第九十五話 家族との予定があります
休暇申請を送った翌朝、蒼真が復興管理局へ出勤すると、自分の席には新しい書類も、処理を待つ連絡も届いていなかった。
端末を起動し、担当案件の一覧を開いても、表示されるのは以前に蒼真が関わった復興区域ばかりだった。それぞれの工程には藤堂や森下をはじめとする担当者の名前が割り当てられ、資材の不足や作業の遅れも、蒼真が作った管理手順に従って処理されている。
警告表示は幾つか出ていたが、すでに現場から対策案が入力され、管理局側の確認も終わっていた。蒼真が追加で口を出す必要はない。
それでも何か見落としがあるのではないかと思い、表示範囲を翌週まで広げていると、隣の席から佐伯が画面を覗き込んだ。
「朝から何を探してるんだ?」
「自分が担当できる案件です」
「昨日まで山で大型を倒してた奴が、帰ってきた翌朝に仕事を探すなよ」
「評価試験と管理局の業務は別です」
「それで、何かあったか?」
「今のところはありません」
「ないなら休んどけ」
「出勤日なので」
蒼真が一覧を閉じずにいると、向かいの席にいた森下も端末から顔を上げた。
「橘さん。第三再開発区の工程を確認していますか?」
「はい。資材搬入が予定より半日遅れています」
「現場と調整済みです。翌日の基礎工事を午後へ移し、空いた時間に排水設備の点検を入れました」
「西側居住区の作業員が不足しています」
「第五区域から二班を移しています。移動時間を含めても、予定どおり終了します」
「旧商業区の重機が一台停止しています」
「代替機の手配は終わりました」
蒼真が画面で見つけた問題へ、森下は迷わず答えていく。どれも、以前なら蒼真が現場と管理局の間へ入り、複数の部署へ確認しなければ処理できなかったものだった。
今は違う。
必要な情報は一つの画面へ集まり、問題を確認した担当者が、決められた手順で関係部署へ連絡する。作業を変更した理由と、ほかの工程へ与える影響も記録されており、後から蒼真が確認しても判断の流れを追うことができた。
「ほかに確認する場所はありますか?」
森下から尋ねられ、蒼真は一覧を最初まで戻した。
「ありません」
「では、通常業務へ戻ります」
「自分の通常業務は?」
森下の指が端末の上で止まった。
隣にいた佐伯が、ゆっくりと蒼真を見る。
「お前、出戻ってきたのに仕事がないのか?」
「第三中隊から出向したままなので、出戻りではありません」
「そこはどうでもいいんだよ。管理局にいるのに、担当がないんだろ?」
「今後の運用が決まるまで、長期案件には入らないことになっています」
「じゃあ、やっぱり仕事がないんじゃねえか」
「昨日までは評価試験がありました」
「今日からは?」
「上層部の判断を待ちます」
「待つのが仕事か?」
蒼真が答えを探していると、通路を歩いてきた藤堂が資料を抱えたまま足を止めた。
「現時点では、そうなります」
「藤堂君」
「橘さんへ新しく割り振る業務はありません。短期の補助へ入っていただくことも可能ですが、現在の担当者と指示系統が重複します」
「指示を出さず、確認だけなら」
「その確認も、各担当者が行っています」
「事故が起きた場合は?」
「発生していません」
「発生したら?」
「必要であれば連絡します。ただし、事故が起きるまで端末を見ていることを、担当業務とは呼びません」
藤堂は蒼真の机へ持っていた資料を置いた。内容は休暇申請に関する確認書であり、復興管理局側の承認欄には、すでに処理済みの印が表示されている。
「休暇申請はこちらで承認しました」
「もうですか?」
