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第十七話 慣れてしまうということ

美咲が最初に気づいたのは、靴だった。


朝。


玄関。


蒼真はいつも通り、黒い革靴を履いていた。


右足を入れ。


踵を指で整え。


左足も同じように履く。


鞄を持ち上げ。


時計を見る。


それだけなら、何も変わらない。


けれど。


「行ってきます」


声が、以前より軽かった。


明るいわけではない。


元気よく叫ぶわけでもない。


ただ。


以前のように、玄関の扉を開ける前に一度立ち止まらなくなった。


少し前までの蒼真は、出勤する直前になると必ず何かを確認していた。


鞄の留め具。


端末の充電。


財布。


身分証。


鍵。


どれも既に確認しているのに、もう一度触れる。


扉へ手を掛けてから、靴箱の上を見る。


忘れ物があるわけでもない。


それでも、すぐには出ていかなかった。


その数秒が、美咲には分かっていた。


仕事へ行きたくない時の蒼真は、出発を数秒だけ遅らせる。


本人は気づいていない。


時間に遅れるほどではない。


家族が声を掛けるほど長くもない。


けれど、妻には分かる。


毎朝見ているから。


「お父さん、今日、現場?」


結衣が食卓から声を飛ばした。


蒼真は扉を開けかけたまま振り返る。


「今のところは事務」


「今のところって言った」


「連絡が来れば変わるかもしれない」


「戦う?」


「戦わない」


「乗る?」


「予定はない」


以前なら。


その二つを答える時、少しだけ顔が硬くなった。


戦う。


乗る。


その言葉を自分の一日へ結びつけるだけで、目が揺れた。


今朝は違う。


嫌そうではない。


恐れていないわけではないだろう。


ただ、質問に答えた後、その話を自分から続けた。


「藤堂さんが、設備台帳の整理方法を変えたいと言っているから、午前中はその確認をする」


「藤堂さん?」


結衣が首を傾げる。


「この前、機械を止めた人」


「ああ。嫌な先生に質問されてた人」


「嫌な先生ではない」


「お父さんのことだよ」


「分かってる」


蒼真の口元が、僅かに動く。


笑った。


本当に小さく。


以前なら、朝から職場の人間について話すことはほとんどなかった。


仕事の内容を聞いても。


「書類」


「会議」


「現場」


その程度。


人の名前が出ることは少ない。


誰が何を言った。


誰が何を間違えた。


誰がどんな顔をした。


そういう話は、家へ持ち帰らなかった。


今は。


藤堂という職員が、設備図面に色を付けた。


久我が、色分けの規則が曖昧だと言った。


森下が、色覚の違いにも配慮すべきだと言い出した。


結果、三人で朝から揉めている。


そこまで話す。


「結局、どうするの?」


結衣が聞く。


「俺が決める話じゃない」


「じゃあ誰が決めるの」


「使う人たち」


「お父さんも使うでしょ」


「俺は、最後に困るところがないか確認する」


「また見てるだけ?」


「見るのも仕事です」


少し楽しそうだった。


美咲には、そう見えた。


「行ってきます」


今度こそ蒼真は扉を開けた。


立ち止まらない。


鞄の留め具にも触れない。


靴箱の上も確認しない。


外へ出る。


扉が閉まる。


結衣は味噌汁を飲みながら言った。


「お父さん、最近、仕事の話するね」


美咲は返事をしなかった。


自分と同じことを、娘も感じている。


それが少し怖かった。



変化は急ではなかった。


美咲が振り返れば、幾つも小さな兆候があった。


帰宅した時。


以前の蒼真は、まず玄関で立ち止まった。


上着に臭いが付いていないか。


靴に泥が付いていないか。


袖や鞄に血や体液の跡がないか。


自分で確かめる。


美咲が聞く前に。


「現場ではない」


「搭乗していない」


