36話 お菓子の国の勇者
そう、彼の本にはヴィンセントという勇敢な騎士がいた。お菓子の国の人々を笑顔にした、優しくて強い騎士。麦畑のような金色の髪を揺らして、エメラルドのように輝く瞳をしていた。いつも絵本の中で白い鎧を着ていて、背中には大きな剣を背負っている。そんな彼が、私の前に魔王として現れたのは、いつからだったのだろう。
私はずっと暗闇の中にいた。自分が今どこにいるのか、どうなったか分からなかったけど、ただ、彼ともう一度会いたかった。時々、この暗闇の中にも風の音に混じって声が聞こえてくる。それが何を意味するのかは分からなかったけど、とても不安になった。
――お願いです! 病人がいるんです! 薬を分けてください!――
――ふざけるな! 誰が魔法使いの言うことなんか信じるか! 大方薬を使ってこの村に呪いをかけるつもりだろう!?――
石のぶつかる音、人々の怒号、何度も訴えかける声。次々と聞こえてくる声に、私は耳を覆いたくなった。
――……お前か。一族の落ちこぼれが、何の用だ?――
――お願いだ、父さん。一族の秘薬の調合の仕方を教えてよ。彼女を救う為に必要なんだ――
――何だと!? 村の連中と関わるとは……。一族の恥さらしめ! 我が一族が、あんな薄汚れた奴らを助けるはずがなかろう!?――
――父さんっ!――
閉ざされる扉。何度も屋敷の主を呼ぶ声。それを聞くと、胸が張り裂けそうになった。今はただ、無性に彼の声が聞きたい。私はそう祈って、暗闇の中で待ち続けた。
誰かが私の側へ歩み寄る。誰かは分からないけど、ひどく息を切らせていた。
――遅くなってごめん。はい、これ。何でも直る万能薬だよ――
彼だわ。その瞬間、私は暗闇から解放された。彼は体中生傷だらけで、青あざもできている。私は薬に手を伸ばそうとしたけど、うまく動かない。まるで自分の体じゃないみたいに、私の体はベッドに横たわったままだ。そんな、やっと彼が来てくれたのに。話せないなんて。気づいてもらえないなんて。
――どうしたんだい? 目を覚ましてくれよ――
動かない私を見て、彼の声が震える。彼が何度私を呼んでも、私が何度彼に返事をしても、私の体は起きてくれなかった。
――頼むよ。起きてくれよ。君無しの人生じゃあ僕はどうすれば良いんだ。お願いだよ。目を開けてくれよ!――
だんだん涙声になる彼。ここにいるよ、もう病気は治ったのよ。そう言いたかった。でも、私が彼に手を伸ばそうとしても、彼の手をすり抜けるだけ。彼は冷たくなった私の体に泣き崩れる。薬が静かに、ベッドから床へと落ちていった。その薬を見て、彼は震える手で取る。
――……この薬は病気の人間を治すけど、健康な人間に使うと……――
薬を口元まで持ってくる彼。彼の涙が私の顔を濡らした。私の視界が再びぼやけてくる。また暗闇に戻される。そんな恐ろしさが私を覆った。彼は涙と一緒に薬を一気に飲み干す。それと同時に、私の視界は一気に暗闇に引きずり込まれた。
――君を一人なんかにはさせない。僕も一緒だよ。……カーラ……――
彼が倒れる音が聞こえた。暗闇でも、その音は残響を伴って私の耳に残る。その余韻が消えると、私は本当に何も感じなくなってしまった。自分の手も足も、心臓の鼓動の感覚すらない。胸の中も空っぽだ。暗闇に、自分が溶けてしまっているみたいだ。あれ? 彼は……一体誰? 私は…………一体誰? 体と一緒に、意識まで溶けていった。
次に目を覚ますと、私は小さな星になっていた。洞窟の水面に映る虹色の体。手の代わりに漂う光の帯。そして目の前には、一人の男の子がいた。ニット帽を被って、無邪気な顔で私に話しかけてくる。だけど私の頭の中には、一つの言葉しか残っていなかった。目の前の勇者を導く……それがお前の使命だ。彼と旅をして、魔王を倒そうとして……それで……。彼と一緒に立ち向かった魔王。彼もヴィンセントという名前だった。私が知っていたヴィンセントとは違う、黒い魔王のヴィンセント。彼の一撃からニット帽の男の子を守って、私は一度死んだ。……いや、一度じゃない。私は何度も同じ感覚を味わってきた。暗闇から呼ばれて、星になって、また暗闇に戻って。いろいろな人に会った。大柄な男の人に、小さな女の子。目つきの悪い男の人に、光り物が好きな人。そして、赤茶色の目の女の子に、マリンキャップを被った男の子。どうして……? どうして私には使命が与えられているの? どうして私は、何度も物語を繰り返しているの? どうして……勇者のはずのヴィンセントが魔王になっているの?