「橘さんから引き継ぐ案件がありませんので、業務上の支障もありません」
正しいことを言われているはずなのに、自分が不要だと説明されたようにも聞こえた。
蒼真が黙っていると、藤堂は机の端に手を置いた。
「管理局に橘さんが必要なくなった、という意味ではありません」
「違うんですか?」
「橘さんが作った管理手順は、すでに通常運用へ移行しています。あなたが一つずつ確認しなくても、現場と管理局の担当者が同じ情報を共有し、必要な判断を行えるようになりました」
藤堂は壁面画面へ視線を向けた。
複数の復興区域が同時に動いているが、表示されている工程に大きな乱れはない。問題が起きていないのではなく、問題が起きるたびに、蒼真を呼ばなくても処理できている。
「それは、橘さんが復興管理局で行った仕事が完成した結果です」
「完成しているなら、自分は何をすればいいんですか?」
「次の仕事が決まるまで、待ってください」
「何か手伝えることは」
「ありません」
藤堂の返答は早かった。
佐伯が堪えきれずに吹き出し、森下は笑わなかったものの、蒼真から僅かに視線を逸らした。
「出戻ってきたのに、仕事なし」
佐伯が呟く。
「出戻りではありません」
「分かった分かった。出向してきたのに仕事なし」
「言い方を変えただけでは?」
「その面はあるな」
どこかで聞いたような返事に、蒼真はそれ以上の反論をやめた。
斜め前の席では、久賀が休暇申請の画面を確認していた。
「第三中隊側も承認しています。常設即応指定については、休暇中のみ招集対象から外す処理が行われました」
「本当に外していいんですか?」
「休暇中ですので」
「緊急事態が起きた場合は?」
「橘さん以外の即応指定者が対応します」
「リポルが必要になった場合は?」
「現在、リポルは整備中です」
「整備が終わったら?」
「橘さんは、休暇を取りたいのですか?」
久賀に尋ねられ、蒼真は言葉を止めた。
「取りたいです」
「では、休暇中に発生するかもしれない事象を、すべて今ここで検討する必要はありません」
「でも、起きる可能性はあります」
「橘さんが管理局に残っていても、発生を防ぐことはできません」
久賀は感情を交えず、事実だけを答えた。
蒼真がさらに何か言おうとした時、端末へ中央防衛局から通知が届いた。
《第十回評価試験の結果および今後の運用に関する聞き取りを、八月二十四日午前十時より実施したい》
旅行初日の予定と重なっている。
蒼真が日程を確認していると、佐伯が横から画面を覗いた。
「ほら、仕事が来たぞ」
「中央防衛局からです」
「旅行は?」
「出発を午後に変更すれば、聞き取りが終わってからでも移動できます」
「お前なあ」
佐伯が額へ手を当てた。
藤堂は何も言わず、久賀へ視線を向ける。久賀は通知内容を自分の端末でも確認したあと、蒼真へ顔を向けた。
「聞き取りの候補日は、二十四日だけですか?」
「日程変更を希望する場合は、別の日時を回答するように書かれています」
「では、帰宅後を指定してください」
「相手の予定もあります」
「橘さんにも予定があります」
「聞き取りは、今後の運用に関わるものです」
「リポルは整備中であり、すぐに次の評価へ移ることはできません。幼体の調査結果も出ておらず、四日間で状況が大きく変わる可能性は低いと判断できます」
久賀は一度言葉を切り、蒼真が申請した四日間を画面へ表示した。
「家族旅行は、延期を前提とした予定ではありません」
昨日、美咲にも似たことを言われた。
仕事が入っていないから家族と出かけるのではなく、家族と出かけるために仕事を入れない。それを自分で決めたはずだった。
