23話 父
アタシ、クリスティン・ノーマンは突然クリスティン・スタンフォードになった。厄介者がいなくなるせいなのか、妙に上機嫌なヘザー院長に連れられて、アタシは施設の玄関で、見知らぬ家族と対面した。一人は気弱そうな背の高い男。縮れた黒髪を掻いて、馴れ馴れしくアタシに話しかけてきた。もう一人は仕切りに院長と話していた神経質そうな女の人。青い目で、哀れむようにアタシの方をチラチラ見ていた。そして、その二人の側にいた、怯えた目でアタシを見る背の小さいアイツ。院長にあの三人がこれからあなたの家族よ、って言われたときはぞっとした。だってアタシにはもう父さんも母さんもいたんだからな。
施設に来る前、アタシは父さんと母さんと一緒に住んでいた。アイツの住む田舎町なんかとは比べものにもならない、ブルーステイツっていう大きな町に。家も大きくて、アタシはよく家の庭で母さんと花を育てていた。どの種がどんな色の花を咲かせるのかは、ぜんぶ母さんに教わったんだ。母さんは体が弱かったけど、いつも料理を作ってくれた。母さんったらアタシの大嫌いなブロッコリーを、オムレツの中に入れたりするんだ。食事の時にアタシがブロッコリー入りのオムレツを何も知らないで美味しそうに食べていたとき、父さんと母さんはいたずらっ子みたいに笑っていた。父さんもよく、アタシをドライブに連れて行ってくれた。父さんは背が高かったから、動物園で前がよく見えないときにアタシを肩車してくれたんだ。あの時はとても楽しかった。でも、楽しいときは一瞬だ。おとぎ話じゃないから、その後幸せに暮らしました、なんてない。ある日、アタシが庭から戻ってきたら、母さんが台所で倒れていた。母さんは酷く咳き込んで、体中を痙攣させていた。その光景だけは今でも覚えているよ。台所にあった作りかけのオムレツ。アタシはどうしようもできなかった。救急車に運ばれていく母さんを黙って見届けるしかなかった。病院に行こうと焦る父さんの顔。ベッドの上で苦しげな母さん。病室に鳴り響く心電図の機械音。その機械音が鳴り止んだ時、それが何を意味するのか、アタシには分からなかった。ただ、苦しげな表情がなくなった時に、病気が治って眠っただけかと思ったんだ。だから、父さんやお医者さんが悲しそうな顔をしている理由が分からなかった。しばらくして母さんが変な箱に入って土の中に埋められるときに気づいたんだ。母さんは死んでしまったってな。
それから、この家はおかしくなった。父さんは母さんを喪ったショックで、仕事に身が入らなくなったんだ。アタシは掃除洗濯、買い物、全ての家事をやらなくちゃいけなくなった。父さんの恰幅のよかった顔はだんだんやつれて、はつらつとしていた赤茶色の目は死んだ魚のような目になった。身なりもだらしなくなって、髭の手入れもしなくなったんだ。父さんはアタシが作った食べ物を一切口にしないで、泡立つ黄色い液体ばかり飲むようになった。それが何だか分からなかったけど、それを飲むと父さんは顔中火が付いたみたいに真っ赤になったんだ。父さんはそれから事あるごとにアタシを殴った。帰ってくる時間が遅れたら本を投げつけ、お使いで買ってくるものが売り切れていたときには、吸っていた火の付いた白い棒を腕に押し当て、お風呂の掃除ができていなかったときには、浴槽に沈められる。そんな毎日が続いた。アタシは家事をしていない間は、自分の傷に包帯を巻いて、破れた服を縫ってばかりだった。父さんが仕事に身が入らなくなってからは、学校にも行けなくなったんだ。先生に読み書きを教えてもらう代わりに、父さんから罵詈雑言を教えられた。“お前なんて生まれてこなくてもよかった”、“母さんが死んだのはお前のせいだ”。ここまで言われると逆に今までの生活が嘘みたいに思えたよ。アタシ達は母さんが死ぬまで、“家族ごっこ”をやってたってな。でも、家族ごっこも役者が揃わなければ終わりだ。母さんがいなくなってからは、生活がどんどん苦しくなった。父さんも仕事に行かず家にいることが多かったよ。そんなある日、アタシはいつも通り買い物から帰ってきた。父さんに殴られる覚悟で居間に行ったけど、その心配はなかった。居間には天井から垂れ下がるロープに吊された父さんがいたんだ。骨と皮だけになった腕をだらりと垂らしてな。アタシは驚きのあまり、買い物で買ってきた牛乳を落とした。父さんの足下には、数字がたくさん入った書類が落ちていた。その意味は何だか分からなかったが、“ファイアー”と書いてある書類が嫌に目に付いたよ。父さんは首にロープが巻き付いたまま、空中で揺らいでいる。返事が返って来ない様子を見て、アタシは気づいた。自分は一人になってしまったと言うことをな。父さんからの暴力がないことにせいせいする前に、酷い喪失感が襲った。あの家族ごっこは確かにアタシの記憶にあったんだ。あの思い出は本当だった。いくら暴力を振られても、その思い出だけは忘れられなかったんだ。
