第九十四話 四日間、いません
翌朝、蒼真が目を覚ますと、隣に美咲の姿はなかった。
遮光カーテンの隙間から差し込む光はすでに強く、枕元の時計は午前八時を過ぎている。普段なら家を出ている時刻だったため、蒼真は一瞬、自分が寝坊したのだと思った。
上体を起こしたところで、前夜に牧野から休むよう言われたことを思い出す。第十回評価試験は終わり、今日の出勤予定はない。それでも長く身についた習慣は簡単には消えず、職場へ連絡を入れる必要がないか確認するため、枕元の端末へ手を伸ばした。
画面には、第三中隊と復興管理局の双方から、休暇扱いになっていることを知らせる通知が届いていた。緊急招集の表示はなく、リポルの整備状況についても新しい連絡はない。
蒼真が画面を閉じた時、階下から昴の笑い声が聞こえた。
続いて結衣が何かを注意する声が重なり、すぐに食器の触れ合う音が響く。いつもの朝と変わらない音に引かれるように寝室を出ると、階段を下りる途中で味噌汁の匂いが届いた。
居間へ入った蒼真を最初に見つけたのは、食卓で卵焼きを掴もうとしていた昴だった。
「ぱぱ、おきた!」
「おはよう」
「おそい!」
「今日は休みだから」
蒼真が椅子を引くと、昴は箸で掴み損ねた卵焼きを皿へ落とし、それでも気にせず身を乗り出した。
「りぽる、かえった?」
「帰ったよ。今は牧野さんたちに見てもらってる」
「たおした?」
蒼真が答える前に、美咲が炊飯器の蓋を閉じながら振り返った。
「昴。先にご飯を食べなさい」
「たおした?」
「食べてから聞くの」
昴は不満そうに頬を膨らませたが、美咲が蒼真の前へご飯を置くと、諦めて自分の卵焼きへ戻った。
その向かいでは、結衣がまだ眠そうな顔で味噌汁を飲んでいる。髪は後ろで一つにまとめられていたものの、右側だけが少し膨らみ、急いで整えたことが分かった。
「今日は寝坊しても、学校には遅れないんだね」
蒼真が言うと、結衣は椀の縁から目だけを上げた。
「夏休みだから」
「出校日は?」
「もう終わった」
「そうだった」
「お父さん、昨日のことで頭がいっぱいなんじゃない?」
図星だったため、蒼真は返事をせず味噌汁へ箸を入れた。美咲は何も言わなかったが、蒼真の横へ座る前に、僅かに口元を緩めている。
朝食の間、美咲は前日の任務について尋ねなかった。
結衣も、十時に綾人が来てから話すと聞かされているらしく、何度か蒼真を見たものの質問はしなかった。昴だけは待つ理由を理解しておらず、リポルが何を倒したのか、三浦は一緒だったのか、ノストスは行かなかったのかと、思いつくたびに問いかけてくる。
蒼真が一つずつ答えているうちに朝食は終わり、美咲が食器を片づけ始めた。
「十時まで、まだ時間があるよ」
「何か手伝う?」
「昴を見ていて」
「分かった」
「ぱぱ、あそぶ!」
椅子から降りた昴が両腕を上げたため、蒼真は身体を抱き上げた。小さな身体は昨日支えた三浦機よりも遥かに軽く、腕の中で落ち着く場所を探すように何度か動いたあと、蒼真の肩へ頬を乗せた。
「ぱぱ、きょう、いかない?」
「今日は行かないよ」
「りぽるも?」
「リポルも来ない」
昴は安心したように頷くと、床に広げていた積み木の方を指差した。
仕事へ行かないと聞かされただけで喜ばれることに、蒼真は少し困った。毎朝送り出してくれる家族にとって、帰ってくることだけではなく、最初から家にいることも大切なのだろう。
*
午前十時の五分前に、玄関の呼び鈴が鳴った。
蒼真が扉を開けると、綾人が紙袋と端末を持って立っていた。寝不足なのか、目元には僅かに疲れが残っている。
「おはようございます」
「おはよう。先に言っておくが、俺は説明を補うだけだからな」
「分かっています」
「君の返事は信用できない」
綾人はそう言いながら靴を脱ぎ、居間へ入った。食卓の前にいた美咲へ紙袋を渡すと、中には子どもたちの菓子が入っていると説明する。
「おじさん、おはよう」
結衣が声をかけると、綾人は僅かに表情を和らげた。