「二十八日なら出勤予定です」
「その日を希望すればよいと思います」
蒼真は返信欄へ指を置いた。
《八月二十四日から二十七日までは、家族との予定があります。八月二十八日以降であれば参加できます》
入力した文章を読み返す。
家族との予定があります。
その一文だけで仕事の日程を変えてほしいと伝えることに、まだ抵抗があった。評価試験の終了直後であり、自分が説明すべき内容も多い。先に仕事を済ませてから出発する方が、誰にも迷惑をかけずに済むように思える。
「理由を追加した方がいいですか?」
「すでに記載されています」
「評価試験後の休養が必要だということも」
「防衛局は把握しています」
「リポルが整備中であることは?」
「防衛局が管理しています」
「幼体の調査結果が出ていないことは?」
「先方が最もよく理解しています」
書き加えられる内容がなくなった。
蒼真が送信すると、受付済みの表示へ変わる。すぐに回答は届かなかったが、送った文章を取り消すことはしなかった。
藤堂が資料を持ち直し、通路へ戻ろうとする。
「返事が来るまで、何をすればいいですか?」
蒼真が尋ねると、藤堂は足を止めた。
「待ってください」
「本当に?」
「本当にです」
「何もしないんですか?」
「何もしないことが、現在の橘さんの仕事です」
佐伯が再び笑い始めた。
*
中央防衛局から返事が届いたのは、一時間ほど後だった。
《聞き取りを八月二十八日午前十時へ変更します。休暇申請を承認しました》
蒼真は通知を二度読み、休暇申請の画面を開いた。
復興管理局、第三中隊、中央防衛局。
三つの承認欄が、すべて処理済みへ変わっている。
蒼真は美咲へ連絡を送った。
《休暇が承認されました。二十四日から四日間、休めます》
美咲からの返事は、仕事中とは思えないほど早かった。
《勝ち取ったね》
蒼真は少し考えてから返信した。
《多分》
すぐに、新しい文章が届く。
《多分じゃありません》
蒼真が画面を閉じると、隣から佐伯の声がした。
「勝ち取ったらしいな」
「見ないでください」
「見える場所でやり取りしてる方が悪い」
「仕事をしてください」
「仕事がない奴に言われたくねえよ」
言い返せなかったため、蒼真は休暇申請の画面を閉じた。
*
八月二十四日。
空が明るくなり始めた頃から、橘家の一階では荷物が次々に玄関へ運ばれていた。
三泊分の着替えが入った鞄、洗面用具、子どもたちの水着、浮き輪、帽子、飲み物、移動中に昴が退屈しないための玩具。その横には、結衣が自由研究で育てている鉢植えまで置かれている。
蒼真は車の荷室を開け、最初に大きな鞄を奥へ入れた。残った場所へほかの荷物を収めようとしたところで、結衣が鉢植えを抱えて玄関から出てくる。
「本当に持っていくの?」
「三日も自分で見られなくなるから」
「美咲のお母さんに預ける話は?」
「写真を送ってもらうだけだと、自分で観察したことにならない」
「車の中で倒れるかもしれないよ」
「倒れないように運んで」
「やっぱり自分の仕事なんだね」
以前、食卓で話した時と同じ結論になった。
蒼真は鉢を受け取ると、荷室の隅へそのまま置かず、用意していた空き箱の中へ入れた。鉢との隙間に丸めたタオルを詰め、箱の底が滑らないことを確かめてから、ほかの荷物に挟まれない位置へ固定する。
「これなら、多分大丈夫」
「帰すのが得意だから?」
「鉢植えは自分で帰らないよ」
「お父さんが帰すんでしょ」
結衣は満足したように鉢植えの葉へ触れ、家の中へ戻っていった。
