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第十六話 渡すための仕事

第十六話 渡すための仕事


八月二十七日。


出勤すると、俺の机が少し狭くなっていた。


机そのものは変わっていない。


左側に積まれていた補償審査の書類が減り、その代わりに見慣れない端末が二台置かれている。


壁際には折り畳まれた地図台。


その横には、新しい防護ヘルメットが二つ。


聞いていた話が、急に形を持って目の前へ現れた。


「課長」


上着を脱ぐ前に声を掛ける。


課長は朝の珈琲を飲みながら、端末を眺めていた。


「机が狭いです」


「書類を減らした」


「場所が別の物に取られています」


「前より片付いてる」


「知らない端末が二台あります」


「今日から使う」


「俺がですか」


「お前じゃない」


課長は珈琲を机へ置いた。


「入れ」


入口の外で待っていたらしい二人が、ほぼ同時に姿を見せた。


先に入ってきた男は、大きな工具箱を片手で持っている。


黒い樹脂製の箱は角が白く擦れ、何度も現場へ持ち出された跡があった。


「藤堂直人です」


聞き覚えのある声だった。


以前、地下物流路で遠隔操作の小型作業機へ指示を出していた若い職員。


通信越しでは声ばかりが印象に残っていたが、実際に会うと想像より背が高い。


少し猫背で、短く切った髪には寝癖が残っている。


工具箱を握る右手の親指には、何かに挟んだような古い傷があった。


「以前、地下物流路でお世話になりました」


「お世話をした記憶はありません」


「かなり怒られました」


「危険なことをしたので」


「はい」


返事だけは素直だった。


その後ろから、女性が一歩前へ出る。


「久我真帆です」


三十代前半に見える。


背筋がまっすぐで、立ち方にも言葉にも余分な動きがない。


髪は後ろで一つにまとめられ、左耳には小さな銀色の補聴端末が付いていた。


薄い書類鞄を胸の前で両手に抱え、留め具が閉まっていることまで既に確かめているように見える。


「以前は行政連携室にいました」


「行政連携」


「消防局へ二年、警察局へ八か月出向しています」


「長いですね」


「戻されたとも言います」


「何をしたんですか」


「正しく処理しました」


課長が小さく咳をした。


久我の口元が、ほんの少しだけ緩む。


冗談だったらしい。


分かりにくい。


「今日から二人とも、連携調整班に入る」


課長が言う。


俺は藤堂、久我、課長の順に顔を見た。


「班長は」


「当面、俺だ」


少しだけ安心する。


「俺の部下ではないんですね」


「違う」


課長は即答した。


「お前に人事を任せたら、全員へ自分と同じ働き方を求めそうだからな」


「求めません」


「自覚がない方が怖い」


藤堂が僅かに視線を逸らした。


久我は俺の方を見たまま、表情を変えない。


「二人への勤務命令は俺が出す。休暇も評価も業務配分も、俺の責任だ」


「では、俺は何を」


「現場を教えろ」


「教える?」


「お前の中にしか残っていない判断が多すぎる」


課長の言葉に、机の上の二台の端末を見た。


設備を見る人間。


消防や警察と話す人間。


危険を確認する人間。


現場全体を見渡す人間。


これまで、そうした仕事が連絡一本で俺のところへ集まっていた。


自分で探し、自分で確かめ、自分で判断する方が早い。


そう思って動くうちに、他の誰にも渡しにくい仕事になっていた。


正式な役目を引き受ける際、俺は一人に依存する形にはしないでほしいと頼んだ。


口にした時は、もっと抽象的な話だった。


だが、今は違う。


端末が二台。


ヘルメットが二つ。


俺の机の横へ置かれている。


これは増員ではない。


俺を手伝うためだけの人間でもない。


俺が抱えていた仕事を、俺の手から離していくための人たちだった。


「俺の仕事を手伝う人ですか」


確認すると、課長は露骨に嫌な顔をした。


「違う」


「ですが」


「お前の仕事を減らす人間だ」


同じ意味に聞こえる。


「最終的には、お前が休んでも回るようにする」


胸の奥に、僅かな引っかかりが生まれた。


お前がいなくても回る。


それは正しい。


分かっている。


誰か一人が休んだだけで現場が止まる方がおかしい。


それでも、必要とされなくなるような感覚が、完全には消えない。


「分かりました」


そう答えると、課長は俺の机に残された書類を指した。


「それと、審査課の担当を減らした」


「どれくらいですか」


「今月から半分」


「半分?」


減らしてほしいとは伝えていた。


しかし、実際に半分という数字を示されると、思っていたより大きい。


「誰へ渡したんですか」


「佐伯と、新任の審査官二人」


「急に渡しても困るでしょう」


「先月から引き継いでる」


「聞いてません」


「言ったら、お前が全部確認する」


否定できない。


「継続中の案件は」


「今持っている分の一部だけ残した。新規受付は半分までだ」


「それでも、空いた時間があれば」


「戻さない」


課長は端末を持ち上げた。


そこには、ここ数か月の勤務記録が並んでいた。


現地派遣。


移動。


設備確認。


関係機関との打ち合わせ。


報告書作成。


補償審査。


それぞれは数時間。


長くても半日。


一件だけを見れば、いつもの業務へ少し追加された程度に思える。