「おはよう。夏休みの宿題は終わったか?」
「今からお父さんの話を聞くところ」
「質問を変えよう。どこまで終わった?」
「半分くらい」
「まだ八月の半分だから、問題ないな」
「そういう甘いことを言うから、お母さんに注意されるんだよ」
結衣に即座に返され、綾人は椅子へ座る前に言葉を失った。
「いつも美咲に注意されているわけじゃない」
「今日は違うの?」
綾人は答えず、蒼真の隣へ腰を下ろした。
美咲は全員へ麦茶を用意すると、昴を自分の隣へ座らせた。子どもに聞かせられない話になれば席を外すつもりなのだろう。蒼真は食卓の上へ端末を置き、昨日の作戦配置を表示した。
「最初に、全員無事に帰っています。三浦一尉にも怪我はありません」
「それは昨日聞いた」
美咲は穏やかに答えたが、笑ってはいなかった。
「その先からお願い」
「昨日は、山間部にある旧採石場へ三個中隊で入りました。第一中隊が大型を止め、第二中隊が小型と中型を分断し、第三中隊が倒していく作戦です。自分は第一中隊と第二中隊の間に配置されました」
蒼真は地図上でリポルの位置を示し、巣穴から大型が出てきたあとの動きを説明した。
第一中隊が採石場の上段で大型を引きつけている間に、第二中隊と第三中隊は数の多い小型と中型への対応を続けた。三浦機は大型を巣穴へ戻さないよう正面へ回り、左脚の駆動部が限界を超えても、その位置から離れなかった。
リポルは大型の背後へ回り、短槍型パイルを装甲の隙間へ打ち込んだ。
大型が停止した。
そこまで話した時、昴が美咲の腕へ手を置いた。
「ぱぱ、たおした?」
「うん」
「おおきいの?」
「大きかったよ」
「こわい?」
蒼真は画面に表示された大型の記録映像を閉じた。昴に見せる必要はない。
「怖かった」
「りぽる、こわい?」
「リポルではなくて、自分が怖かったんだよ」
昴はしばらく蒼真の顔を見ていたが、違いを理解できなかったらしく、今度は美咲を見上げた。
美咲は昴の頭を撫でてから、蒼真へ視線を戻した。
「それでも倒したの?」
「倒さなければ、三浦一尉の機体が先に動けなくなっていた。大型が巣穴へ戻れば、また同じ状態からやり直すことになったと思う」
「ほかに方法はなかった?」
「少なくとも、あの時は見つけられなかった」
美咲はそれ以上問い詰めず、小さく頷いた。
蒼真は大型が倒れたあとも戦闘が続いたこと、敵性個体が巣穴へ戻ろうとしたこと、その奥から三体の幼体が見つかったことを説明した。
「子どもがいたの?」
結衣の声が少し低くなった。
「大型と同じ形をしていた。生きたまま捕獲されて、今は調査施設にいると思う」
「親だったの?」
「分からない。大型が産んだのか、別の個体が産んだのかも確認されていない」
「でも、小さいのと中くらいのは、その子たちを守ろうとしたんでしょ?」
「その可能性はある」
「じゃあ、モンスターも家族を守るの?」
蒼真はすぐに答えられなかった。
以前、結衣から敵性個体は悪なのかと尋ねられた時も、分からないと答えた。今回見つかった幼体と、それを守ろうとした可能性のある個体を知ったことで、分からないことは減るどころか増えている。
「守っていたようには見えた。でも、人と同じように家族だと考えているのかは分からない」
「それでも倒したんだ」
「うん」
結衣は画面の消えた端末を見つめたあと、唇を僅かに結んだ。
「倒さなかったら、町へ来たかもしれない?」
「今すぐ来たかどうかは分からない。ただ、営巣地が大きくなれば、生活圏へ現れる個体は増えたと思う」
「じゃあ、倒した方がよかったの?」
「それも、簡単には言えない」
「お父さんにも分からない?」
「分からないから、考え続けるしかないと思ってる」
結衣は納得した顔にはならなかった。それでも、答えを急かすことはせず、麦茶の入ったグラスへ目を落とした。
美咲が、その横顔を一度確認してから綾人へ向き直った。
「綾人から見て、昨日の蒼真はどうだった?」