入れ替わるように、昴が膨らませていない浮き輪を頭から被り、両腕を上げながら玄関を出てくる。足元が見えていないため、段差で前へ倒れかけたが、後ろから美咲が服を掴んだ。
「前を見なさい」
「ぷーる!」
「プールへ行くのは、ホテルに着いてから」
「いま!」
「車の中にプールはありません」
昴は納得せず、浮き輪を被ったまま車へ向かおうとした。蒼真が身体を抱き上げ、後部座席の幼児用シートへ座らせると、浮き輪が背もたれへ当たり、顔の前までずり落ちる。
「これを外さないと座れないよ」
「つける!」
「ホテルまで、このまま行くの?」
「いく!」
視界のほとんどを浮き輪に塞がれながら、昴は両手で端を掴んだ。
結衣が隣の席へ乗り込み、浮き輪を少し持ち上げてやる。
「それだと、途中で寝られないよ」
「ねない!」
「絶対寝るよ」
「ねない!」
昴が言い張っている間に、美咲は家の戸締まりを確認して戻ってきた。助手席の扉を開ける前に荷室を覗き、鉢植えまで積まれていることに気づいたが、何も言わずに小さく笑った。
「仕事の物は持ってない?」
美咲に尋ねられ、蒼真は運転席へ置こうとしていた鞄を開いた。
「財布と身分証と、個人用の端末。あとは車の充電器」
「仕事用の端末は?」
「家に置いた」
「本当に?」
「確認する?」
「そこまではしないよ」
美咲はそう答えたものの、蒼真の鞄へ一度だけ視線を向けてから助手席へ座った。
全員がシートベルトを締めたことを確かめ、蒼真が車を出す。
後部座席では、昴がまだ浮き輪を被っていた。
*
住宅地を抜けて幹線道路へ入る頃には、朝日が建物の屋根を越えていた。
交通量は多かったが、車列は止まらずに流れている。復興工事が続いている区域へ近づくと、道路脇には重機や資材運搬車両が増え、仮設の防護壁が長く続いた。
蒼真は表示された迂回経路を確認し、右側の車線へ移る。
「先の区間で工事をしてるみたい。予定より十五分くらい遅れると思う」
「急がなくていいよ」
美咲は窓の外を見ながら答えた。
「今日はホテルに着けばいいんだから」
「人力車は午後二時に予約してる」
「一時間くらい余裕があるでしょう?」
「途中で渋滞が増えるかもしれない」
「その時は連絡すればいいよ」
蒼真は返事をしながら、道路情報へ視線を移した。迂回路の先に事故や通行止めはなく、目的地までの予想到着時刻にも大きな変化はない。
それでも、燃料の残量、次の休憩地点、周辺の防衛拠点までの距離が視界へ入ると、無意識に確認してしまう。
「お父さん」
後部座席から結衣に呼ばれ、蒼真は前を向いたまま返事をした。
「何?」
「今、避難場所を見てた?」
「道路情報を確認してただけだよ」
「防衛拠点の表示も出てたけど」
「一緒に表示されていたから見ただけ」
「旅行だよ?」
「分かってる」
「お父さん、まだ仕事してる顔になってる」
結衣に言われ、美咲が助手席から蒼真の横顔を見た。
「どんな顔?」
「眉間に皺が寄ってる」
「運転してるからじゃない?」
「いつも仕事の話をする時も、そこに皺があるよ」
美咲が指を伸ばし、蒼真の眉間へ軽く触れた。
「本当だ」
「運転中だよ」
「触っただけでしょう?」
蒼真が僅かに顔を引くと、美咲は笑って手を戻した。
後部座席からも結衣の笑い声が聞こえたが、その隣にいる昴は会話へ加わらない。静かになったと思ってルームミラーを見ると、浮き輪へ頬を預けたまま眠っていた。
「寝ないって言ってなかった?」
「五分しかもたなかったね」
結衣が浮き輪を少しずらし、昴の顔が苦しくならない位置へ直した。
車は工事区間を抜け、両側に田畑が広がる平坦な道へ入った。遠くに山は見えるが、進路はそちらへ向かわず、川沿いの市街地へ続いている。
