任者の承認を得る。その間、作業は止まる」
第六中隊と組んだ現場で、この規程があったなら。
考えそうになり、止めた。
昨日へ戻るための権限ではない。
次に使うためのものだ。
「分かりました」
「分かっただけでは足りない。使え」
「必要な時は」
「必要かどうかを決めるのがお前だ」
逃げ道を一つ塞がれた。
御堂が端末から顔を上げる。
「こちらが管理局との共用回線です。復興設備、作業員名簿、区域図面は、従来通り管理局側の権限で閲覧できます。戦術情報は必要範囲だけ開示されます」
「全部は見られない?」
「今の職務には不要です」
「何が不要かを、誰が決めますか」
御堂が一瞬止まった。
神代中隊長が、僅かに口元を緩める。
「その質問をするから、お前がここへ呼ばれた」
「答えになっていません」
「必要になった時に申請しろ。俺が判断する」
納得はしていないが、今はそれ以上言えなかった。
片瀬が、持ってきた箱を空いている机へ置く。鉢植えを窓際へ出すと、無機質だった机が少しだけ管理局の自分の席に近づいた。
安西が、それを見て言う。
「遠足気分か」
「植物に気分はありません」
「お前の話だ」
「枯れるので持ってきました」
「家へ持って帰れよ」
「職場に置いていたものです」
「面倒なやつだな」
「今、同じことを思いました」
片瀬が顔を逸らした。笑ったように見えた。
神代中隊長が立ち上がる。
「話は終わりだ。次へ行く」
「どこへですか」
「お前が一番行きたくない場所だ」
「帰っていいですか」
「却下する」
安西が、今度ははっきり笑った。
*
第三格納庫へ近づくにつれ、機関音が大きくなった。
防音扉を二枚抜ける。油と金属と冷却剤の臭い。高い天井から整備用の照明が降り、床には機体を固定するための誘導線が何本も引かれている。
格納庫の中央に、一機だけ、ほかの機体から離して立たされていた。
大きい。
最初に浮かんだ感想は、それだった。
第三中隊の戦闘機より一回り大きく、胴体も脚も太い。装甲の一部はまだ下地の灰色で、肩と胸には識別線を入れるための印だけが残っている。速く走るための細さも、敵を威圧する鋭さもない。
背中には二基の牽引装置。腰部には折り畳まれた補助アーム。胸部装甲の内側には、負傷者を収容するための救助ポッドが組み込まれている。
重く、不格好だった。
だが、地面へ置かれた太い脚は、何かに押されても簡単には動かないように見えた。
「遅い」
機体の足元で端末を見ていた牧野が、こちらを見ずに言った。
「着任時刻より前に来ました」
「機体は昨日から待ってる」
「俺が来ることを知っていたんですか」
「俺は機体の予定しか知らん」
それが答えらしい。
神代中隊長が、俺と機体の間に立った。
「広域支援・回収型、FW-S09。今日から第三中隊で運用する」
「俺の専用機ですか」
「違う」
即答したのは牧野だった。
「機体は人間の所有物じゃない。必要なやつが使う」
「では、俺が乗らなくても」
「動かせる人間がいればな」
「正式搭乗者を」
「こいつを動かせる人間は、今のところ三人。全員、別の主力機を持ってる」
逃げ道が、また一つ減った。
牧野が端末を操作すると、機体の透過図が壁面へ表示された。
「速くない。飛べない。火力も低い」
「良いところは?」
「引ける。支えられる。壊れにくい」
背部の牽引装置が二基。損傷機を一機ずつ接続し、同時に二機まで回収できる。脚部アンカーを使えば、倒壊しかけた構造物の保持や、瓦礫の引き出しにも対応する。
腰部の補助アームは、機体本体の腕で大きな瓦礫を支えたまま、負傷者を収容するために付けられている。
武装は短距離防御砲と迎撃装置、煙幕弾。敵を追って倒すためではなく、救助や回収を邪魔させないための装備だった。
「戦闘機ではないんですね」