「作戦上、必要な動きをしていた。無茶がなかったとは言わないが、単独で大型へ突っ込んだわけじゃない。三個中隊で大型を孤立させ、蒼真君が最後の一撃を入れた形だ」
「蒼真がいなかったら?」
「作戦は中止になった可能性が高い。三浦君の機体が動けなくなった時点で、第一中隊だけでは大型を止め続けられなかった」
「町から離れた場所だったんだよね?」
「そうだ。撤退しても、その日のうちに被害が出る場所ではない。ただし、あの巣を残せば、いずれ周辺の生活圏へ影響が出る可能性はあった」
綾人は事実だけを選びながら答えていたが、美咲はそこから先を聞き逃さなかった。
「つまり、蒼真を連れていった意味はあったのね」
「……あった」
「十回の評価は、昨日で終わったんだよね?」
「終わった」
「これからは?」
綾人が答えようとするより先に、玄関の呼び鈴が鳴った。
全員の視線が居間の扉へ向かう。
「誰か来る予定があった?」
美咲に尋ねられ、蒼真は首を横へ振った。綾人も知らないらしく、端末を持ったまま眉を寄せている。
蒼真が玄関へ向かい、扉を開けると、久賀が立っていた。
仕事中と同じように髪を整え、片手には端末を持っているが、服装は私服だった。もう片方の手には、小さな動物が描かれた紙袋を提げている。
「おはようございます、橘さん」
「おはようございます。どうしてここに?」
「昨日の作戦記録と、綾人さんが提出した外部評価報告を確認しました。説明に不足が生じる可能性があると判断したため、来ました」
居間から綾人の声が飛んできた。
「俺の報告書に何か問題があったのか?」
「問題はありません。正確でした」
「なら、なぜ来た?」
「正確であることと、ご家族へ十分に伝わることは別です」
綾人が返事を失った間に、昴が廊下へ走ってきた。
「くがしゃん!」
久賀は端末を持っていない方の腕を広げ、飛びついてきた昴を受け止めた。職場ではほとんど変わらない表情が、僅かに柔らかくなる。
「おはようございます、昴君」
「きた!」
「来ました。約束が遅くなって、すみません」
「おそい!」
「申し訳ありません」
久賀は昴へ頭を下げてから、持っていた紙袋を渡した。中には動物の形をした積み木が入っており、昴はその場で袋を開けようとする。
「居間で開けよう」
蒼真が声をかけると、昴は久賀の手を引いて歩き始めた。
美咲は突然の訪問に驚きながらも、新しいグラスを用意した。久賀は食卓へ着く前に一礼し、空いていた席へ腰を下ろす。
「お休みの日に、すみません」
「こちらこそ、仕事の話で来てもらってすみません」
「必要な訪問です。橘さんは、事実を省略するつもりがなくても、本人の評価に関わる部分を説明しない傾向があります」
「どういう意味ですか?」
蒼真が尋ねると、久賀は端末を開いた。
「大型敵性個体を含む営巣地への対応において、橘さんとリポルの組み合わせは有効だと評価されています」
綾人が目を閉じた。
「久賀さん。まだ正式決定ではない」
「はい。正式決定ではありません」
「なら、そこから先を家庭で話す必要はないだろう」
「しかし、継続運用の検討が始まっていることは事実です」
美咲の口元へ、穏やかな笑みが浮かんだ。
「継続運用?」
「同様の営巣地へ、橘さんとリポルを投入する案です。単独での運用ではなく、複数中隊との連携を前提とします」
「何回くらい?」
「現時点で回数は決まっていません。大型個体が確認されている営巣地は、調査中のものを含めて複数あります」
綾人は額へ手を当てた。
「どうして、決まっていないことまで全部話すんだ」
「あとから決まりましたと伝える方が、問題になると判断しました」
美咲の笑顔が少し深くなる。
「その判断は正しいと思います」
「ありがとうございます」
味方を得たと受け取ったのか、久賀は僅かに頭を下げた。
蒼真は二人の間へ入る必要を感じたが、何を言えばいいのか分からなかった。継続運用が検討される可能性は、自分でも予想していた。十回の評価で結果を出せば、その結果が次の判断へ使われることも分かっていた。