蒼真は道路情報の表示を小さくし、代わりに美咲が用意した旅行の日程を画面の端へ出した。
一日目は城下町と武家屋敷を巡り、二日目は城と歴史資料館、三日目は商店街と工芸体験へ行く。四日目だけは予定を詰めず、朝食を食べてから帰ることになっていた。
仕事の予定と違い、開始時刻が決まっていない項目が多かった。移動時間も余裕を持って組まれており、予定より早く終わった場合に何をするかも記載されていない。
「三日目の午後が空いてるけど」
「疲れていたらホテルに戻るの」
「疲れていなかったら?」
「その時に決める」
「今、決めなくていいの?」
「旅行だからね」
美咲は当然のように答え、蒼真は日程表を閉じた。
*
城下町へ到着したのは、正午を少し過ぎた頃だった。
川を渡る橋の向こうに白壁の建物が並び、その奥には城の天守が見えている。市街地へ入ると道路は少し狭くなり、黒い板塀や格子戸を残した家々の間を、観光客を乗せた人力車がゆっくりと進んでいた。
眠っていた昴も、車が石畳の道へ入った振動で目を覚ました。窓の外へ城が見えると、浮き輪を抱いたまま身体を起こす。
「しろ!」
「明日行くよ」
「いま!」
「今日は、町を見るの」
「しろ、いく!」
「明日ね」
昨日から同じ説明を受けているはずだが、昴にとっては、見えている城へ今すぐ行かない理由が分からないらしい。
ホテルの駐車場へ車を入れ、荷物を預けてから町へ出ると、日差しは強かったものの、川から吹く風が通りを抜けていた。白壁の建物が光を反射し、軒先に下げられた風鈴が風を受けるたび、通りのあちこちで涼しげな音を鳴らしている。
予約していた人力車は、武家屋敷へ続く通りの入口で待っていた。
二台に分かれて乗ることになり、蒼真が昴を抱えて一台目へ、美咲と結衣が二台目へ座った。昴は屋根のついた高い座席から周囲を見回し、すぐ後ろにいる美咲たちへ何度も手を振った。
「まま!」
「見えてるよ」
「ねぇね!」
「いるよ」
返事が聞こえるたびに身体を後ろへ向けるため、蒼真は昴の腰へ腕を回した。
「前も見ないと、町が見えないよ」
「ぱぱ、いる?」
「隣にいるよ」
昴は蒼真の顔を確認すると、ようやく前を向いた。
車夫がゆっくりと走り始め、人力車の車輪が石畳の上で軽い音を立てる。歩くより少し高い位置から見る町並みは、車で通り過ぎた時とは違って見えた。
通りの左右には、土塀と生け垣に囲まれた武家屋敷が続いている。屋根の形や門の大きさは家ごとに異なり、修復された建物の間には、焼け残った古い柱をそのまま使っている屋敷もあった。
「この辺りは、敵性個体による被害が比較的少なかった地区です」
前を引く車夫が、走る速度を変えずに説明する。
「城の北側は大きな被害を受けましたが、こちらは住民の方々が早く避難できたため、火災が広がらずに済みました。修復の際も、残せる壁や柱はなるべく残しています」
蒼真は土塀の下部へ目を向けた。新しく積み直された石と、以前から残っている石では色が違う。排水溝も補修されており、雨水が道路へ溢れないよう勾配が調整されている。
「お父さん」
後ろの人力車から結衣の声が飛んできた。
「何?」
「今、修復工事を見てたでしょ」
「説明されたから」
「屋敷を見なよ」
「見てるよ」
「排水溝しか見てなかった」
前を走る車夫が声を立てて笑った。
「お父さんは、建築関係のお仕事ですか?」
「以前、復興管理局にいました」
「以前というか、今も出向先では?」
美咲に後ろから訂正され、蒼真は少し考えた。
「今も関係者です」