「敵性個体はいなかった」


それだけを先に伝えた。


家族を安心させるためだった。


けれど、その言葉は報告書のようだった。


余計なことを言えば、自分の中にある恐怖まで零れてしまう。


そう思っているように見えた。


最近は違う。


「ただいま」


「おかえり」


「今日、久我さんが警察局の担当者を黙らせた」


玄関でいきなり、それだった。


美咲は手にしていた布巾を止めた。


「何をしたの?」


「黙らせたわけではない。相手が勝手に黙った」


「同じじゃない?」


「違う」


靴を脱ぎながら、蒼真は話を続ける。


現場への立入許可を巡り、警察局の担当者が書類の不足を理由に手続きを止めた。


久我は声を荒らげなかった。


相手の規則を一つずつ確認し。


必要な書類番号を聞き。


その規則のどこに今回の停止理由が書かれているのか尋ねた。


最後に。


「規則にない判断で止めるのであれば、判断者のお名前を記録へ残します」


と言った。


相手は数秒黙り。


その後、手続きを進めた。


「怒ったの?」


結衣が居間から聞く。


「久我さんは怒らない」


「怖い?」


「かなり」


「お父さんより?」


蒼真は上着を脱ぎながら考えた。


「種類が違う」


「どんな種類?」


「俺は質問が多いと言われる」


「嫌な先生」


「久我さんは、相手が答えたくない質問を選ぶ」


「もっと嫌な先生じゃん」


「そうかもしれない」


蒼真は笑っていた。


声を出すほどではない。


けれど、美咲には分かる。


話しながら、その場面を思い出している。


困った。


驚いた。


面白かった。


そういう感情が、言葉の端へ混じっている。


仕事の話をしながら蒼真が笑う。


それは以前にはなかった。


まったくなかったわけではない。


復興事務をしていた頃。


補償が認められた。


設備が再稼働した。


避難していた人が戻れた。


そういう結果について、穏やかに話すことはあった。


だが、同僚の話はしなかった。


人間関係を職場へ置いてきていた。


家へ持ち帰るほど、近くなかったのだと思う。


今は違う。


藤堂が、携帯端末を工具箱へ入れたまま一時間探した。


久我が、書類の誤字を見つけ、作成者へ返したところ、同じ書類が一文字も変わらず戻ってきた。


森下が、安全確認のために買った菓子を「非常食」と言い張り、午前中に全部食べた。


そんな話をする。


重大な出来事ではない。


仕事の成果でもない。


ただ、一緒に働いている人間の話。


「森下さん、お菓子好きなの?」


結衣が聞く。


「好きだと思う」


「何のお菓子?」


「小さい丸いの」


「分からない」


「袋に入ってた」


「もっと見てきてよ」


「仕事中に菓子の銘柄まで確認しない」


「全体を見る人なのに?」


「見る範囲が違う」


「見てないじゃん」


結衣が笑う。


蒼真も笑う。


美咲は、味噌汁をよそう手を止めそうになった。


楽しいのだ。


この人は。


その事実が、胸の中へ冷たい物を落とした。



怖かった。


蒼真が仕事を楽しむことが、嫌なわけではない。


以前の部署で。


誰かの生活が戻ることを喜ぶ蒼真を、美咲は好きだった。


書類ばかりの仕事だと本人は言う。


だが、その書類の先には必ず人がいる。


壊れた家。


止まった店。


戻れない家族。


蒼真は直接会わなくても、その人たちが困らないように考えていた。


戦わない仕事。


助ける人を支える仕事。


それが蒼真に合っていると、美咲は思っていた。


今も本質は変わっていない。


消防や警察や第三中隊が入れるように、現場を整える。


復旧を始める人へ、安全な場所を渡す。


戦うことより、繋ぐことを選んでいる。


分かっている。


それでも。


現場へ行くことを嫌がらなくなっている。


特殊区域の臭いに慣れ。


壊れた建物に慣れ。


警報に慣れ。


フレームワーカーの操縦席に慣れ。