「自分は、まだ了承していません」
蒼真が言うと、美咲は笑顔のまま視線だけを向けた。
「断るつもりなの?」
「それも決めていない」
「昨日、三浦さんの機体を変える必要があるって言ったんだよね?」
「同じ動きをするなら、今の機体ではまた止まるから」
「新しい機体ができたら、一緒に行くの?」
「そこまでは言ってない」
「でも、一緒に行かないなら、新しい機体が必要かどうかは関係ないよね?」
結衣の指摘に、蒼真は言葉を止めた。
綾人が小さく息を吐き、久賀は端末へ何かを記録する。
「今のも記録するんですか?」
「橘さんが三浦一尉との継続的な運用を、完全には否定していないことを確認しました」
「否定していないことと、希望していることは違います」
「理解しています。そのため、そのまま記録しました」
久賀に悪意がないことは分かっている。感情で追い詰めようとしているのでもなく、発言と事実を整理した結果、蒼真の逃げ道が消えているだけだった。
玄関の呼び鈴が、もう一度鳴った。
今度は食卓にいた全員が黙ったまま、蒼真を見る。
「本当に、ほかには呼んでいないよ」
蒼真が玄関へ行くと、扉の向こうには牧野が立っていた。胸元へ抱えた鞄には、整備班の端末が入っているらしく、普段より重そうに見える。
「おはようございます」
「牧野さんまで、どうして?」
「久賀さんから、機体について説明が必要になるかもしれないと連絡を受けました」
「連絡したんですか?」
蒼真が居間へ向かって尋ねると、久賀の声が返ってきた。
「技術的な質問へ、私が推測で答えるべきではありません」
それ自体は正しい。正しいため、止められない。
牧野が居間へ入ると、綾人は自分の隣にある空席を見てから、ゆっくり顔を伏せた。
「増えるのか……」
「すみません。長居するつもりはありません」
「そういう問題ではない」
牧野は美咲へ挨拶し、蒼真が昨日使用したリポルを担当していると説明した。美咲は新しいグラスを出しながら、牧野にも座るよう勧める。
「リポルは壊れていないんですか?」
「右肩へ想定以上の負荷はかかっていますが、大きな損傷はありません。射出部を切り離したことで、帰還に必要な機能は維持されています」
「蒼真は、かなり無理をさせたんでしょうか」
「一般的な機体であれば、同じ使い方は勧めません。ただ、リポルは橘二尉の操作とAIによる負荷分散を前提に調整されています。今回の記録も、設計上想定された範囲から大きく外れてはいません」
「ほかの人でも乗れますか?」
美咲の質問に、牧野はすぐには答えなかった。
蒼真は代わりに説明しようとしたが、牧野が先に口を開く。
「動かすだけなら可能です。しかし、現在の性能を使い切ることは難しいと思います」
「AIの支援を調整すれば、乗れる人は増やせると思います」
「橘二尉」
「はい」
「今は、ご家族への説明をしています」
「だから、ほかの人でも乗れる可能性を」
「その調整を最も正確に行えるのが、橘二尉です」
牧野の言葉に、居間が静かになった。
綾人が顔を上げ、何かを言おうとしている。しかし、牧野の説明が間違っていないため、止める言葉が見つからないらしい。
「量産を前提にした調整を行う場合も、橘二尉の運用記録と意見は必要になります。現行のリポルを使い続ける場合にも、同様です」
牧野は一生懸命、蒼真だけが危険な場所へ行かなくても済む可能性を説明している。その気持ちは伝わった。
同時に、蒼真が今後もリポルへ乗り、後継機の開発へ関わる必要性まで裏づけていた。
「牧野さん」
綾人が疲れた声で呼びかける。
「その説明だと、蒼真君が降りられない理由を増やしている」
「え?」
牧野は自分の話した内容を思い返し、表情を固めた。
「すみません。そんなつもりでは」
「分かってる。俺も似たようなことをした」
綾人は諦めたように麦茶を飲んだ。
食卓の下では、昴が久賀の持ってきた積み木を並べていた。動物を一列に置き、その後ろへ紫色の積み木を立てると、満足そうに久賀の膝を叩く。