「ヴィンセン……ト……」
コーラが消えかかっている体をゆっくり起き上がらせる。息も絶え絶えで、今にも消えてしまいそうだ。それでもコーラは、魔王に何か言いたそうに口を動かしている。
「おい、動くんじゃねぇよ。怪我してんだろ」
クリスがコーラの体を支える。コーラは光の帯を伸ばして、魔王に触れようとした。魔王も悲しげな目をして、剣を手から離す。魔王の顔を見ていると、僕もやりきれない気持ちになる。こんな悲しい顔をする人と、僕は戦いたくないよ。コーラは光の帯で、魔王の頬を撫でる。
「あなた……勇者ヴィンセントね。彼の本に出てきた、お菓子の国を救った勇者でしょ?」
勇者? 彼の本……? 僕にはコーラが何を言っているのかよく分からなかった。クリスもだ。だけど、魔王は何度も頷いた。光の帯を震える手で握って。
「…………その様子だと、全部思い出してしまったようだね。カーラ」
魔王は……ヴィンセントは穏やかな口調でコーラに語りかけた。魔王としてじゃなくて、まるで僕らが初めて会った時みたいに。
「お前、何言ってんだ。そいつはカーラじゃなくてコーラだぞ」
「違うの、クリス。これが本当の名前なの。案内人としてじゃなくて、人間としての私の名前よ」
クリスの声を遮るように、コーラ(カーラって呼んだ方が良いのかな)は声を張り上げる。まるでそれが自分の本当の名前であるかのように。一体どうしたんだ、コーラ。僕は頭の中がごちゃごちゃになった。今までのコーラとの記憶が、潰されてしまいそうだ。コーラは僕らの案内人じゃなかったのか。ちょっと冷たいけど、感情豊かな星の精で……。訳が分からなかった。
「どうして……。だってコーラは僕らをここまで連れてきて……」
「……本当のことを言おう。カーラ……君達が言うコーラは、元々は人間なんだ。病気で一度死んで、星の妖精として……勇者の案内人として生まれ変わったんだ」
出血する胸元を押さえて、ヴィンセントは苦しげに言う。コーラが人間だったなんて。でも、僕はすぐに信じることができた。だってコーラは妖精にしては、人間くさいんだもの。コーラも顔を俯かせる。
「…………ええ、もう全て思い出してしまったわ。私が死んだことも、この世界で何度もあなたに殺されてきたことも。……あなたが勇者だったことも」
コーラの言葉に、ヴィンセントは視線を落とす。記憶の断片をつなげるように喋るコーラは、心苦しげだ。クリスはそんなコーラの背中を大きな手でさすっていた。
「すまない。君達には悪いけど、私は負けるわけにはいかない。全てを知ってしまった今、私はまた、この物語をリセットさせなければいけないんだ」
ヴィンセントはボロボロになった体で、地面に刺さった剣を引き抜く。その目は一歩も引けない決意を秘めていた。だけど、同時にためらいも見えた。クリスが立ち上がって、杖をヴィンセントに突きつける。
「分かってるだろ。アタシらもみすみすやられないってよ。絶対に元の世界に帰ってみせる」
「……分かってるさ。だけど元の世界に戻る方法なんてないんだ。死ぬことが許されない私と戦っても、君達は疲弊するだけだ。ならばせめて私が……」
ヴィンセントは胸からあふれ出る血を、心臓を鷲掴みにするようにして押さえる。戻る方法がないなんて。それに、ヴィンセントはゾンビみたいに生かされて、死ぬことが許されないなんて。そんなの……。僕は剣を地面に置いて、その場を動かない。僕はそのままヴィンセントと対峙した。
「だったら、他に元の世界に戻る方法を探せばいい。戦うなんておかしいよ!」
ヴィンセントは一旦剣を止める。迷っているのか、ダメージが大きいのか、その手は震えていた。クリスはコーラを庇うように、杖を向けたままだ。
「他に方法なんてない。戦うことが私達の役割だ」
「役割が何だよ! そんな役割なんかアタシがぶっつぶしてやる!」
クリスが杖を降ろして、ヴィンセントに食ってかかる。その目は少し潤んでいた。クリスは震える拳を握り締めて、唇を噛んだ。
「役割だからって、良い奴らと戦うのはもうごめんだ。あんな悲しい顔……もう見たくねぇ」
クリスは目からあふれ出る雫を押さえるように、よれよれになったジャンパーの袖で顔を覆う。ヴィンセントはその様子を見て、無意識に剣を手から離した。離した剣はヴィンセントの足下にあった、ドラゴンの骨を打ち砕く。粉々になったドラゴンの骨は、風に乗って何処かへ消えていった。ヴィンセントは手を僕らにゆっくり掲げる。すると、僕らの傷はどんどん塞がっていった。ヴィンセントの傷も完治していく。その時のヴィンセントの顔は、もやのようだけど、笑顔が浮かんだように思えた。まるでずっと前、誰かにもそんな顔をしていたように。忘れたはずの笑顔で。
「…………負けたよ。私には、君達を殺せない。役割に囚われた私が、役割に囚われていない君達に勝てるはずがなかったよ」
ヴィンセントは憑きものが取れたようにその場に崩れ落ちる。コーラがヴィンセントの元に駆け寄った。ヴィンセントはコーラを懐かしむように、光の帯に手をかける。その姿は本当に、コーラとヴィンセントが昔からの知り合いだったみたいだ。
「どうして世界を救うはずのあなたが、魔王としてこの世界を支配しているの?」
「それは……」
ヴィンセントは出かかった言葉を飲み込む。その様子は何処か苦しげだ。すると、突然地面が揺れ、城が崩れ始めた。庭園の真ん中に穴が空いて、僕らを飲み込むように闇が広がる。僕らは暗闇から逃げようとするけど、闇はあっという間に僕らを覆い尽くした。庭園の噴水が消えていく。城壁も、花畑も消えていく。城というより、この世界全体が黒一色に染まっていくようだ。魔王の体が、暗闇に包まれる。暗闇は粘ついた黒いインクのように、魔王の体を蝕んだ。
「言えるはずがないよね。だって君の存在はもう勇者じゃなくて、魔王に書き換えられているからね」