敵性個体が近くにいる状況に慣れる。


慣れた先に何があるのか。


美咲は知っている。


親戚の兄。


最初は震えていた。


吐いたこともある。


夜中に飛び起きた。


音に怯え。


眠れず。


それでも出勤した。


やがて。


「慣れた」


と言った。


その頃から、笑い方が変わった。


危険な話を、面白い話のようにするようになった。


倒した数を話す。


味方の損傷を軽く言う。


恐怖を捨てたことを、強さだと思うようになった。


最後には。


以前の彼を知る人間ほど、話が通じなくなった。


蒼真も、同じ道へ入っているのではないか。


戦いたくないと言いながら。


現場で必要とされ。


頼られ。


判断を任され。


仲間ができ。


そこを自分の居場所にしていく。


気づいた時には。


家より。


職場の人間にしか分からない話の方が増えている。


そうなるのではないか。


「お母さん?」


結衣が呼ぶ。


「何?」


「味噌汁、いっぱい」


椀から溢れそうになっていた。


「あ、ごめん」


慌てて鍋へ戻す。


蒼真がこちらを見る。


「大丈夫?」


「考え事」


「何かあった?」


「何も」


答えてから。


美咲は自分で嫌になる。


蒼真が隠せば、話してほしいと思う。


自分は何もないと言う。


「本当に?」


「大丈夫」


蒼真は少しだけ見ていたが、それ以上聞かなかった。


以前なら、それで終わりだった。


今夜は違う。


「今日、森下さんに言われた」


蒼真が食卓へ座りながら言う。


「何を?」


「家族が大丈夫と言った時は、だいたい大丈夫ではないと」


美咲の手が止まる。


「森下さんが?」


「安全確認の話から、なぜか家族の話になった」


「仕事中に?」


「移動中」


「何の話をしてるの」


「森下さんは、何でも安全確認にする」


「奥さんいるの?」


「います」


「どんな人?」


「知りません」


「そこは見てないのね」


「見る必要がない」


蒼真は答えた後、少し間を置いた。


「本当に、何かあった?」


今度は、さっきより柔らかい。


美咲は椅子へ座った。


今すぐ話すべきか分からない。


自分の不安が正しいとも限らない。


仕事に慣れてきた夫へ。


慣れないで。


楽しそうにしないで。


そう言うのは、あまりに身勝手ではないか。


「蒼真」


「うん」


「最近、仕事へ行く時、嫌そうじゃないね」


言った。


蒼真は、意味が分からないような顔をした。


「嫌そう?」


「前は、玄関で止まってた」


「忘れ物の確認では」


「違う」


「何が」


「行きたくない時の癖」


蒼真が黙る。


自分では知らなかったらしい。


「最近は止まらない」


「仕事が減ったからだと思う」


「それだけ?」


「現場へ行く日も、前ほどではないかもしれない」


「怖くなくなった?」


問い。


蒼真の箸が止まった。


結衣が、二人の顔を交互に見る。


美咲は娘の前で聞くべきではなかったと思った。


だが、もう戻せない。


「怖いよ」


蒼真が答える。


「本当に?」


「怖い」


迷いはなかった。


「地下へ入る時は、何かいるかもしれないと思う。音がすると止まる。機体に乗る時は、今でも手が冷たくなる」


「でも、前より楽しそう」


言葉が強くなる。


「藤堂さんや久我さんや森下さんの話をする時、嬉しそうに見える」


「そう?」


「自分で気づいてないの?」


蒼真は答えない。


「現場の話も変わった」


美咲は続けた。


止められなかった。


「前は、何があったかしか言わなかった。搭乗したか。敵がいたか。怪我をしたか。それだけだった」


「心配させないために」


「今は誰が何を言ったか話す。藤堂さんがどう判断したとか、久我さんがどんな交渉をしたとか、森下さんが何を食べたとか」


「それは」


「楽しいんでしょう?」


結衣が息を潜めている。