だが、並んだ時間を合計すると、印象が変わった。


「お前、現場と連携に半分以上使ってた」


「半分以上?」


自覚がなかった。


「その状態で、元の審査案件を七割以上持ったままだった」


「期限は守っています」


「残業でな」


「全部ではありません」


「河野から警告が来てる」


睡眠不足。


反応速度の低下。


判断力への影響。


身体は自分より正確に、無理を記録していた。


「半分にするのは勤務時間ですか」


「新規の担当件数だ」


課長が答える。


「今日は審査、明日は現場と、きれいに分けられる仕事じゃない。だから上限を決める」


「現場が少ない日は」


「審査を戻さない」


「他の人が忙しい時は」


「戻さない」


「佐伯さんが困るでしょう」


「本人の前で聞け」


課長の視線が俺の後ろへ向く。


振り返ると、書類を抱えた佐伯が立っていた。


「聞いていました」


「すみません」


「何がですか」


「仕事が増えたことです」


「増えました」


「やはり」


「でも、橘さんへ戻す方が困ります」


予想した返事と違った。


「なぜですか」


「引き継ぎが終わらないからです」


「期限が厳しい時は」


「相談します」


「俺が処理を」


「相談はします」


「手伝うことも」


「ありません」


強い。


「佐伯さん」


「正式に役割が変わったんでしょう」


佐伯は書類を机へ置いた。


「現場へ行く人が夜まで審査をして、寝不足のまま次の日も危険な場所へ出る方が困ります」


「ですが」


「私たちは、橘さんより仕事ができないわけではありません」


胸に刺さる。


「そういう意味では」


「分かっています」


佐伯は少しだけ笑った。


「一人で抱えない練習をしてください」


最近、同じようなことを何度も言われる。


「分かりました」


答えると、佐伯は俺の机に残った書類を見る。


「それでも、まだ多いですけどね」


「半分です」


「元が多かったので」


返す言葉がなかった。



午前九時十二分。


新しい端末の一台が鳴った。


藤堂の前に置かれた端末だ。


藤堂は反射的に工具箱を開けた。


「電話です」


俺が言う。


「分かっています」


工具箱を閉じ、端末を取る。


表示は第三中隊。


旧東部物流拠点。


設備照会。


「復興管理局、連携調整班、藤堂です」


声が少し硬い。


『第三中隊第四警戒班、白川です。旧東部物流拠点の地下搬送設備について、非常停止位置を確認したい』


藤堂の目がこちらへ向く。


答えを待っている。


俺は何も言わず、自分の端末で同じ施設を検索した。


少し遅れて、藤堂も資料を開く。


「図面上では、地下二層の南側制御室です」


『図面上では?』


「現地の改修履歴を確認します」


悪くない。


『明日、消防が地下へ入る予定です。それまでに停止手順を確認したい』


「少々お待ちください」


保留。


藤堂が息を吐く。


「図面と保守記録が違います」


「どこがですか」


「一年前の保守報告では、制御盤が中央区画へ移設されています」


「更新図面は」


「ありません」


「では」


「現地確認が必要です」


即答だった。


以前より早い。


「誰が行きますか」


藤堂はそう言いかけ、口を閉じた。


「それを決めるのは課長ですね」


「あ」


俺も忘れかけていた。


二人は部下ではない。


俺に勤務命令を出す権限はない。


「必要な人員を提案します」


言い直す。


「設備担当一名、安全担当一名、現場調整一名」


「俺は設備」


「森下さんが安全」


「橘さんが全体調整」


「そうです」


その時、もう一台の端末が鳴った。


久我が一度だけ呼吸し、通話を取る。


「復興管理局、連携調整班、久我です」


『旧東部物流拠点の立入範囲について照会です。地下物流路は現場保全を解除しましたが、一号倉庫事務棟は継続します』


「解除時刻と責任者名をお願いします」


『本日午前八時。責任者は村瀬警部補』


「地下に保全物品は残っていますか」


『所持品が一件。設備鍵と思われる物品です』


俺と藤堂は同時に久我を見る。


久我は目だけで会話の続きを促した。


『ただし、所有確認は取れていません』


「現物写真と保管番号を共有してください。設備停止に必要な鍵であれば、立ち会いの上で一時貸与を申請します」


『了解』


通話が終わる。


「設備鍵の可能性があります」


久我が言う。


藤堂が立ち上がった。


「それがないと止められませんか」


「まだ分かりません」


俺は答える。


「図面も違う。鍵も確定していない」


「現地で確認する」


藤堂が言う。


俺たちは課長へ必要人員を申請した。


課長は三人の顔を順に見た。


「久我は残れ」


久我の眉が僅かに動く。


「現地へ行かなくていいんですか」


「警察と消防の手続きを詰めろ」


「了解しました」


「橘、藤堂、森下。午後から現地確認」


「はい」


「触るなよ」


課長が言った。


藤堂が俺を見る。


「誰に言いました?」


俺が聞く。


「全員だ」



午前中、俺は補償審査を五件処理した。


以前なら、六件か七件は進めていた。


昼前、新しい申請が審査課の共有箱へ入る。


事故現場周辺の休業補償。


見慣れた分類。


反射的に自分の担当へ移そうとすると、画面へ警告が出た。


«担当上限に達しています。»


