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7話 魔獣の涙

「モーガンは痛みで我を忘れているわ。このままだと危険よ。走って!」

コーラは僕らを先導する。今は別行動をとっている場合じゃない。僕らはコーラの光に導かれて走った。苔に足を取られないように、僕はなるべく乾いた地面を踏む。クリスティンは木に飛び移る豹のように、乾いた足場から次の足場へ器用に飛んでいく。魔獣は絶叫しながら、岩とか苔とか自分を阻むものすべてを粉砕して走ってくる。その様子を見てぞっとしたよ。サーカスのショーの途中でネズミにびっくりした象みたいに見境がないんだからね。

「もうすぐ出口よ!」

コーラの視線の先にはかすかに光が見えていた。光の方からは暖かい風が吹いてくる。でも、僕らはそれを見ているわけにもいかなかった。魔獣が、もう僕たちのすぐそばまで迫っているんだ。僕の頭の中は、この魔獣からどう逃げようかでいっぱいだった。そんな時、クリスティンが魔獣に向かって石を振り上げた。無茶だ。さっきと違って、あの魔獣は今、我を忘れているんだ。石なんて簡単に粉々にしちゃうよ。

「止めるんだ、クリスティン。今は逃げることに集中しよう」

「うるせぇ! アンタに指図されるいわれはねぇ! 黙ってろ!」

クリスティンに凄まれて、僕は縮こまる。助けに来てくれてちょっと見直そうと思ったけど、やっぱり猛獣だ。野生動物みたいに、尻尾なんて一切振ろうとしない。クリスティンは石を渾身の力を込めて投げつける。でも、彼女が狙ったのは魔獣じゃなかった。クリスティンの視線の先には天井から生える、あの氷柱のような岩だった。乾いているのか、いまにも崩れそうだ。クリスティンの投げた石は、岩の根元にぶつかった。石は岩の根元を削り取る。すると、支えがなくなって、岩はいとも簡単に落ちていく。落下する岩の先には、荒れ狂う魔獣の頭があった。頭上に岩がぶつかり、魔獣は突然の刺客に驚いてひっくり返る。僕は唖然として、この一部始終を見ていた。魔獣は地響きを上げて、じたばたともがく。コーラも背後で起きた出来事を、目を丸くして見ていた。

「キャウゥン。……タイヨ……。イタイヨォォオン!」

子犬が鳴くような声の魔獣。今度ははっきりと鳴き声に交じった言葉が、僕に聞こえた。痛い……? この魔獣は痛がっているのかな。いかつい顔に似合わず、子供のような口調と声で泣きわめく魔獣。そんなことも気にせず、クリスティンはずかずかと魔獣の前に出る。バキバキと鳴る拳の関節から、僕はクリスティンが次に何をするのか、想像がついてしまった。

「随分とアタシ達を追い回してくれたな。ボコボコにされる覚悟はできてるか?」

クリスティンは魔獣の頭を乱暴に踏みつける。どっちが魔獣かわからないよ。魔獣もクリスティンの迫力に負けたのか、尻尾を後ろ足の間に埋めた。クリスティンは苛立たし気に魔獣の頭に足を押し付ける。赤茶色の目がまるで逃げることは許さないと言わんばかりに燃えていた。

「グオォォン。……ゴ……メ……ン……ナ……サ……イ……」

段々蚊の鳴くような声になる魔獣。もはや目の前の茶髪の猛獣には、魔獣の懇願は届いていないみたいだ。拳を握り締めるクリスティン。それでもなお、魔獣は何かを訴えていた。コーラにも魔獣の声が届いていないのか、事の成り行きを黙って見ている。……ダメだ! その魔獣は何かを僕らに伝えようとしているんだ。僕は思わず魔獣とクリスティンの拳の間に立ち塞がる。パンチが飛んでくる覚悟だったけど、クリスティンは驚いたのか拳の勢いを止めていた。コーラも僕がとった行動が意外だったのか、目を見開いている。

「どういうつもりだ? どけ」

クリスティンは顔をしかめていたけど、すぐに標的を僕に切り替えた。うう、正直言ってあの赤茶色の目で睨まれるとやっぱり足がすくむよ。図書館で感じたのと同じ恐怖が、僕の全身を走った。……いや、怖がっちゃだめだ。僕にだって考えがある。勇気を出すんだ!

「この魔獣は……怖がっているんだよ。だ、だから……もう見逃してあげよう……」

「魔獣は魔獣だ。放っておいたら、またアタシ達を襲ってくる。さっさとどけ」

クリスティンは目を細めて僕を射抜くように見る。妙なことを言ったらアンタから先にぶん殴ってやる、そう脅しているみたいだ。魔獣は自分の前に立ちはだかる人間を物珍しそうに見ていた。僕が今どいたら、目の前にいる茶髪の猛獣は、きっと魔獣を殴り殺すつもりだ。僕は震える手を広げて、頑としてどかなかった。

「お……お願いだよ……。クリスティン、その手を下ろしてよ……」

「ふざけんな! どかねぇならアンタからぶっ飛ばすぞ!!」

クリスティンは火が付いたように怒って、図書館でやったように僕の胸ぐらをつかんだ。そして僕めがけて拳を構える。ああ、やっぱり殴られるのか。でも、後悔はない。魔獣の命を少しでも延ばせたんだから。鋭い八重歯を覗かせて、クリスティンは歯軋りをする。