「戦場へ入る以上、戦闘からは逃げられん」
牧野は画面を消し、初めて俺を正面から見た。
「だが、こいつの仕事は倒すことじゃない。帰すことだ」
「誰を」
「動けない機体。その中にいる人間。瓦礫の下にいる人間。最後に、お前自身」
機体を見上げる。
まだ塗装されていない胸部に、小さな仮表示だけが点っていた。
《NOSTOS》
「ノストス」
声に出す。
「古い言葉で、故郷への帰還を意味する」
神代中隊長が言った。
「縁起を担いだ名前ですか」
「名前を付ければ帰れるなら、整備はいらん」
牧野が遮る。
「壊れたら直す。動かなければ引く。道がなければ作る。名前に頼る前に全部やれ」
「はい」
「機体は壊していい」
牧野の声が低くなる。
「中身を帰せ」
短い言葉だった。
だが、何のための機体なのかは、それで十分に分かった。
*
今日は起動しないと聞かされた。
搭乗者の身体に合わせた座席調整、生命維持装置との接続確認、認証登録。それだけで半日はかかるらしい。
それでも、操縦席へ入らなければならない。
胸部まで昇降機で上がり、開いたハッチの前へ立つ。
中は、これまで緊急時に乗った戦闘型より広かった。正面表示のほか、左右に味方機の状態、牽引負荷、救助ポッドの生命反応、退避経路を示す専用画面が並んでいる。
武器の表示は、端に小さくまとめられていた。
操縦席へ腰を下ろす。
硬い。
「長時間乗る機体にしては、座席が硬くないですか」
『柔らかいと姿勢がずれる』
牧野の声が、機内通信から返ってきた。
「どこまで聞こえるんですか」
『全部だ。独り言も言うな』
「まだ言っていません」
『顔に出てる』
機体の内側から、こちらの顔が見えているらしい。嫌な職場だった。
座席の位置が調整され、背中と肩、腰へ固定具が当たる。両手を操作桿へ置くと、掌が少し汗ばんでいた。
まだ動かしていない。
座っただけで、怖い。
胸部装甲が閉じれば、外の光が消える。機体が自分の手で動き始めれば、次は現場へ出る。昨日のような場所へ、この大きな身体で入ることになる。
内ポケットに、硬いものが当たった。
昴から借りた玩具だった。
取り出すと、機内映像を見ていた牧野がすぐに反応した。
『何だ、それは』
「息子の玩具です。守るものだそうです」
『操縦席へ異物を持ち込むな』
「捨てますか」
数秒、返事がなかった。
『右側の収納へ入れろ。固定帯を使え。操作部へ落としたら俺が捨てる』
「分かりました」
玩具を小さな収納部へ入れ、固定帯を二重に掛けた。片腕の外れかけた作業機が、透明な蓋の向こうからこちらを見ている。
《搭乗者認証を開始します。》
白い文字が、中央表示へ浮かんだ。
氏名、生体情報、過去の搭乗記録が照合される。
《橘蒼真。》
《登録区分――仮。》
仮。
それだけで、少し安心した。不適合なら、このまま乗らずに済むかもしれない。
《恐怖反応を検出。》
「不適合ですか」
《正常範囲です。》
また、その言葉だった。
『AIと話すな』
牧野が言う。
「向こうから話しかけてきました」
『返事をするから続く』
中央表示の文字が、一度消える。
暗くなった画面へ、次の表示がゆっくり浮かび上がった。
《機体番号――FW-S09。》
《機体名称――NOSTOS。》
ノストス。
帰すための機体。
明日、初めて起動する。
乗りたいとは思わなかった。
それでも、右側の収納に置いた小さな玩具を見ながら、この機体で誰を帰せるのかだけは、知りたいと思った。
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また、いいね。評価もしていただけたら執筆の励みになりますので、よろしくお願いします。
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