「くがしゃん、みて」
「見ています」
「りぽる!」
「その形状は、リポルとは一致しません」
「りぽる!」
「分かりました。リポルです」
久賀が二度目で訂正を諦めたため、結衣が吹き出した。
張り詰めていた空気が僅かに緩み、美咲も笑いながら昴の積み木を見た。それから蒼真へ視線を戻した時、先ほどまでの笑顔にあった圧力は薄れていた。
「蒼真は、どうしたいの?」
「戦いたくはない」
「うん」
「危険な場所にも、できれば行きたくない。でも、昨日の巣を放置して、そこから敵性個体が増えれば、生活圏へ出てくる数も増える。倒せる可能性があるのに、何もしない方がいいとも思えない」
「だから、また行くの?」
「まだ分からない」
「分からないまま、行けと言われたら?」
蒼真は、すぐには答えられなかった。
命令であれば従う。常設即応指定を受け、第三中隊へ所属している以上、必要な任務を拒否することは難しい。
しかし、軍が命令する前に、自分から必要な条件を整えてしまっていることも分かっていた。三浦の新しい機体が必要だと話し、リポルの量産について意見を出し、営巣地を残した場合の危険性まで考えている。
「多分、行くと思う」
蒼真が答えると、美咲は目を伏せた。
「怖くても?」
「怖いから行かないと言って、あとで誰かが帰れなくなったと知ったら、その方が嫌だと思う」
「以前の蒼真なら、そんなことは言わなかったね」
「状況が変わっただけだよ」
「それを、変わったって言うんじゃない?」
以前にも交わした言葉だった。
蒼真は変わっていないと思っている。危険な場所へ行きたくないことも、戦いたくないことも、家族と普通に暮らしたいことも、最初から変わっていない。
ただ、守れる可能性があることを知ってしまった。
その力を使わなかった結果まで、想像できるようになった。
「変わったとしても、戦いたくないことは同じだよ」
「それなら、戦いたくないって言い続けて」
美咲は顔を上げ、蒼真をまっすぐ見た。
「必要だから乗るのと、乗りたいから乗るのは違うでしょう?」
「うん」
「嫌じゃなくなったふりはしないで。怖くなくなったふりもしないで。それをし始めたら、私は止めるから」
「分かった」
「本当に?」
「記録にも残す」
「家でも言って」
「分かりました」
美咲はようやく息を吐き、背もたれへ身体を預けた。
家族会議が終わったのかどうか、蒼真には判断できなかった。綾人は疲れ切った顔で椅子に座り、牧野は自分の説明が蒼真を助けたのか追い詰めたのか分からず、端末を両手で握っている。
久賀だけは昴の積み木を並べ直しながら、普段と変わらない表情を保っていた。
美咲は全員の顔を見回したあと、食卓の端に置いてあった予定表を引き寄せた。
「それじゃあ、仕事の話はここまででいい?」
「私は必要な説明を終えました」
久賀が答えると、美咲は予定表を開いた。
「次は、旅行の話をします」
綾人が顔を上げた。
「俺たちもいるのか?」
「綾人は親戚だから」
「久賀さんと牧野さんは?」
「せっかく来てもらったし、意見があれば聞きます」
牧野は困ったように久賀を見たが、久賀は昴から渡された積み木を手にしたまま頷いた。
「承知しました」
蒼真は予定表へ目を落とした。夏休みに入る前から旅行の話は出ていたものの、評価試験の日程が確定せず、具体的な予約はできていなかった。
「十回の評価も終わったから、三泊四日くらいで出かけたいと思ってる」
美咲の言葉に、蒼真は反射的に仕事の予定を思い返した。
「三泊四日?」
「長い?」
「復興管理局の出向業務と、第三中隊の予定を確認しないと分からない。常設即応指定も残ってるから、緊急時の扱いを――」
「行きたくないの?」
「行きたい」
蒼真が即答すると、美咲は僅かに目を見開いた。
「なら、まず行きたいって言えばいいの」
「でも、行けるかどうかは確認が必要だから」
「確認する前に諦めなくてもいいでしょう?」