蒼真は、すぐには答えなかった。


「嫌なの?」


やっと出た言葉。


美咲の胸が痛む。


「嫌じゃない」


「じゃあ」


「怖いの」


「何が」


「あなたが慣れていくのが」


静かになった。


冷蔵庫の低い音。


外を通る車。


結衣が箸を置く小さな音。


「慣れると、何が駄目?」


蒼真が聞く。


責める声ではなかった。


本当に分からないから聞いている。


美咲は、兄のことを思い出した。


最初に戦場の話を笑ってした夜。


家族が安心した夜。


もう大丈夫なのだと思ってしまった夜。


「あの人も言ったから」


蒼真の目が変わる。


誰のことか、すぐに分かった。


「慣れたって」


「俺は、あの人とは違う」


「分かってる」


「敵を倒したことを喜んでない」


「分かってる」


「戦いたくない」


「それも分かってる」


「じゃあ」


「分かってるから怖いの」


美咲は自分の手を握った。


「あなたは嫌なことでも、必要なら続ける。誰かが困っていたら、断れない。怖くても、役に立てるなら行く」


「それは」


「その場所に仲間ができたら、もっと行くでしょう」


蒼真の口が閉じる。


「藤堂さんたちが危ないなら。久我さんが困っているなら。森下さんが一人で行くなら。あなたは家にいたいと思っても、行く」


否定しなかった。


否定できないのだろう。


「それで、行くことに慣れて。現場にいる自分に慣れて。必要とされることに慣れて」


声が少し震えた。


「いつか、行かない自分の方を嫌いになるんじゃないかって思う」


蒼真の目が、美咲から落ちる。


食卓を見る。


「そんなつもりはない」


「つもりの話じゃない」


「美咲」


「楽しそうに話してるあなたを見て、安心したかった」


本音が出る。


「一人じゃなくなった。嫌な仕事だけじゃなくなった。そう思いたかった」


涙が出そうになる。


泣くほどの話ではない。


蒼真は怪我をしていない。


今ここにいる。


同僚の話を笑ってしている。


良いことのはずなのに。


「でも、怖くなった」


美咲は言った。


「あなたが仕事を好きになるのが」



誰もすぐには話さなかった。


最初に動いたのは結衣だった。


椅子から降りる。


自分の食器を持つ。


「私、テレビ見てる」


逃げた。


子どもに気を遣わせた。


美咲は後悔した。


「ごめん」


誰に対して言ったのか、自分でも分からない。


蒼真は娘の背中を見送り、しばらく黙っていた。


「俺は」


言葉を探している。


「慣れてきたと思う」


美咲は顔を上げる。


否定されると思っていた。


「臭いも。現場の音も。防護服も。警戒機が近くにいることも」


一つずつ認める。


「最初より、動ける。何を確認すればいいか分かるから、全部を怖がらなくなった」


「それが」


「でも、怖くなくなったわけではない」


蒼真は自分の掌を見た。


「怖がる場所が、はっきりしただけだと思う」


「場所?」


「以前は、現場全部が怖かった」


地下。


警報。


装甲。


敵性個体。


何が危険か分からない。


だから、そこにある物すべてを警戒した。


「今は、どこが危険か少し分かる。扉が閉じなければ止める。図面が違えば触らない。誰が確認していないか探す」


それは慣れ。


だが、恐怖を失った慣れではない。


恐怖を使える形へ分けている。


蒼真は、そう言おうとしている。


「藤堂さんたちの話をするのは」


蒼真が続ける。


「多分、嬉しいからだと思う」


認めた。


美咲の胸が揺れる。


「仕事が?」


「一人じゃないことが」


言葉は静かだった。


「今まで、現場へ行くと、自分が全部見なければと思っていた。誰かに任せて、間違っていたらどうする。自分が確認しなかったせいで事故が起きたらどうする。そう考えてた」


「今は?」


「藤堂さんは設備を見る。久我さんは、俺が話しても通らない相手と話せる。森下さんは、俺が大丈夫だと思った後でも確認する」