「佐伯さん」


「駄目です」


まだ何も言っていない。


「内容だけ確認を」


「見なくていいです」


「特殊区域に関係しています」


「私が確認します」


「判断が難しければ」


「相談します」


「今日中に」


「期限は三日後です」


「ですが」


佐伯が椅子ごとこちらを向いた。


「午後は現地へ行くんでしょう」


「確認だけです」


「現地確認も仕事です」


「分かっています」


「分かっていたら、今の申請を開こうとしません」


正しい。


「閉じてください」


「はい」


担当へ移しかけた申請を戻す。


指を離すと、妙に落ち着かない。


自分の仕事を誰かへ押しつけたような。


見捨てたような。


そんな感覚が残る。


「橘さん」


佐伯が言う。


「仕事を渡しただけです」


「分かっています」


「捨てていません」


「分かっています」


「では、その顔をやめてください」


自分がどんな顔をしているのかは、分からなかった。



午後一時。


車両は森下が運転した。


助手席に俺。


後部座席に藤堂。


工具箱は膝の上にある。


「現地確認だけですよね」


藤堂が聞く。


「そうです」


「非常停止位置を見つける」


「はい」


「見つけたら」


「記録します」


「鍵があれば」


「照合します」


「動かせそうなら」


「動かしません」


藤堂は黙った。


「なぜですか」


俺が聞く。


「止めた方が早いと思いました」


「誰が立ち会っていませんか」


「消防」


「他には」


「第三中隊」


「他」


「警察」


「他」


「設備技術者」


「停止すると、何が起こりますか」


「搬送設備が止まる」


「他には」


「非常照明」


「他」


「防火扉」


「他」


「排気設備」


「他」


藤堂は窓の外へ目を向けた。


「分かりません」


「だから今日は触りません」


一つの装置を停止させる。


言葉だけなら簡単だ。


だが、その操作が何へ繋がっているか分からない。


照明。


防火扉。


換気。


警報。


電源。


現場にいる者それぞれが、違う危険を見ている。


「以前、俺も自分で止めた方が早いと思って、何度も仕事を増やしました」


「橘さんでも?」


「俺だからです」


「どういう意味ですか」


「自分に見える範囲だけで、全部を判断しようとしました」


消防には消防が見ている危険がある。


警察には警察が守るべき物がある。


第三中隊には、敵性個体への警戒がある。


設備技術者には、電気と機械の危険が見えている。


「今日は、止める方法を決めるところまでです」


「実際に止めるのは」


「明日」


「別の人が?」


「あなたが説明します」


藤堂の顔が固まる。


「俺がですか」


「設備担当なので」


「橘さんでは」


「俺は全体を確認します」


「失敗したら」


「止めます」


「説明をですか」


「作業をです」


前から森下が笑った。


「橘さん、教えるのが下手ですね」


「普通です」


「藤堂さん。今のは、失敗しても一人で責任を負わせないという意味です」


「そうなんですか」


「多分」


「多分?」


俺は窓の外へ視線を向けた。


市街地が途切れ、防護壁と規制標識が増えていく。


旧東部物流拠点。


二週間前、モンスターの小規模群が侵入した。


倉庫外壁。


自動搬送路。


地下電力系統。


複数箇所が破損。


従業員は警報により避難し、要救助者はいなかった。


第三中隊が三体を排除し、一体を区域外で捕獲。


消防が内部を確認し、警察が被害状況と遺留品を保全した。


今、現地に被災者はいない。


生活相談も、物資配布も、避難先の確保も、この場所では行われていない。


それらは別の場所で、別の職員が担当している。


俺たちが向かうのは、まだ一般の復旧業者を入れられない場所だった。


壊れた設備が、安全に止まっているのか。


再び動き出す可能性がないのか。


次の人間が中へ入る前に、確かめる。



門を通る。


第三中隊の警戒機が一機。


消防車両が一台。


警察車両はない。


森下が現地責任者と安全確認を行う。


敵性反応なし。


午前と午後、二度の走査。


異常なし。


「臭いますね」


車から降りた藤堂が顔をしかめた。


消毒剤。


油。


湿ったコンクリート。


その奥に、獣臭が混じっている。


乾いた血へ土を練り込んだような臭い。


「体液の跡です」


森下が言う。


「処理済み。毒性なし」


「臭いは残るんですね」