しばらくして、警察がアタシと冷たくなった父さんを見つけた。警察はアタシの話なんか気にせずに、せっせと父さんの体を運んでいったんだ。その後、眼鏡をかけた神経質そうな女の人が、取り繕うような笑顔でアタシを迎えに着た。待ってたのは、あのつまらない施設での生活だったよ。アタシは今までの暮らしを忘れようと、集めた花の種をぜんぶゴミ箱に捨てた。父さんと同じブロンド色の髪を消すために、茶色に染めた。施設は狭いくせに、嫌に清潔な白い服を着た子供でいっぱいだったよ。アタシが遊ぶような物じゃない幼稚な遊具で、動物園みたいに子供達が騒いでいた。アタシは騒がしいのは嫌いだった。もちろん口うるさいヘザー院長も。だからアタシはいつも、施設の隅で寝ていた。寝ているときだけは、何もかも忘れられるから幸せだったよ。つまらない読み書きの授業も、がやがやうるさい休み時間も、これで乗り切れるからな。でも、時折そんな時間を邪魔する奴がいた。ある日、背のでかい小太りの子供がアタシに話しかけてきた。歩く様子が、まるで足の生えたドラム缶みたいだったな。ドラム缶小僧はアタシを指さして、“お前の父親は借金を背負って自殺したんだろ?”って言った。アタシはそれを聞くなり頭にきて、そいつの頭を殴ってやった。父さんを侮辱したから殴ったわけじゃない。ただ、アタシに余計な探りを入れたから腹が立ったんだ。ドラム缶小僧はアタシに殴られるなり、大泣きしてヘザー院長を呼んだ。その後は傑作だったよ。ヘザー院長はあのドラム缶小僧の言い分を鵜呑みにして、アタシだけを叱ったんだ。言い訳する気にもなれなかったよ。よかったな、ドラム缶。アタシを悪者にできて。おかげでアタシに誰も近づかなくなったよ。本当に独りぼっちだ。アイツが来るまでは。
アタシ、クリスティン・ノーマンは突然クリスティン・スタンフォードになった。厄介者がいなくなるせいなのか、妙に上機嫌なヘザー院長に連れられて、アタシは施設の玄関で、見知らぬ家族と対面した。一人は気弱そうな背の高い男。縮れた黒髪を掻いて、馴れ馴れしくアタシに話しかけてきた。もう一人は仕切りに院長と話していた神経質そうな女の人。青い目で、哀れむようにアタシの方をチラチラ見ていた。そして、その二人の側にいた、怯えた目でアタシを見る背の小さいアイツ。院長にあの三人がこれからあなたの家族よ、って言われたときはぞっとした。だってアタシにはもう父さんも母さんもいたんだからな。
施設に来る前、アタシは父さんと母さんと一緒に住んでいた。アイツの住む田舎町なんかとは比べものにもならない、ブルーステイツっていう大きな町に。家も大きくて、アタシはよく家の庭で母さんと花を育てていた。どの種がどんな色の花を咲かせるのかは、ぜんぶ母さんに教わったんだ。母さんは体が弱かったけど、いつも料理を作ってくれた。母さんったらアタシの大嫌いなブロッコリーを、オムレツの中に入れたりするんだ。食事の時にアタシがブロッコリー入りのオムレツを何も知らないで美味しそうに食べていたとき、父さんと母さんはいたずらっ子みたいに笑っていた。父さんもよく、アタシをドライブに連れて行ってくれた。父さんは背が高かったから、動物園で前がよく見えないときにアタシを肩車してくれたんだ。あの時はとても楽しかった。でも、楽しいときは一瞬だ。おとぎ話じゃないから、その後幸せに暮らしました、なんてない。ある日、アタシが庭から戻ってきたら、母さんが台所で倒れていた。母さんは酷く咳き込んで、体中を痙攣させていた。その光景だけは今でも覚えているよ。台所にあった作りかけのオムレツ。アタシはどうしようもできなかった。救急車に運ばれていく母さんを黙って見届けるしかなかった。病院に行こうと焦る父さんの顔。ベッドの上で苦しげな母さん。病室に鳴り響く心電図の機械音。その機械音が鳴り止んだ時、それが何を意味するのか、アタシには分からなかった。ただ、苦しげな表情がなくなった時に、病気が治って眠っただけかと思ったんだ。だから、父さんやお医者さんが悲しそうな顔をしている理由が分からなかった。しばらくして母さんが変な箱に入って土の中に埋められるときに気づいたんだ。母さんは死んでしまったってな。
