40話 世界の行く末
僕は剣を取って、オズワルドに向き直る。その時、僕らの足下がぬかるみのようにうねり始めた。僕は足を動かそうとするけど、足を取られて動けない。黒いぬかるみは僕らを暗闇に引きずり込んでいく。僕らの前に、オズワルドがインクの羽根を動かして降り立つ。その顔は青白く、紫色の瞳が妖しい光を帯びていた。まるでホラー映画の悪魔のように。
「な……何だ!?」
「この世界がリセットされるんだよ。一度無に還って、また新たな“あるところの”物語が始まるんだ」
オズワルドが冷たく言い放つ。僕らの抵抗も虚しく、ぬかるみは不気味な波音を立てて僕達を暗闇の世界へと誘おうとする。うねって、渦巻いて、インクのぬかるみは僕達の体を捕らえた。視界がどんどん沈んでいく。ぬかるみに肩まで浸かったその時、どこからか声がした。
「物語が……また始まる……?」
その声はか細かったけど、確かに僕の耳に届いた。その声は忘れるはずもない、コーラの声だ。コーラはまだ、暗闇に飲み込まれていない。まだ何処かにいるんだ。僕は大きく息を吸い込んで、コーラを呼んだ。
「コーラ! 僕の声が聞こえるか!? 僕だよ、リアムだよ!!」
「リア……ム……?」
コーラが僕の名前を何度も呟く。お願いだ、どうか思い出して。まだ君の中には、僕との思い出が残っているかな。僕は覚えているよ。だから……。ぬかるみに沈みながら、クリスもコーラを呼ぶ。オズワルドは不思議そうに僕らを見た。
「そんなことをしても無駄だよ。カーラは君達と過ごしたコーラとしての記憶を無くしつつある。何度呼びかけても、彼女は答えないよ」
「んなことは関係ねえ! そう簡単に忘れるはずがないだろ! だって、お前はアタシ達と旅をしているときに、必死に自分のことを思い出そうとしたじゃねぇか!」
オズワルドの言葉を振り切るように、クリスは叫ぶ。
「思い出そうと……した……。私の……事を……」
「コーラ……」
暗闇に引きずり込まれて、僕は息ができなくなる。それでも僕は手を伸ばして、コーラを掴もうとした。諦めるものか。忘れるものか。二度と僕の記憶も……コーラの記憶も奪わせはしない。抗うように手を伸ばす。その時、誰かが僕の手を取ってぬかるみから引っ張り出した。温かい手。もう片方の手が、クリスの体を掴んでいる。
「そうよ、私はコーラよ。例え姿が変わっても、記憶を塗り替えられても、二人が呼んでくれたこの名前を忘れないわ!」
コーラが僕とクリスを掴んでいる。オズワルドは眉を上げて、コーラを見ていた。コーラは光の帯で、僕らをしっかり掴んでいる。力強いヒスイ色の瞳で、オズワルドを見ていた。
「カーラ、この二人はもう消えてしまうんだ。そんな辛い記憶を君に刻ませたくはない」
「消させたりなんかしないわ! この二人は私にとって大切な人よ」
オズワルドは悲しげな顔をする。コーラも心苦しげに顔をしかめた。だけど、オズワルドは顔を俯けたまま、不気味な笑い声を上げる。まるで希望を失ったような、乾いた笑いだ。
「……ハハハ、君はこの二人が相当気に入ったみたいだね。それなら、君がこの子達といつでも会えるように、この子達を本の中にずっと閉じ込めてあげるよ!」
オズワルドはインクの翼を羽ばたかせ、黒い塊を飛ばす。コーラは僕らを掴んだまま、塊を避けていった。オズワルドの瞳は魂が抜けたように虚ろで、体だけが動いているみたいだ。僕もクリスも武器を構えて、インクを弾く。オズワルドはインクの触手を再生させて、槍のように触手を放った。インクの槍は僕らを突き刺そうとどこまでも追ってくる。コーラは暗闇の中を駆ける流れ星のように、インクの槍を避けていった。だけど、コーラの顔にも、段々疲労の色が見えてくる。コーラの背中に、触手の一つがぶつかった。コーラは痛みに耐えるように歯を食いしばる。コーラの体が、どんどんインクの波に近づいていった。オズワルドが手にインクの塊を集めている。インクの塊はどんどん広がって、周りを飲み込むように渦巻いていた。オズワルドの目には、もう僕らを映していないように見える。何か遠いものを見ているような、悲しげな目だ。