「お休みの日まで、よく見てくださってありがとうございます」
「いえ、今日は見に来たわけでは」
「仕事ではなくても気になるんでしょうね」
車夫に悪意はなく、むしろ好意的に受け取られているため、否定するほど説明が長くなる。蒼真は排水溝から視線を上げ、次の屋敷の門を見た。
黒い門の向こうには、白い砂を敷いた庭と、低く枝を広げた松が見える。開け放たれた座敷の奥まで風が通り、縁側では観光客が庭を眺めていた。
「あそこ、入れる?」
結衣が身を乗り出す。
「このあと立ち寄ります。昔の間取りを残した屋敷で、庭へも下りられますよ」
車夫の返事を聞き、結衣は美咲と顔を見合わせた。
その前で、昴は屋敷よりも道端に置かれた木彫りの馬を見つけ、指を差している。
「うま!」
「馬だね」
「のる!」
「あれには乗れないよ」
「のる!」
「人力車に乗ってるでしょう?」
昴は自分が座っている場所を見下ろし、しばらく考えたあと、今度は前を走る車夫を見た。
「うま?」
「人です」
蒼真が訂正すると、後ろから美咲と結衣の笑い声が重なった。
車夫も肩を揺らしながら、それでも足取りを乱さず、人力車を次の角へ進めていった。
*
人力車を降りたあと、一家は公開されている武家屋敷へ入った。
門をくぐると通りの音が遠ざかり、蝉の声と、庭を流れる細い水路の音が聞こえてくる。座敷の畳は新しく替えられていたが、柱や梁には細かな傷が残り、長い時間を使われてきたことが分かった。
結衣は展示された生活道具を一つずつ見て回り、説明札を読んでは美咲へ話しかけている。昴は広い畳の部屋へ上がると、すぐに端から端まで走ろうとしたため、蒼真が服の背中を掴んだ。
「走らない」
「ひろい!」
「広くても、ほかの人がいるから」
「ぱぱ、はしる?」
「走らないよ」
昴は不満そうに蒼真の手を振りほどこうとしたが、廊下の先に甲冑の展示を見つけると、急に動きを止めた。
黒い胴に、角のような飾りがついた兜。人の形に組まれた甲冑は、薄暗い部屋の奥でこちらを向いている。
「こわい」
昴は蒼真の脚へしがみついた。
「動かないよ」
「いる」
「飾ってあるだけだから」
「ぱぱ、たおす?」
「倒さない」
「りぽる?」
「呼ばないよ」
蒼真が抱き上げても、昴は甲冑から目を逸らさなかった。怖いのに見たいらしく、蒼真の肩へ顔を隠しては、すぐに片目だけを出す。
その様子を見つけた結衣が近づき、甲冑の隣に書かれている説明を読んだ。
「これ、戦うためだけじゃなくて、家を守る意味もあったんだって」
「まもる?」
「そう。怖そうだけど、守る物なんだよ」
昴は意味を理解したのか分からないまま、もう一度甲冑を見た。
「りぽる?」
結衣は一瞬黙ったあと、蒼真の顔を見て笑った。
「似てるかもね」
「形は全然違うよ」
「そういうところじゃなくて」
「どこ?」
「怖そうだけど、守るところ」
蒼真が答えを探していると、美咲が庭へ続く障子を開けた。
「二人とも、こっちから庭へ出られるよ」
結衣は返事をして縁側へ向かい、昴も甲冑への興味を失って身体を伸ばした。蒼真が畳へ下ろすと、今度は走らないよう気をつけながら、短い足で結衣を追っていく。
庭には飛び石が続き、低い垣根の向こうで小さな水車が回っていた。結衣が先に石を渡り、昴はその後ろから同じ場所へ足を置こうとする。
一つ目は届いたものの、次の石は間が広い。
蒼真が手を伸ばしかけると、結衣が先に振り返り、昴の両手を掴んだ。
「ここは跳ぶよ」
「とぶ!」
「せーの」
結衣に引かれ、昴の両足が僅かに地面を離れる。次の石へ着地すると、昴は自分だけで跳べたような顔で胸を張った。