結衣も予定表を覗き込みながら頷いた。
「お父さん、仕事へ行く時は誰にも旅行していいか聞かないのに、旅行へ行く時だけ全員に仕事していいか聞くよね」
「仕事は予定に入っているから」
「旅行も予定に入れればいいじゃん」
言われてみれば、その通りだった。
蒼真は久賀を見た。
「三泊四日の休暇を取る場合、申請先は復興管理局ですか?」
「出向中の勤務管理は復興管理局が行います。ただし、常設即応指定に関する調整は第三中隊および中央防衛局との間で必要です」
「やはり、すぐには決められませんね」
「申請しなければ、調整も始まりません」
久賀は当然のように答えた。
「第十回評価試験は終了しています。機体の整備期間と搭乗者の休養期間を考慮すれば、四日間の休暇を取得することに合理性はあります」
「リポルの調整は?」
蒼真が牧野を見ると、牧野は今度こそ迷わず答えた。
「四日で終わりません。橘二尉が基地にいても、乗せられない期間があります」
「三浦一尉の機体は?」
「そちらも同じです。昨日の今日で、新しい機体は完成しません」
綾人も椅子へ座り直し、呆れたように蒼真を見た。
「君が四日いなくても、世界は終わらない」
「終わるとは思っていません」
「なら、行ってこい」
「綾人さんは、仕事を辞めてから長い休みが続いていますよね」
「今、その話をする必要があるか?」
綾人の声が少し強くなり、結衣が笑った。
美咲は予定表へ視線を戻した。
「海は、もう水母が増えているみたい。山は、私が行きたくない」
「山はやめた方がいいと思う」
昨日まで山の中にいた蒼真が答えると、美咲は静かに頷いた。
「だから、城下町はどうかなって思ってる」
「お城?」
「古い武家屋敷が残っていて、人力車で町を回れるところ。商店街もあるし、ホテルには屋内プールがあるみたい」
結衣の表情が明るくなる。
「人力車、乗ってみたい」
「しろ!」
話の意味をすべて理解していない昴も、知っている言葉だけを拾って両手を上げた。
「昴は、お城が見たい?」
「しろ、のぼる!」
「階段が多いかもしれないよ」
「ぱぱ、だっこ!」
「自分が上るんだね」
「ぱぱが!」
最初から自分で歩くつもりがないらしい。
美咲がホテルの案内を表示すると、昴は城の写真より先にプールを見つけ、画面へ指を押しつけた。
「ここ! はいる!」
「三日間、全部プールには入らないからね」
「はいる!」
「一回は入ろうね」
「りぽるも?」
「リポルは来ないよ」
「くがしゃんは?」
昴が久賀を見上げる。
「私は同行しません」
「くる!」
「仕事があります」
「やすむ!」
久賀は返答に詰まり、手にしていた紫色の積み木へ目を落とした。
「調整可能か確認します」
「確認しなくていいです」
蒼真が止めると、美咲と結衣が同時に笑った。
旅行先へ久賀まで同行すれば、休暇なのか職場の研修なのか分からなくなる。昴は納得していない様子だったが、久賀から紫色の積み木を受け取ると、ひとまず追及をやめた。
「日程は?」
蒼真が尋ねると、美咲は候補としていた四日間を示した。
評価試験が終わった翌週であり、結衣の夏休みも残っている。現時点で蒼真の出動予定は入っていないが、空白だから休めるとは限らない。何も申請しなければ、そこへ整備確認や会議、次の試験計画が入る可能性は高かった。
蒼真は自分の端末を開き、休暇申請の画面を表示した。
所属欄には第三中隊、現在の勤務先には復興管理局、備考には常設即応指定者と記されている。四日間の日付を入力すると、確認先として複数の部署が自動的に表示された。
「確認先が多いですね」
「必要な調整はこちらで行います」
久賀は端末を覗き込まずに答えた。
「橘さんは、申請理由を入力して送信してください」
「家族旅行のため、でいいですか?」
「事実であれば、それで問題ありません」
蒼真は入力欄へ文字を打ち込んだ。
家族旅行のため。
