第5章:偽りの平穏
後輩親子に救われ、コーキング職人として少しずつ人間の心を取り戻し始めていた頃。長らく鉄格子の中にいた親父の出所が近づいていた。
親父の姉である叔母から「あいつが出てくる」と聞かされた俺は、正直に「今のアパート、ウジとハエだらけでぐちゃぐちゃだよ」と伝えた。すると、叔母と三人の従姉妹たちが総出で駆けつけてくれ、あの地獄のような部屋を必死に大掃除してくれたのだ。腐敗臭は漂白剤の匂いにかき消され、物理的な汚れは落ちたが、俺の心にこびりついたドロドロとした親への警戒心が消えることはなかった。
そんな折、俺を拾ってくれた後輩から「一緒にナンパに行きましょうよ」と誘いを受けた。
夜の街へ繰り出したものの、要領の良い後輩は早々にターゲットの女の子と意気投合して消え、俺はその女の子の「付き添いの友人」と二人きりで取り残されてしまった。
「……なんか、暇だねー」
手持ち無沙汰にそう声をかけたのが、のちに妻となる女性との出会いだった。取り残された者同士、妙に波長が合い、俺たちは自然と交際をスタートさせた。
ある時、ふと彼女の手帳が目に入ってしまったことがある。そこには、俺と付き合う前の無数の男たちの名前や、ラブホテルに行った記録が生々しく書き込まれていた。だが、当時の俺はそんな過去など全く気にならなかった。俺自身の背負っている泥水のような生い立ちに比べれば、他愛のないものに思えたし、何より俺は「愛し合える誰か」との繋がりに、ひどく飢えていたのだ。
やがて新しい命を授かり、俺は彼女の親へ挨拶に出向いた。
「お父さんは、何をされている方ですか?」
そう問われた時、俺は嘘をつく術を知らず「逮捕されています」と馬鹿正直に答えてしまった。当然、相手の親は顔を強張らせ、「ヤクザの子はヤクザだ!」と激しい拒絶の言葉を投げつけてきた。
時を同じくして、シャバに戻ってきた親父との軋轢も限界を迎えていた。
ある朝、些細な口論から、親父は実の息子である俺に向かって鋭い包丁の切っ先を突きつけてきたのだ。狂気に満ちた眼光。俺の中で、完全に糸が切れた。
「こんな狂った血の鎖、俺の代で完全に断ち切ってやる」
俺は身重の彼女の腕を引き、その日のうちに家を飛び出した。親との、永遠の決別だった。
無事に長女が誕生し、周囲からのプレッシャーもあってすぐに二人目となる長男を授かる。俺は家族を食わせるため、ある工場で期間従業員として文字通り汗水流して働き続けた。
不安定な立場から抜け出し、家族のためにどうしても正社員の座を掴み取りたい。その一心で、泥のように疲れた身体に鞭打って必死に勉強を重ね、登用試験に挑んだ。だが、結果は無情にも「不合格」。現実はどこまでも俺に対して容赦がなかった。
そんな失意のどん底で唇を噛み締めていた時、救いの手を差し伸べてくれたのが妻の叔父だった。
彼の紹介により、俺は「アイシングループ」の子会社という、誰もが認める安定した居場所へと中途採用で滑り込むことができたのだ。そこからはさらにがむしゃらに働き、ついに待望のマイホームも手に入れた。
暴力も、ウジ虫も、搾取もない。正社員への挫折すらも乗り越え、俺は自分の両足と腕力だけで、真っ当な「家庭」という名の城を築き上げたのだ。
しかし、呪われた血はなおも背後へ忍び寄ってくる。
縁を切ったはずの親父は、相変わらず底なしのクズだった。あろうことか、自分が交際していた女性の息子の彼女――まだ未成年の少女と肉体関係を持ち、妊娠させたのだ。
浮気を疑った親父の凄惨なDVにより、少女が通報。サイレンを鳴らして駆けつけた警察に追い詰められたあの男は、逃げ場を失い、アパートの3階から無様に身を投げた。
仕事中の携帯に病院から電話が入り、駆けつけた先には、複雑骨折をして意識を失っている惨めな姿があった。
事情を知った俺は、被害者である未成年の少女の両親の元へたった一人で出向き、冷たい床に額を擦り付けて土下座した。ヤクザの子と罵られようが、どれだけ惨めだろうが、頭を下げなければならない理由があった。
実父への未練などない。ただ、自分の子供たちにとって、あいつは血の繋がった「たった一人のおじいちゃん」だったからだ。自分が親から与えられなかった「普通の家族の形」を、我が子にだけは残してやりたい――。その切実な親心だけが、俺を冷たい地面へと這いつくばらせたのだ。
必死の謝罪はなんとか受け入れられた。だが後日、あの男が一番下の弟に対し「お前の子ということにしてくれ」と身代わりを懇願していた事実を知る。自らの卑劣な罪を再び息子に被せようとする底なしの業の深さに、深い戦慄と絶望を覚え、今度こそ完全に心を閉ざした。
それでも、俺の築いた城だけは盤石だと信じていた。
理不尽な血の鎖は俺の代で断ち切り、家族という名の平穏を手に入れたはずだったのだ。