蒼真は伸ばしかけた手を下ろした。
隣へ来た美咲が、その手を見ている。
「助けなくてよかったでしょう?」
「落ちるかもしれないと思ったから」
「結衣が見てたよ」
「うん」
「旅行中くらい、全部自分で見なくてもいいの」
美咲は蒼真の手を取ると、子どもたちが進んだ飛び石へ足を乗せた。
「行こう」
蒼真も隣の石へ移り、結衣と昴の後ろを歩いた。
*
ホテルへ戻った頃には、昴の歩く速度が目に見えて遅くなっていた。
それでも屋内プールの案内板を見つけた瞬間、疲れを忘れたように走り出そうとする。蒼真が首元の服を掴むと、昴は前へ進めないまま両足だけを動かした。
「ぷーる!」
「部屋へ荷物を置いてから」
「いま!」
「水着に着替えないと入れないよ」
昴は自分の服を見下ろし、ようやく足を止めた。
部屋へ入ると、窓の向こうに城の天守が見えた。夕方の光を受けた白い壁が、城下町の屋根の上に浮かんでいる。
結衣は窓際へ寄って写真を撮り、美咲は荷物を開けて水着を取り出した。蒼真も昴を着替えさせようとしたが、早くプールへ行きたい昴は両腕を上げたまま動き続け、シャツが頭へ引っかかる。
「止まらないと脱げないよ」
「ぷーる!」
「分かってるから」
「ぱぱ、おそい!」
「昴が動くからだよ」
ようやく着替えを終え、一家で屋内プールへ向かうと、大きな窓から夕日が差し込み、水面を橙色に染めていた。
浅い子ども用の区画へ入った昴は、車の中で被り続けていた浮き輪を腰へつけ、蒼真に両脇を支えられながら足を動かした。
「はなす!」
「まだ足が届かないよ」
「およぐ!」
「泳げてない」
「およぐ!」
昴が激しく足を動かすたび、水しぶきが蒼真の顔へかかる。
少し離れた場所では、結衣が端から端まで泳いでいた。以前より速くなっており、壁へ着くと水面から顔を出し、濡れた髪を後ろへ払う。
「お父さんも泳いだら?」
「昴を見てるから」
「私が見ようか?」
「結衣も泳ぎたいでしょう?」
「交代すればいいじゃん」
蒼真が迷っていると、プールサイドにいた美咲が水へ入り、昴へ両手を伸ばした。
「こっちへおいで」
「まま!」
昴は迷うことなく美咲へ身体を向けた。
蒼真が手を離すと、浮き輪に支えられた小さな身体が水面へ浮かび、美咲のところまで僅かに流れていく。昴は自分で泳いだつもりらしく、到着する前から声を上げて笑っていた。
「ほら、お父さん」
結衣に促され、蒼真は隣の遊泳区画へ移った。
水へ身体を伸ばし、数年ぶりに泳いでみる。最初は呼吸の間隔が合わず、思ったほど前へ進まなかったが、何度か腕を動かすうちに感覚が戻ってきた。
壁へ着いて顔を上げると、結衣がすぐ隣へ到着した。
「遅い」
「久しぶりだから」
「もう一回」
「競争するの?」
「嫌?」
「いいよ」
二人で反対側の壁へ向き直る。
結衣が合図を出す前に泳ぎ始めたため、蒼真は一拍遅れて壁を蹴った。
追いつこうと腕を動かしながら、自分が何のために急いでいるのかを考えた。誰かを助けるためでも、時間へ間に合わせるためでもない。先に泳ぎ始めた娘へ追いつきたいだけだった。
蒼真が隣へ並びかけると、結衣はさらに速度を上げた。
ほとんど同時に壁へ手が触れたが、結衣は顔を上げるなり言った。
「私が先」
「同じくらいだったと思う」
「私が先だった」
「映像がないから確認できないよ」
「旅行中まで記録を求めないで」
少し離れたところで、美咲が笑っている。
昴も意味が分からないまま一緒に笑い、両足を動かして水面を叩いた。
蒼真はもう一度泳ぐために壁へ足をつけた。
今度は、結衣が合図をするまで待った。
*
夜。