「数週間は」


俺は無意識に答えた。


自分で少し驚く。


以前は知らなかった。


今は知っている。


「慣れました?」


藤堂が聞く。


「慣れたくはありません」


嘘ではない。


ただ、最初の頃ほど息を止めなくなった。


一号倉庫のシャッターは大きく凹んでいた。


外壁には深い爪痕。


モンスターはもういない。


それでも建物だけが、そこにいた物の形を覚えている。


「避難所はないんですね」


藤堂が周囲を見回す。


「従業員は別地域へ避難済みです」


森下が答える。


「生活面の支援は、別の部署と自治体が進めています」


「俺たちは」


藤堂がこちらを見る。


「この場所を安全にして、復旧を担当する人へ渡します」


俺は答えた。


「安全にするというのは」


「普通の設備業者が入れる状態へすることです」


「その後は」


「担当外です」


藤堂が少し意外そうな顔をする。


「設備が直るところまでは見ないんですか」


「報告書では確認します」


「現地では」


「見ません」


言いながら、僅かに物足りなさを感じた。


避難所の灯りが点いた時。


子どもが笑った時。


目に見える結果があった。


今回は違う。


安全を確認し、引き渡したら、俺たちは出ていく。


その後で別の人間が設備を直し、建物を片づけ、再開の準備をする。


始まる前に、俺たちの仕事は終わる。


「最後まで見られないの、残念ですか」


森下が聞く。


「仕事なので」


「答えになっていません」


俺は聞こえなかったふりをした。



地下搬入口には、警察の封鎖札が残されていた。


解除時刻。


責任者名。


久我から届いた情報と一致している。


「久我さん」


通信を開く。


『聞こえています』


「地下物流路の解除表示を確認しました」


『消防側の進入許可も取れています。設備へ触れる場合は別途申請が必要です』


「今日は触りません」


『課長から三回言われました』


「俺にですか」


『全員へ、だそうです』


藤堂が視線を逸らした。


地下へ進む。


照明は点灯しない。


携帯灯の光が、濡れた床を細く照らす。


壁には配線。


床には搬送レール。


その上で台車が途中停止している。


「酸素濃度、正常」


森下。


「敵性反応なし」


「構造上の異常は」


「消防確認範囲内です」


進む。


図面では、非常停止装置は右手の壁にあるはずだった。


角を曲がる。


何もない。


配管。


剥がれた塗装。


四角い色の違い。


そこに装置があった跡だけが残っている。


「移設されています」


藤堂が言う。


「保守記録通りなら、中央制御室です」


階段を降り、地下二層へ向かう。


中央区画の扉は閉まっていた。


電磁ロック。


主電源は停止している。


それでも表示灯は赤く点いている。


「非常電源です」


藤堂が測定器を出し、端子へ近づける。


「電圧が残っています」


「触らないでください」


「はい」


扉の横には手動解除レバー。


塗料と錆で固まっている。


藤堂が工具へ手を伸ばしかけた。


途中で止まる。


こちらを見る。


「触りません」


「はい」


「確認しただけです」


「分かっています」


少しは覚えている。


扉の小窓は内側から曇り、部屋の様子が見えない。


藤堂は伸縮カメラを取り出した。


細い先端を隙間へ差し込む。


端末の画面に、制御室が映る。


倒れた椅子。


机。


壁面の大型制御盤。


赤いレバー。


その横に、小さな鍵穴。


「鍵式です」


藤堂が言う。


「警察の所持品と同じ可能性があります」


その時、久我から写真が届いた。


黄色い樹脂札の付いた鍵。


拡大すると、番号が見える。


藤堂は制御盤の表示と見比べた。


「同じ番号です」


『警察へ正式な照合を申請します』


久我の声。


「一時貸与は」


『立ち会いを条件に許可される見込みです』


「明日に間に合いますか」


『間に合わせます』


迷いがない。


森下が画面を覗く。


「停止レバーだけでは駄目なんですか」


藤堂が保守記録を検索する。


「誤作動防止の改修が入っています」


表示を拡大する。


「安全鍵と停止レバーの同時操作です」


「停止すると何が止まる?」


俺が聞く。


「搬送主電源。地下照明。防火扉が三枚」


「排気は」


「別系統です」


「確実ですか」


「記録上は」


「図面は」


「一つ前のものです」


藤堂は自分で答え、口を閉じた。


「何を確認しますか」


俺が聞く。


「消防へ排気系統の独立確認」