それから、この家はおかしくなった。父さんは母さんを喪ったショックで、仕事に身が入らなくなったんだ。アタシは掃除洗濯、買い物、全ての家事をやらなくちゃいけなくなった。父さんの恰幅のよかった顔はだんだんやつれて、はつらつとしていた赤茶色の目は死んだ魚のような目になった。身なりもだらしなくなって、髭の手入れもしなくなったんだ。父さんはアタシが作った食べ物を一切口にしないで、泡立つ黄色い液体ばかり飲むようになった。それが何だか分からなかったけど、それを飲むと父さんは顔中火が付いたみたいに真っ赤になったんだ。父さんはそれから事あるごとにアタシを殴った。帰ってくる時間が遅れたら本を投げつけ、お使いで買ってくるものが売り切れていたときには、吸っていた火の付いた白い棒を腕に押し当て、お風呂の掃除ができていなかったときには、浴槽に沈められる。そんな毎日が続いた。アタシは家事をしていない間は、自分の傷に包帯を巻いて、破れた服を縫ってばかりだった。父さんが仕事に身が入らなくなってからは、学校にも行けなくなったんだ。先生に読み書きを教えてもらう代わりに、父さんから罵詈雑言を教えられた。“お前なんて生まれてこなくてもよかった”、“母さんが死んだのはお前のせいだ”。ここまで言われると逆に今までの生活が嘘みたいに思えたよ。アタシ達は母さんが死ぬまで、“家族ごっこ”をやってたってな。でも、家族ごっこも役者が揃わなければ終わりだ。母さんがいなくなってからは、生活がどんどん苦しくなった。父さんも仕事に行かず家にいることが多かったよ。そんなある日、アタシはいつも通り買い物から帰ってきた。父さんに殴られる覚悟で居間に行ったけど、その心配はなかった。居間には天井から垂れ下がるロープに吊された父さんがいたんだ。骨と皮だけになった腕をだらりと垂らしてな。アタシは驚きのあまり、買い物で買ってきた牛乳を落とした。父さんの足下には、数字がたくさん入った書類が落ちていた。その意味は何だか分からなかったが、“ファイアー”と書いてある書類が嫌に目に付いたよ。父さんは首にロープが巻き付いたまま、空中で揺らいでいる。返事が返って来ない様子を見て、アタシは気づいた。自分は一人になってしまったと言うことをな。父さんからの暴力がないことにせいせいする前に、酷い喪失感が襲った。あの家族ごっこは確かにアタシの記憶にあったんだ。あの思い出は本当だった。いくら暴力を振られても、その思い出だけは忘れられなかったんだ。
しばらくして、警察がアタシと冷たくなった父さんを見つけた。警察はアタシの話なんか気にせずに、せっせと父さんの体を運んでいったんだ。その後、眼鏡をかけた神経質そうな女の人が、取り繕うような笑顔でアタシを迎えに着た。待ってたのは、あのつまらない施設での生活だったよ。アタシは今までの暮らしを忘れようと、集めた花の種をぜんぶゴミ箱に捨てた。父さんと同じブロンド色の髪を消すために、茶色に染めた。施設は狭いくせに、嫌に清潔な白い服を着た子供でいっぱいだったよ。アタシが遊ぶような物じゃない幼稚な遊具で、動物園みたいに子供達が騒いでいた。アタシは騒がしいのは嫌いだった。もちろん口うるさいヘザー院長も。だからアタシはいつも、施設の隅で寝ていた。寝ているときだけは、何もかも忘れられるから幸せだったよ。つまらない読み書きの授業も、がやがやうるさい休み時間も、これで乗り切れるからな。でも、時折そんな時間を邪魔する奴がいた。ある日、背のでかい小太りの子供がアタシに話しかけてきた。歩く様子が、まるで足の生えたドラム缶みたいだったな。ドラム缶小僧はアタシを指さして、“お前の父親は借金を背負って自殺したんだろ?”って言った。アタシはそれを聞くなり頭にきて、そいつの頭を殴ってやった。父さんを侮辱したから殴ったわけじゃない。ただ、アタシに余計な探りを入れたから腹が立ったんだ。ドラム缶小僧はアタシに殴られるなり、大泣きしてヘザー院長を呼んだ。その後は傑作だったよ。ヘザー院長はあのドラム缶小僧の言い分を鵜呑みにして、アタシだけを叱ったんだ。言い訳する気にもなれなかったよ。よかったな、ドラム缶。アタシを悪者にできて。おかげでアタシに誰も近づかなくなったよ。本当に独りぼっちだ。アイツが来るまでは。