夕食を終えたあと、子どもたちは早くに眠った。
結衣は布団へ入る直前まで人力車から撮った写真を見ていたが、端末を置いてから眠るまでに時間はかからなかった。昴は昼寝をしたにもかかわらず、布団へ横になると、浮き輪を抱いたまま目を閉じている。
蒼真は窓際の椅子へ座り、持ってきた日記を開いた。
美咲は向かい側の椅子で、明日の城の案内を見ている。
---
八月二十四日。
今日から四日間、休暇になった。
中央防衛局から、第十回評価試験についての聞き取りを今日行いたいと連絡があった。
家族との予定があるため、二十八日以降にしてほしいと伝えた。
聞き取りは二十八日に変更された。
復興管理局と第三中隊、中央防衛局のすべてから、休暇が承認された。
復興管理局では、自分へ割り振られている仕事がなかった。
自分が作った管理手順はすでに通常運用へ移行しており、藤堂君や森下さんたちが使用している。
自分がいなくても復興現場は動いている。
藤堂君から、それは自分が復興管理局で行った仕事が完成した結果だと言われた。
仕事が完成したことと、自分の仕事がないことは、同じことらしい。
家族四人で城下町へ来た。
結衣の自由研究の鉢植えも一緒に来た。
人力車へ乗り、武家屋敷を見た。
修復された排水溝を見ていたら、結衣から屋敷を見るように言われた。
武家屋敷には甲冑が飾られていた。
昴は怖がったが、結衣から家を守る意味もあったと聞き、リポルと同じか尋ねていた。
形は似ていない。
結衣は、怖そうでも守るところが似ていると話していた。
庭の飛び石を渡る時、昴が落ちると思ったが、結衣が手を引いた。
美咲から、旅行中くらい、全部自分で見なくてもいいと言われた。
ホテルのプールで、結衣と泳いだ。
競争は同時だったと思うが、結衣は自分が先だったと言っている。
確認する映像はない。
仕事用の端末は持ってきていない。
今日は誰も助けていない。
敵性個体も見ていない。
人力車へ乗り、武家屋敷を歩き、プールで泳いだ。
疲れたが、嫌ではなかった。
明日は城へ行く。
昴は、自分が抱いて天守まで上ると思っている。
階段の数は、まだ確認していない。
以上。
---
日記を閉じると、美咲が案内画面から顔を上げた。
「今日は楽しかった?」
「うん」
「何が一番?」
人力車、武家屋敷、庭、プール。
思い返してみたが、一つに決めることはできなかった。
「全部かな」
「そういう答え方をすると思った」
「駄目だった?」
「いいよ。今日は合格」
「昨日も合格したと思うけど」
「旅行は四日間あるから、毎日試験です」
「休暇なのに?」
「家族の評価試験」
美咲は笑いながら立ち上がり、眠っている子どもたちの布団を確認した。
蒼真も椅子から立ち、窓の外を見た。
夜の城下町は静かで、遠くに見える天守だけが白く照らされている。警報は鳴っておらず、通信も入らない。明日の予定には、城へ行くこと以外、急ぐ必要のあるものはなかった。
「明日は、何時に起きる?」
蒼真が尋ねると、美咲は布団の横から振り返った。
「目が覚めた時間でいいよ」
「城が混む前に行った方が」
「蒼真」
「何?」
「休暇です」
「……分かりました」
蒼真は窓のカーテンを閉じ、家族の布団が並ぶ部屋へ戻った。
四日間のうち、最初の一日が終わった。
誰かを帰すためではなく、家族と一緒に過ごすために使った一日だった。
面白いと思われたら、ブックマークして頂ければ幸いです。
また、いいね。評価もしていただけたら執筆の励みになりますので、よろしくお願いします。
感想も頂けましたらありがたいです。
よろしくお願いします。