「第三中隊には」


「停止音と防火扉の作動音で周辺に変化がないか警戒を依頼」


「設備技術者には」


「停止後の残留電圧と、扉の作動確認」


答えは早かった。


「明日は藤堂さんが説明してください」


藤堂の顔が、また固まる。


「全部ですか」


「設備部分だけです」


「橘さんが説明した方が」


「俺は言いません」


「ですが」


「今、全部分かっていました」


「橘さんに聞かれたからです」


「明日も誰かに聞かれます」


「誰に」


「消防。第三中隊。設備技術者」


藤堂は制御盤の映像を見た。


しばらく黙った後、小さく答える。


「分かりました」



帰庁すると、久我は既に警察から届いた貸与条件を整理していた。


貸与時刻。


立会者。


写真記録。


使用場所。


返却期限。


「細かいですね」


藤堂が言う。


「証拠物件扱いです」


「鍵一本なのに」


「鍵一本だからです」


久我は書類を藤堂へ渡す。


「紛失した場合」


「しません」


「誰が持ちますか」


「俺が」


「単独では持たせません」


藤堂が黙る。


「設備担当と警察立会者で二重確認です」


「はい」


「使用後は私へ手渡ししてください。机へ置かない」


「はい」


「ポケットへ入れない」


「はい」


「首から下げない」


「そこまでします?」


「そこまでします」


この二人は、合うかもしれない。


合わないかもしれない。


「橘さん」


久我がこちらを見る。


「消防から連絡です。設備停止後、生活再建側の現地調査も同日に入れたいそうです」


「停止直後は駄目です」


「理由は」


「完全停止を確認する前に、別の部署を入れられません」


「確認項目は」


「防火扉。電圧。排気。敵性反応。消防の内部確認」


「所要時間は」


「分かりません」


「相手は午後二時を希望しています」


「確約しないでください」


「安全化完了後、と返します」


久我はすぐに電話を掛けた。


「復興管理局、久我です。明日の現地調査についてですが、開始時刻は確約できません。安全化完了後に改めて連絡します」


相手の声は聞こえない。


「二時を目安に準備していただくのは構いません。ただし、それは区域進入の許可ではありません」


強い。


「準備されていても、安全確認が終わっていなければ入れません」


さらに強い。


「現場判断です」


電話を切る。


「怒っていました?」


藤堂が聞く。


「急いでいました」


「同じでは」


「違います」


久我は答えた。


「急いでいる人を、急いでいるという理由だけで入れてはいけません」


その通りだと思う。


「橘」


課長が呼ぶ。


「今日、何件処理した」


「審査五件です」


「少ないな」


「現地へ行きました」


「冗談だ」


分かりにくい。


「明日は設備停止か」


「はい」


「終わったら」


「帰庁して報告書を」


「その後は」


「審査を」


「戻るな」


「なぜですか」


「班で振り返りをする」


「その後は」


「帰れ」


「まだ勤務時間が残っていれば」


「資料整理」


「審査は」


「担当外だ」


半分。


本当に減らされている。


安心より先に、落ち着かなさが来る。



翌日。


午前九時。


旧東部物流拠点には、昨日より多くの人間が集まっていた。


消防。


第三中隊。


警察。


設備技術者。


連携調整班。


生活再建を担当する職員の車両は、門の外で待機している。


まだ入れない。


藤堂は資料を持つ手に力を入れていた。


「大丈夫ですか」


「分かりません」


「正常です」


「橘さんは平気なんですか」


「嫌です」


「何が」


「人前で説明することです」


「そう見えません」


「慣れただけです」


言ってから、自分の言葉に少し引っかかった。


慣れた。


何に。


今は考えない。


関係者が集まる。


第三中隊の片瀬。


消防の大庭。


警察の村瀬。


設備技術者二名。


藤堂が前へ出る。


資料を開く。


「地下搬送設備の停止手順を説明します」


最初の声が少し裏返った。


誰も笑わない。


「設備は一年前の改修で、中央制御室へ非常停止機能が移設されています。停止には、警察保管中の安全鍵と、盤面レバーの同時操作が必要です」


警察が鍵を提示する。


写真記録。


番号照合。


「停止により、搬送主電源、地下照明、防火扉三枚が連動します」


大庭が聞く。


「排気は」