少し笑う。


「俺より、得意な人がいる」


「それが嬉しい?」


「うん」


即答。


「俺が必要じゃなくなることは、まだ少し怖い」


正直。


「でも、自分がいないと駄目な場所へ行くより、自分がいなくても大丈夫な場所へ行く方が、最近は楽だと思う」


美咲は、夫の顔を見た。


現場へ行くことが楽なのではない。


仲間に会うことが楽しみなのでもない。


いや。


それも少しはあるのだろう。


けれど、一番大きいのは。


一人で全部を背負わなくていい場所が、初めてできたこと。


蒼真は仕事に慣れただけではない。


誰かへ頼ることに、慣れ始めている。


「仕事へ行くのが嫌じゃなくなった?」


美咲が聞く。


蒼真は考えた。


「仕事そのものは、今も嫌なことが多い」


「多いんだ」


「現場は臭う。地下は暗い。書類は多い。課長は説明が足りない。久我さんは細かい。藤堂さんは工具を片づけない。森下さんは人の菓子を食べる」


「最後の二つ、仕事じゃないでしょう」


「毎日起きる」


美咲の口元が緩む。


蒼真も少し笑う。


「でも」


笑いを消し、続ける。


「明日、何が起きるか分からないことは、前より嫌じゃない」


「どうして」


「一人で考えなくていいから」


その言葉を聞いて。


美咲の中で、絡まっていた物が少し緩んだ。


完全には消えない。


慣れは怖い。


仕事を楽しむ蒼真を見るたび、兄の姿を思い出すかもしれない。


けれど。


兄は、恐怖を捨てることで強くなろうとした。


蒼真は、恐怖を誰かと分けることで働こうとしている。


同じではない。


少なくとも今は。


「美咲」


「何?」


「俺が変わったら、言ってほしい」


「今言った」


「そうじゃなくて」


蒼真は言葉を探す。


「敵を倒した話を自慢したり。怪我を軽く言ったり。怖くないと言い始めたり」


「うん」


「仕事のために家族へ嘘をついたり」


美咲は、少し間を置いた。


「それは、もう何度かある」


「ある?」


「大丈夫って言った時」


「あれは」


「大丈夫じゃなかったでしょう」


「心配を」


「嘘は嘘」


「はい」


蒼真は目を伏せる。


素直。


少し可笑しい。


「分かった」


美咲が言う。


「変わったら言う」


「お願いします」


「でも、あなたも言って」


「何を?」


「楽しい時は、楽しいって」


蒼真が困った顔をした。


「難しい」


「藤堂さんの話をする時」


「藤堂さんは、面白いだけで」


「久我さんは?」


「怖い」


「森下さんは?」


「信用できるけど、油断できない」


「嬉しそう」


「そう?」


「そう」


蒼真は納得していない顔。


「じゃあ」


美咲は続ける。


「明日から、仕事へ行く前に一つだけ教えて」


「何を」


「今日、少し楽しみにしていること」


「毎日?」


「毎日」


「ない日もある」


「その日は、ないって言えばいい」


「結衣も聞くと思う」


「聞かせればいい」


「恥ずかしい」


「仕事の話を楽しそうにする方が、今さらでしょう」


蒼真は困ったまま、少し笑った。


「分かった」



翌朝。


蒼真は玄関で靴を履く。


右。


左。


鞄を持つ。


一度、時計を見る。


美咲は台所から声を掛けた。


「今日は?」


蒼真は何のことか分からない顔をした。


「楽しみにしてること」


「ああ」


少し考える。


結衣も食卓から顔を出す。


「何?」


「聞かなくていい」


「聞く」


「今日は」


蒼真は玄関の扉へ手を掛ける。


「藤堂さんが、新しい設備台帳を持ってくる」


「楽しみなの?」


結衣が聞く。


「昨日まで三人で揉めていた」


「喧嘩?」


「仕事の話」


「それが楽しみ?」


「どんな形になったかは、少し気になる」


美咲は笑った。


「久我さんは?」


「多分、誤字を見つける」