それだけでは不足しているように思えたが、行き先や宿泊場所まで書く欄はない。現地で緊急事態が起きた場合の連絡方法や、最寄りの防衛拠点についても記載を加えようとすると、美咲の手が端末の上へ伸びてきた。
「それ以上、何を書くの?」
「緊急時の連絡方法を」
「旅行へ行く理由を書くところでしょう?」
「でも、常設即応指定があるから」
「必要なら、向こうから聞かれるよ」
結衣が横から画面を覗き込み、送信ボタンを指差した。
「押すだけだよ」
蒼真は家族の顔を見た。
美咲は急かさずに待っている。結衣は早く押せと言いたそうだったが、勝手に端末へ触れることはしなかった。昴は話に飽き、久賀と並べた積み木を何度も倒している。
綾人と牧野まで、なぜか蒼真の指先を見ていた。
「申請します」
「誰に報告してるの?」
結衣に尋ねられ、蒼真は答えに困った。
「一応、全員に」
「早く押しなよ」
蒼真が送信ボタンへ触れると、申請先として復興管理局と第三中隊が表示され、受付済みの印へ切り替わった。
何かが決まったわけではない。
まだ休暇は承認されておらず、ホテルの予約も取っていない。緊急事態が起きれば、日程が変更される可能性もある。
それでも、仕事が入っていないから休むのではなく、家族と出かけるために仕事を入れないでほしいと、自分から伝えた。
「送りました」
蒼真が言うと、美咲は画面を確認してから笑った。
「じゃあ、次はホテルを予約しようか」
「まだ休暇が承認されてないよ」
「取り消せる予約にするから大丈夫」
「先に予約するんですか?」
「予定は、先に入れた方が勝ちなんでしょう?」
誰から教わったのかと思い、蒼真が久賀を見ると、彼女は昴の積み木を元の袋へ戻している。
「私は何も話していません」
「久賀さんに聞いてないですよ」
「視線から質問を推定しました」
久賀は最後の積み木を袋へ入れると、昴が不満そうにしていることへ気づき、もう一度すべて取り出した。
その様子を見ながら、綾人が小さく息を吐いた。
「俺は、何のために呼ばれたんだろうな」
「昨日の説明をするためです」
「途中から、ほとんど久賀さんが話していた」
「綾人さんが提出した報告書があったので、久賀さんも説明できたんだと思います」
「そうやって俺の仕事を残すのはやめろ」
「役に立ったんだから、いいじゃない」
結衣が言うと、綾人は何も返せなくなった。
牧野は端末を鞄へ戻しながら、申し訳なさそうに美咲へ頭を下げた。
「橘二尉を危険な場所へ送りたいわけではないんです。ただ、機体の状態を説明すると、どうしても必要性の話になってしまって」
「分かっています」
美咲は牧野を責めることなく答えた。
「蒼真が自分で必要な理由を見つけてくることも、もう分かっていますから」
「見つけようとしているわけではないよ」
「うん。そこが一番困るの」
優しく返され、蒼真はそれ以上反論できなかった。
昴が積み木を一つ持ち上げ、綾人へ向けた。
「おじちゃん、め!」
「なぜ俺が?」
「ぱぱ、こわい!」
「俺は行かせていない」
「め!」
綾人が説明しようとしても、二歳児には通じない。
「ぱぱも、め!」
今度は紫色の積み木が蒼真へ向けられた。
「自分も?」
「こわい、め!」
「怖かったことを怒られているのかな」
「多分、危ない場所へ行ったことを怒ってるんだと思う」
美咲が笑いを堪えながら教えると、昴は満足そうに頷いた。
蒼真と綾人が揃って何も言えなくなったため、結衣はとうとう声を上げて笑った。美咲も堪えきれなくなり、口元を手で押さえながら肩を震わせる。
牧野まで俯いて笑い始める中、久賀だけは昴と同じ高さまで身体を屈めた。
「昴君。危険な場所へ行く必要があったことは事実です。ただし、危険性を低下させるための検討は、今後も継続します」
「くがしゃん、あそぶ!」
「分かりました」
説明は一切届かなかったが、久賀は気にした様子もなく積み木の前へ座った。
蒼真は笑われた理由を完全には理解できないまま、自分の端末へ表示された休暇申請を見た。
四日間。