「独立系統です。停止後も稼働します。ただし、非常電源側の電圧低下があった場合は停止する可能性があります」


設備技術者が質問する。


「残留電圧の確認箇所は」


「制御盤下部と、搬送レール側です」


片瀬。


「防火扉の作動時間」


「図面上では十七秒です。ただし、現地での実測記録はありません」


「作動音は」


「最大八十七デシベル」


「外部への振動影響は」


藤堂の言葉が止まる。


こちらを見る。


「分からないことは、分からないままでいいです」


小さく伝える。


藤堂は片瀬へ向き直った。


「外部への振動影響は不明です。操作前に第三中隊の外周走査をお願いします」


片瀬が頷く。


「了解」


説明が終わる。


「以上です」


俺は全体を見る。


「不足はありますか」


大庭。


「なし」


片瀬。


「警戒配置後、開始可能」


村瀬。


「鍵貸与手続き、完了」


設備技術者。


「現場確認へ入ります」


人が動き始める。


藤堂の説明で。


俺ではなく。


それが少し不思議だった。



地下制御室。


設備技術者が、固着した手動解除レバーを処理する。


扉が開く。


油。


埃。


長く閉じ込められていた空気。


大型制御盤の前で、警察立会いのもと安全鍵が確認される。


写真。


番号。


位置。


藤堂が鍵を差し込む。


設備技術者がレバーの位置を確認する。


「準備」


藤堂の声は、昨日より落ち着いていた。


「第三中隊」


『外周、敵性反応なし』


「消防」


『地下人員、退避完了』


「設備」


「測定準備完了」


「停止します」


鍵を右へ回す。


レバーを下げる。


低い音。


建物全体が一度だけ唸った。


搬送設備が停止する。


照明が消え、赤い非常灯が点く。


遠くで重い音。


一枚目。


二枚目。


防火扉。


三枚目の音が途中で止まった。


「二番扉、閉鎖不完全」


設備技術者が言う。


「作業継続しますか」


その場の視線が、一度こちらへ集まった。


以前なら、すぐ答えていた。


「設備担当」


俺は藤堂を見る。


「どうしますか」


藤堂の表情が固まる。


防火扉は半分開いたまま。


地下区画を分けられていない。


数秒。


藤堂は扉の状態を確認し、息を吸った。


「中断します」


はっきり言う。


「安全化は未完了です。原因確認まで、後続部署は進入不可。消防は扉周辺の確認をお願いします」


正しい。


「第三中隊」


藤堂が続ける。


「停止音後の反応確認をお願いします」


『了解』


俺より先に、必要な判断をした。


消防隊員が扉へ向かう。


照明を当てる。


搬送レールの溝へ、黒く硬い物が挟まっていた。


「爪片です」


大庭が言う。


モンスターの爪。


扉の軌道へ深く噛み込んでいる。


警察が記録。


証拠物ではないことを確認。


除去。


廃棄処理。


再作動。


防火扉が閉まる。


今度は最後まで。


設備技術者が残留電圧を測定する。


搬送レール。


無電圧。


制御盤。


残留なし。


排気設備。


稼働。


地下の酸素濃度。


正常。


第三中隊。


敵性反応なし。


消防。


構造上の問題なし。


確認が揃う。


「安全化完了」


藤堂が言う。


午後一時四十七分。


門の外で待機していた久我が、後続の担当部署へ連絡する。


車両が入ってくる。


復旧工事を担当する技術者。


生活再建に必要な現地確認を行う職員。


自治体の区域管理担当。


俺たちと入れ替わるように、次の人間たちが現場へ入っていく。


「橘さん」


職員の一人が頭を下げる。


「引き継ぎをお願いします」


久我が一歩前へ出た。


「こちらです」


安全化完了時刻。


残存危険。


進入可能範囲。


禁止事項。


設備の状態。


久我が順に説明する。


設備について質問が出ると、藤堂へ振る。


藤堂が答える。


安全上の条件については森下が答える。


俺へ質問は来ない。


少し離れた場所で、全体のやり取りを聞く。


それでいい。


「終わりですね」


森下が言った。


「はい」


「寂しそうです」


「違います」


「最後まで見たいですか」


物流拠点。


止まった設備。


この先、修理される。


清掃される。


従業員が戻る準備が始まる。


誰かが、またここで働く。


その景色を見たい気持ちはあった。


「担当外です」


答える。


「そうですね」


森下が歩き出す。


「帰りましょう」


後ろでは、次の担当者たちが写真を撮り、図面を広げ、再開までの順番を確認している。