「君はずっと生きながらえるんだ……。この本の世界で……ずっと!」
オズワルドは触手の一部を手の形に変えて、コーラを握りつぶそうとする。もうその目は、コーラが見えていないみたいだ。クリスは衝撃波を撃ち出して、インクの手を切り飛ばした。その間にも、黒い塊は全てを飲み込もうと大きくなる。コーラは息を切らして、その塊を見た。
「リアム、クリス。このままじゃあなた達も危ないわ。私がオズワルドを止めるから、あなた達だけでも生き延びて」
コーラが僕の手を握る力が弱まってくる。それが何を意味するかは、僕にもクリスにも分かった。クリスは光の帯を強く握り締めた。
「何言ってやがる! お前、死ぬつもりか!!」
「いいのよ、元から私は死んでいたし。元の世界に帰るあなた達は生きるべきよ」
「馬鹿言うな! それじゃあお前はまた全部忘れちまうじゃねぇか! 何もかも忘れて、またただの星クズとして繰り返しちまうじゃねぇか!」
クリスが悔しそうにコーラの体を揺する。コーラを死なせなんかしない。僕だってコーラを守る気持ちは同じだ。
「コーラ、役割に縛られる必要はないんだ。一緒にオズワルドを止めよう」
僕はコーラを見据える。コーラは苦しげだけど、その顔に笑顔が戻ってきた。
「……ありがとう。やっぱりリアムとクリスはこの世界を救う勇者ね」
「…………そうかもしれないね」
コーラが明るい表情になる。暗闇はもうすぐそこまで、僕らを消し去ろうと手を伸ばしてきた。コーラは痛みをこらえて、宙に浮かび上がる。
「お願い、リアム、クリス。力を貸して。オズワルドを……そしてこの世界を……在るべき姿に戻して」
「うん、それでこそコーラだよ!」
「あんな未練タラタラな奴、目ぇ覚まさてやろう!」
僕らの言葉に、コーラは頷く。コーラは僕らを掴んだまま、オズワルドに突進していった。オズワルドの手の黒い球体は、この暗闇を覆うように広がっている。
「カーラ、怖がることはないよ。君が死ぬことは永遠にないのだから」
目の焦点が合わないオズワルド。彼の目には今、何が映っているのだろう。その様子を見て、コーラの目から水滴が零れた。襲い来る触手をかいくぐって、僕らはオズワルドのすぐ前まで来る。すぐそこでインクの塊が僕らを捕らえようと渦巻いている。
「私は、もうしばらくコーラとして生きていたい! この思い出は……忘れたくないわ!」
コーラの体が一層輝く。虹色の体は、暗闇を前にしても光り輝いていた。コーラは流星のように、黒い塊に向かって体当たりをする。塊も僕らを押し潰そうと、勢いを増す。僕は剣で黒い塊を食い止めようとした。クリスも、杖から衝撃波を撃ち出す。オズワルドが腕を振ると、インクが辺りの暗闇を取り込んで勢いを増した。それでも僕らは、潰されまいとふんばる。腕が痺れてきた。体から血の気が引いていく。負けるものか。僕はみんなを助けるんだ。みんなを助けて、元の世界に帰るんだ。僕の気持ちに反応するように剣が光り輝いた。その時、クリスの杖も白く輝く。
「こ……これは……!」
オズワルドが僅かに攻撃の手を緩める。光は段々大きくなって、僕らを覆った。白い光に触れると、インクの塊が溶けるように消えていく。光は暗闇を晴らしていった。ガラスが割れるように、暗闇は崩れていく。そして僕らの目の前には、庭園の風景が広がっていった。ヴィンセントの城だ。白い光に触れて、オズワルドを覆っていたインクもかき消えていく。その姿を見てコーラは安堵して、庭園の花畑に落ちていった。光の帯が手から離れて、僕らも花畑に落ちていく。仰向けに倒れた僕の目は、雲一つない青空を映していた。