「ちょっと、今はそんなことしている場合じゃないわ」

コーラが僕とクリスティンの間に割り込む。クリスティンはしばらく拳を降ろそうとしなかったけど、邪魔が入ってもう殴る気にならなかったのか、僕を地面に振り落とした。僕はお尻を打って少し痛かったけど、殴られるよりかはましだ。クリスティンは腑に落ちない顔をしながらも、魔獣から足を離した。

「フン、つくづく甘ったれた奴。そのなけなしの勇気で、どこまで行けるか見ものだ」

クリスティンは呆れ顔で腕を組む。もう魔獣には興味がなさそうだ。僕は胸を撫で下ろして起き上がった。魔獣は頭上の脅威がいなくなった事に驚いたのか、恐る恐る僕らの方を見る。さっきの暴れっぷりが嘘みたいにおとなしい。僕はおずおずと魔獣に近づいた。

「さっきは驚かせてごめんね。もう大丈夫だよ」

僕は魔獣の頭を、犬の頭を撫でるように撫でる。魔獣は最初ぶたれると思ったのか、体を震わせたけど、すぐに尻尾を横に振り始めた。図体は象みたいでおっかないけど、意外と慣れると可愛いな。

「……ガトウ。……アリ……ガトウ」

魔獣はたどたどしい口調で感謝の言葉を述べて、僕に身を寄せる。ざらざらとした石のような体をこすりつけられて少し痛かったけど、どうやら大人しくなってくれたみたいだ。

「信じられない。魔獣モーガンを大人しくさせるなんて」

コーラは目の前で起こっていることが信じられないような顔をする。宇宙人でもあんな顔をするんだ。魔獣、モーガンは起き上がって、子供っぽく甘えるような声を上げる。

「用が済んだならさっさと行くぞ」

クリスティンが僕の肩を叩く。モーガンはさっき自分を襲った猛獣が近づいてきて、僕の後ろに隠れる(大きいせいで端から見たら僕が隠れているようにしか見えなかったけど)。

「何怯えてんだ。お前を殴る気はもうねぇ。無抵抗の奴をいたぶる趣味はねぇからな」

モーガンの態度を見て、ため息をついてたしなめるクリスティン。よかった、てっきりまたモーガンの頭を踏みつけるかと思ったよ。クリスティンは面白くなさそうに側にある石を蹴飛ばしながら、洞窟の出口へ向かう。

「ごめんね、もう行かなくちゃいけないんだ」

「……ウン、助けてくれてありがとう! お兄ちゃん」

モーガンは嬉しそうにはしゃぎ回って、一吠えする。やっぱり年少の子供みたいな声だ。見た目は犬の石像そのものなのに。でも僕が耳を疑ったのは、その石像が発した言葉だった。今まで片言でしか聞こえなかった言葉が、今度は鮮明に聞こえたんだ。

「リアム、行きましょう」

コーラに急かされ、僕は仕方なく出口へと向かう。コーラは僕とクリスティンを、出口の方へと先導する。クリスティンは相変わらずしかめ面をして泥だらけのブーツを踏みならす。

「ね……ねぇ、クリスティン」

「……なんだ」

僕はおずおずとクリスティンに話しかける。珍しくクリスティンは、僕の呼びかけに答えた。心なしか以前より警戒心は消えたような気がする。

「ありがとう……。僕の頼みを聞き入れてくれて」

意外な発言に驚いたのか、クリスティンは細い眉を上げて僕をじっと見ていた。思い切って言ったのはいいけど、ちょっと照れるな。こんなに人にジロジロ見られたことはないからね。

「……あれはただの気まぐれだ」

クリスティンは僕から顔を背ける。本当はどんな顔をしているのか見たかったけど、覗き込んだらどんな目に遭うか予想が付いたから止めた。

「ね……ねぇ、クリスティンって言うのもちょっと堅苦しいだろ? だから、クリスって呼んでもいいかな?」

「…………好きにしろ」

僕の提案を面倒くさそうに返すクリスティン……じゃなくてクリス。ぶっきらぼうな口調だったけど、まんざらでもなさそうだ。ホッとしたよ。クリスティンって言うのはちょっとよそよそしい感じで違和感があったんだ。それに、クリスって言う方が呼びやすいし。

「もうすぐ出口よ。リアム、クリス」

さっきまでの会話の一部始終を聞いていたのか、茶化すように僕らを呼ぶコーラ。クリスはちょっと顔を赤らめて、ふんぞり返りながら歩く。コーラもなんだか少し楽しげだ。宇宙人も冗談を言う口があったなんて。そもそも本当に星形の宇宙人なのかどうかも分からないけど。風が吹き付ける洞窟の出口を、僕らはくぐり抜ける。後ろからは僕らを後押しするように、モーガンの遠吠えが聞こえた。コーラが何者なのか、僕らが本当に世界を救うヒーローなのか、そもそも僕らは図書館に戻れるのか。それはまだ分からない。でも、一つだけ分かったことがある。クリスは僕が思っていたよりかはいけ好かない妹じゃなかったっていうことだ。


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