俺たちは、何かを直したわけではない。


誰かを助けたわけでもない。


次の仕事が始められる場所を作った。


それだけだった。


だが、その「それだけ」がなければ、誰も中へ入れない。



帰庁すると、課長が顔を上げた。


「どうだった」


藤堂が答える。


「停止できました」


「橘にやらせたか」


「自分で説明しました」


「判断は」


「防火扉の閉鎖不良で作業を中断しました」


「橘が言う前に?」


「はい」


課長が俺を見る。


「本当か」


「本当です」


「珍しい」


「何がですか」


「お前が先に答えなかった」


「担当が藤堂さんだったので」


藤堂が少し驚いた顔をした。


課長は久我を見る。


「引き渡しは」


「完了しました。受領記録も保存済みです」


「森下」


「敵性反応なし。停止時の振動値は、次回以降の確認項目へ追加します」


「橘」


「全体調整です」


「問題は」


「ありません」


「それだけか」


少し考える。


「一人より、楽でした」


課長が笑った。


「だから人を入れた」


「三人です」


森下が小さく手を上げる。


「失礼しました」


「慣れています」


課長は俺を見る。


「明日は審査課だ」


「はい」


「新規案件は取るな」


「上限以内なら」


「もう上限だ」


「そうでした」


「忘れるな」


机から書類が減った朝。


誰かへ仕事を押しつけたような気がした。


自分だけが楽をするようにも感じた。


だが、減らされていなければ、今日の現場から戻った後、俺は藤堂の報告を確認しながら、いつもの審査書類も開いただろう。


そして明日の朝。


眠れなかったことを隠して、また出勤していた。


課長が減らしたのは、責任ではない。


二つの仕事を、どちらも一人で抱え込める余地だった。


「課長」


「何だ」


「二人は、本当に俺の部下ではないんですね」


「まだ言うか」


「確認です」


「違う」


「俺が休んでも」


課長は少しだけ黙った。


「回すための班だ」


胸が僅かに痛む。


だが、以前ほどではない。


「分かりました」


「休む予定があるのか」


「今のところは」


「今のところ?」


「ありません」


課長は何も言わず、珈琲を飲んだ。


藤堂が工具箱を自分の机の下へ置く。


久我が貸与記録の控えを端末の横へ並べる。


森下が壁へ、今日測定した振動値を貼る。


机は狭い。


人が増えた。


物音も増えた。


前より落ち着かない。


だが、一人ではない。



帰宅すると、美咲は玄関で俺の上着を見た。


「現場だった?」


「昨日と今日」


「聞いてない」


「昨日は確認。今日は停止作業」


「乗った?」


「乗ってない」


「戦った?」


「戦ってない」


「モンスターは」


「いない」


いつもの三つの確認。


美咲の肩から、少し力が抜ける。


「匂い」


「残ってた」


「先に着替えて」


「はい」


夕食。


結衣が味噌汁を飲みながら聞く。


「今日は何を直したの」


「直してない」


「壊した?」


「壊してない」


「じゃあ何したの」


「止めた」


「何を」


「荷物を運ぶ大きな機械」


「もう止まってたんじゃないの」


「半分動いていた」


「危ない?」


「誰かが中へ入る前に、完全に止める必要があった」


「お父さんが止めた?」


「藤堂さんが」


結衣が首を傾げる。


「誰」


「今日から一緒に働く人」


「部下?」


「違う」


「お父さんより偉い?」


「違う」


「同じ?」


「多分」


「分かりにくい」


美咲が笑う。


「私も今そう思った」


「俺も」


「何をする人?」


結衣が聞く。


「機械を見る人」


「お父さんは」


「全体を見る人」


「見てるだけ?」


「今日は、かなり」


「楽?」


「少し」


前なら、楽だったとは言いにくかった。


自分だけ仕事をしていないように感じるから。


「良かったじゃん」


結衣は簡単に言った。


「他にも人が増えたの?」


美咲が聞く。


「久我さん。消防や警察との連絡を担当する人」


「女性?」


「うん」


「何歳」


「知らない」


「見た目は」


「普通」


「普通って何」


答えられない。


「森下さんは?」


「安全と記録」


「あなたは」


「現場全体の調整」


美咲は少し考える。


「前より、あなたがやることは減った?」


「今日は、設備の説明をしてない。警察との手続きもしてない。最後の引き渡しもしてない」


