6話 魔獣モーガン
コーラが僕の元に寄って、僕に催促する。僕は足が動かないことを説明しようとした。だけど、唇が震えてうまく言葉が出てこない。喉に言葉が詰まって窒息しそうだ。そうこうしているうちに緑色の目が近づいてくる。暗闇からヌッと、大きな犬の前足が出てきた。かび臭さと一緒に、水遊びで濡れた犬のような匂いが僕の鼻に入ってくる。前足の持ち主は地響きを上げて僕の目の前に現れた。その姿を見て、僕は腰が抜けそうになったよ。だって、僕らの目の前に現れたのは、象ぐらいの大きさの犬だったんだから。それもただの犬じゃない。いつか図書館で借りた東の国にある古い建物の門に置かれている石像みたいな犬なんだ。おまけに両肩には博物館に飾ってある恐竜の頭の骨みたいなものが、鎧みたいに生えていた。ずっと洞窟を歩き回っていたせいなのか、石像のところどころからはみ出ている灰色の毛には泥と苔がついている。
犬の魔獣は僕らの姿を見ると、(犬なのに)鳥のようにけたたましい声を上げた。
「ガォウゥゥ!! ガゥ……レ……!? ……ケテ……!」
犬の魔獣の咆哮には、また意味の分からない言葉が混ざっていた。意味は分からないけど、きっと僕たちを食べてやるって言っているに違いない。僕はその場を離れようとしたけど、やっぱり足が動かなかった。怪物から目をそらそうとしても、あの恐ろしい顔が嫌というほど目に張り付く。作り物の緑色の目、僕らを一飲みできそうなほど大きな口。目元には涙の跡のような水色の模様があって、それがより恐ろしさを掻き立てていた。
「魔獣モーガンよ。話し合いが通じる相手ではないわ。逃げましょう!」
コーラが僕の背中を押して、ようやく僕は一歩踏み出すことができた。僕らはそのまま振り向くことなく、洞窟を走り始める。ぬかるんだ泥が靴下についてもお構いなしに、僕は走った。コーラは僕の先を照らし続ける。今はこの光だけが頼りだ。後ろからは魔獣の恐ろしい声と足音が迫ってくる。
「ガァッ……テェ……! グォオル……デヨ……」
まただ。また吠え声に交じって何か言っている。聞き取れそうで聞き取れない声だ。あの声が聞き取れたら、話し合いで解決できるかな。“この洞窟に生えているありったけの苔をあげますからどうか食べないでください”って? ……無理だね。あの化け物がそんなもので満足するわけがない。現に魔獣は地面の苔を踏み潰しながら向かってきている。コーラの光がだんだん見えなくなってきた。僕は足を速めようとしたけど、ぬかるみに足を取られて転んだ。地面がぬかるんでいたおかげで怪我はなかったけど、顔と服が泥まみれになった。苔が口の中に入って、思わず僕はせき込む。口の中が青汁を一気に飲み干した後みたいだ。
「リアム、どうしたの!?」
コーラがいつまでも僕が来ないことに気付いたのか、僕の元に戻ってくる。それと同時に魔獣も僕に追いつき、荒い息を吐いた。相当興奮しているのか、吐く息が白くなる。魔獣は獲物に追いついたのが嬉しいのか、フリスビーをご主人様のために取ってきた飼い犬のように尻尾を振っていた。コーラは僕の目の前に立って、魔獣を威嚇するように発光する。
「この子は大切な人よ。あなたには渡さないわ」
コーラは魔獣の顔がすぐそこまで来ても動こうとしない。魔獣は目の前にいる食べられなさそうな星を見て、ぎこちなく首をかしげる。だけどコーラのことなんて意にも解さず、僕の方へ顔を近づけた。両肩の恐竜の骨も、大きく口を開ける。僕はぬかるみの中でもがいたけど、うまく動けない。魔獣のかび臭い息が僕の顔に吹き付けられる。その時、怪物の来た方向とは反対側から、水を弾く音が聞こえた。音はだんだん僕らに近づいてくる。それが僕らを助けてくれるのかは分からなかった。魔獣も音がする方を向く。すると、小さな石が魔獣めがけて飛んできた。石が目に当たって、魔獣は大声をあげて悶絶する。僕は起き上がって、石を投げた相手を見た。途端に僕はもう一度転びそうになったよ。それはかっこいいスーパーヒーローでもないし、大きな剣を持った騎士でもない。あの身なりのだらしない僕の妹だったんだから。
「何をもたもたしている。そこにいる星クズしか、この世界について知らねぇんだろう。さっさと行くぞ」
目の前にいる象並みのサイズの犬の石像なんか気にせず、クリスティンは僕の手を強引に引っ張る。爪が少し伸びてて痛かったけど、僕はほっとした。本当に自分だけで出口を見つけて、もう図書館に帰っちゃったものだと思っていたよ。僕は服についた泥を落とす。クリスティンの手は僕より大きかった。ジャンバーの袖でほとんど見えないけど、日に当たったことがほとんどなさそうな白い手が見え隠れしている。
「クリスティン。よかった、戻ってきてくれたのね」
コーラもクリスティンの元へ寄る。不思議とさっきまで無表情だったコーラの顔が、少し和らいだような気がした。クリスティンはコーラに気付くと僕の手を乱暴に離して、後ろに飛びのく。さっき手をつかまれて気づいたけど、クリスティンも怖いんだ。僕をつかむ手が震えていたよ。
「グワオォォン! ガァ……イヨォォン……。グルゥ……イヨォォ……」
魔獣が痛みのあまり、耳をつんざくような鳴き声を上げる。そして闘牛士の持つ赤旗を見た闘牛のように、僕らめがけて突進し始めた。