その期間、自分が第三中隊にも復興管理局にもいない状態を、これから多くの人が調整することになる。
申し訳ないという気持ちはあった。
しかし、申請を取り消そうとは思わなかった。
*
夜。
子どもたちが眠ったあと、蒼真は食卓で日記を開いた。
美咲は向かい側でホテルの空室を調べている。候補にしていた日程では、屋内プールのある部屋がまだ残っているらしく、時折、料金や食事の内容を蒼真へ確認してきた。
蒼真は分かる範囲で答えながら、今日の記録を書き始めた。
---
八月十八日。
今日は休暇だった。
午前十時に綾人さんが来て、昨日の第十回評価試験について、美咲と結衣へ説明した。
昴も途中まで一緒に聞いていた。
大型敵性個体を倒したことと、巣穴から幼体が三体見つかったことを話した。
結衣から、敵性個体も家族を守るのかと聞かれた。
分からないと答えた。
敵性個体が人と同じように考えているかは分からない。ただ、昨日の小型と中型は、巣穴へ戻ろうとしていた。幼体を守ろうとしていた可能性はある。
それでも、生活圏へ被害が広がる前に営巣地を止める必要はあったと思う。
必要だったことと、倒して良かったと思えないことは、今も両方残っている。
途中で久賀さんが来た。
綾人さんの報告書と作戦記録を確認し、説明を補うためだった。
牧野さんも来た。
リポルは修理可能であり、現在の性能を使うためには、自分の操作とAIの調整が必要だと説明された。
大型敵性個体を含む営巣地への継続投入が検討されている。
まだ決定ではない。
美咲から、戦いたくないことと、怖いことを言い続けるように言われた。
必要だから乗ることと、乗りたいから乗ることは違う。
自分は、今も乗りたいとは思っていない。
今日は、家族旅行の相談もした。
海は水母が多く、山は危険なため、城下町へ行く予定になった。
人力車で武家屋敷と町並みを巡り、城と商店街へ行く。
ホテルには屋内プールがある。
昴は城へ上る時、自分が抱くものだと思っている。
三泊四日の休暇を申請した。
仕事の予定が空いているから休むのではなく、家族との予定を入れるために休暇を申請したのは、初めてかもしれない。
まだ承認されていない。
美咲は、承認される前にホテルを予約した。
取り消せるため、問題はないそうだ。
久賀さんが昴と遊んでくれた。
綾人さんと自分は、昴から怒られた。
理由は、危険な場所へ行ったからだと思う。
休暇が承認されたら、四日間は仕事へ行かない。
家族と一緒に帰ってくる。
以上。
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蒼真が日記を閉じると、美咲が端末の画面をこちらへ向けた。
「予約できたよ」
画面には、三泊分の宿泊日と、家族四人の名前が並んでいる。
「休暇が承認されなかったら?」
「久賀さんが、合理性はあるって言ってたでしょう?」
「合理性だけで決まるとは限らないよ」
「その時は、蒼真が話してきて」
「誰と?」
「休ませたくない人と」
大型と向き合った時とは違う重さが、胸の奥へ落ちた。
「自分が?」
「家族旅行へ行きたいのは、蒼真も同じなんでしょう?」
「うん」
「なら、自分で言わないと」
美咲は予約画面を閉じると、立ち上がって食器を重ねた。
「四日間、お休みをくださいって」
蒼真は返事をせず、食卓の上に置いた端末を見た。
休暇申請は、まだ受付済みのままだった。
明日になれば、復興管理局と第三中隊の双方で確認が始まる。
誰かが必要性を理由に、日程の変更を求めるかもしれない。
その時、自分が何と答えるべきかは、もう決まっていた。
「家族との予定があります」
声に出してみると、美咲が振り返った。
「うん。それでいいと思う」
戦場へ行く理由なら、これまで何度も見つけてきた。
今度は、行かない理由を、自分で守らなければならなかった。
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