「何をしたの」


「必要な時に止められるよう、全体を見ていた」


「それだけ?」


「あと、質問」


「質問?」


「藤堂さんへ。どうするか」


「答えを言わずに?」


「できるだけ」


結衣がにやりとする。


「嫌な先生みたい」


「なぜ」


「ずっと質問するから」


藤堂も同じことを思ったかもしれない。


「仕事は半分になった?」


美咲が聞く。


「元の事務案件は半分」


「どうして半分?」


「記録を見たら、別の仕事に半分以上の時間を使っていた」


「自分では気づいてなかったの?」


「うん」


「それで、元の仕事もほとんど持ってた?」


「七割くらい」


美咲の顔が険しくなる。


「それは、半分じゃない」


「今回から本当に減った」


「今日も少し遅いけど」


「現地の停止があったから」


「元の仕事もした?」


「午前中に五件」


「多い?」


「前より少ない」


「明日は」


「審査課」


「現場は」


「予定なし」


美咲と結衣が同時にこちらを見る。


「予定」


二人の声が重なった。


「緊急がなければ」


「もっと嫌な言い方」


美咲が言う。


「でも」


俺は続けた。


「今日、俺がいなくても進んだ仕事が多かった」


「それは良いこと?」


「多分」


「寂しい?」


自分でも、まだ答えを決められていなかった。


「少し」


正直に言う。


「でも、安心もした」


「どっちなの」


「両方」


美咲はゆっくり頷いた。


「それなら、いいと思う」


「なぜ」


「あなた、必要とされると断れないから」


否定できない。


「少し必要じゃないくらいが、ちょうどいい」


少し痛い。


だが、温かい。


「今日は嬉しかった?」


結衣が聞く。


「藤堂さんが、自分で作業を止めた」


「嬉しかった?」


「少し」


「何点」


「六十点」


「高い」


「設備は止まったから」


「お父さんが止めてないのに?」


「俺が止めなくても、止まったから」


言ってから、自分で意味が分かった。


俺がやらなくても。


別の誰かが危険を見て、作業を止めた。


別の誰かが警察と話し。


別の誰かが安全条件を確認し。


それでも事故は起きなかった。


それはきっと、良いことだ。



夜。


机へ向かう。


日記を開く。


---


八月二十八日。


旧東部物流拠点。


地下搬送設備の安全確認。


搭乗なし。


戦闘なし。


敵性反応なし。


今日。


藤堂さんと。


久我さんと。


初めて同じ現場を担当した。


これまでなら。


図面を探し。


警察へ連絡し。


消防の許可を取り。


停止手順を確認し。


現地へ説明し。


引き渡しまで。


全部を自分で追いかけていた。


今日は違った。


自分が手を伸ばす前に。


別の誰かが。


その仕事を拾った。


藤堂さんが。


設備の状態を調べた。


久我さんが。


警察から鍵を借りる手続きをした。


森下さんが。


現場の安全を確認した。


俺は。


全体を見た。


質問をした。


止める必要があれば。


止めるつもりだった。


だが。


実際に作業を止めたのは。


俺ではなかった。


防火扉が閉まりきらなかった時。


藤堂さんが。


自分で中断を決めた。


正しい判断だった。


少し。


嬉しかった。


少し。


寂しかった。


俺は。


自分が必要であることを。


安心する理由にしていたのかもしれない。


自分しか分からない。


自分が行かなければ。


自分が止めなければ。


そう思えば。


仕事を手放さなくて済む。


今日。


俺がしなくても。


仕事は進んだ。


それでも。


事故は起きなかった。


現場を最後まで直すことだけが。


仕事ではない。


次の人が。


安全に仕事を始められる状態へして。


渡す。


設備も。


記録も。


判断も。


渡す。


今日は。


俺が止める仕事ではなかった。


誰かが止められるように。


止め方を渡す仕事だった。


---


日記を閉じる。


端末に、新しい通知が二件届いている。


補償審査。


自分の担当ではない。


開かない。


少し気になる。


それでも端末を伏せた。


リビングから、美咲と結衣の笑い声が聞こえる。


仕事を減らすのは。


怠けるためではない。


家へ帰った自分まで。


仕事へ渡さないためなのだと思った。

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