「森下さんは?」


「多分、色が見にくいと言う」


「お父さんは?」


結衣が聞く。


「困るところがないか見る」


「やっぱり見てるだけ」


「見るのも仕事です」


蒼真は扉を開けた。


立ち止まらない。


だが、外へ出る直前。


一度振り返る。


以前のように、出勤を遅らせるためではない。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい」


美咲が返す。


結衣も手を振る。


扉が閉まる。


美咲は、すぐに台所へ戻らなかった。


夫が歩いていく音を聞く。


足取りは、以前より軽い。


怖くないわけではない。


仕事が安全になったわけでもない。


危険な場所へ行くことは、これからもある。


それでも。


嫌そうな顔が減った。


同僚の話が増えた。


明日の仕事について、自分から話すようになった。


それは。


戦うことに慣れたからではない。


一人で怯えることをやめ始めたから。


そう思いたかった。



夜。


日記を開く。


---


九月四日。


今日は。


家族に。


仕事へ行くのが嫌ではなくなったと言われた。


否定しようとした。


完全には。


否定できなかった。


以前は。


出勤前。


玄関で止まっていたらしい。


自覚なし。


最近は。


止まらない。


現場が怖くなくなったわけではない。


地下は怖い。


警報音は嫌い。


フレームワーカーへ乗る日は。


今も手が冷たくなる。


敵性個体を見れば。


逃げたいと思う。


それでも。


以前より。


仕事へ行くことを。


嫌だと思わなくなった。


理由。


藤堂さん。


久我さん。


森下さん。


人が増えたから。


というだけではない。


設備を見る人がいる。


手続きを止めない人がいる。


自分が見落とした危険を。


もう一度見る人がいる。


自分一人で。


全てを確認しなくていい。


自分一人で。


全ての責任を負わなくていい。


それが。


嬉しい。


美咲は。


自分が慣れることを怖がっている。


戦場に慣れ。


恐怖を失い。


以前と違う人間になること。


自分も。


怖い。


慣れたくない。


しかし。


何にも慣れなければ。


毎日。


最初の日と同じように怯えることになる。


それでは。


仕事ができない。


今日。


考えた。


恐怖がなくなることと。


恐怖の扱い方を覚えることは。


同じではない。


自分は。


怖がるのをやめたくない。


怖い時。


怖いと言える人間でいたい。


分からない時。


分からないと言う。


危険な時。


止める。


一人で無理なら。


誰かへ渡す。


それに。


慣れたい。


今日。


美咲から。


変わったら言うと約束された。


自分も。


隠さないようにする。


朝。


少し楽しみなことを。


一つ言う。


明日は。


久我さんが。


修正した設備台帳を。


もう一度修正する予定。


藤堂さんは。


多分、怒る。


森下さんは。


多分、菓子を食べる。


少し。


楽しみ。


以上。


---


日記を閉じる。


リビングへ戻ると。


美咲が洗濯物を畳んでいた。


「書いた?」


「書いた」


「何を?」


「今日のこと」


「楽しかったことも?」


「少し」


「何?」


「明日の仕事」


美咲が顔を上げる。


「もう明日の話?」


「設備台帳」


「藤堂さんの?」


「うん」


「嬉しそう」


「そう?」


「そう」


蒼真は、自分の顔へ手を当てた。


笑っているか確かめるように。


分からない。


美咲には分かる。


以前より、柔らかい。


それでいい。


少なくとも。


今夜は。


そう思えた。

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