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第4章:崩壊する「家」と生き残る者

定時制高校に自ら見切りをつけた俺は、本格的に社会の泥水の中へ身を投じた。

まずはペンキ屋の職人として働き始め、その後、親父からの強引な引き抜きに遭い、中国人経営の足場屋へと籍を移す。過酷な肉体労働で日銭を稼ぐ日々。その頃、義母の腹の中には三人目となる新しい命が宿り、家の中は相変わらず歪な空気に包まれていた。

だが、暴走を続ける親父の狂気は、ついに取り返しのつかない臨界点を突破する。

発端は、注射器の空が入ったバッグを名古屋の街で落としたことだった。あろうことかあの男は、自分の従兄弟を身代わりに仕立て上げて警察に逮捕させるという、悪逆非道な手段でその場を凌いだのだ。

しかし、そんな外道な振る舞いが長く続くはずもない。破滅の瞬間は、唐突に訪れた。

ある日、親父は自分の悪友と共に、義母の職場の同僚女性をホテルへと連れ込んだ。そして密室の中で、その女性に無理やり覚醒剤を打ち込み、自分たちもシャブをキメた上で、二人がかりで肉体関係を強いるという鬼畜の所業に及んだのだ。

恐怖と錯乱の中、隙を見てトイレに逃げ込んだ女性が、震える声で警察へ「110番」を回した。ホテルから出てきたところを、包囲していた捜査員たちに踏み込まれ、男たちはあえなく現行犯逮捕された。一人の女性の勇気ある通報による、あまりにも惨めで醜い幕切れだった。

だが、俺がその逮捕の事実を知らされたのは、事件から丸一週間も経った後のことだった。

知らせを聞いた瞬間、激しい怒りに任せて所轄の警察署へと単身乗り込んだ。

「なんで逮捕したその日に、すぐ家族へ連絡を寄越さねえんだよ!!」

取調室の壁が震えるほどの声で、刑事たちを怒鳴りつけた。親父が捕まったことへの悲しみなど微塵もない。俺がキレた理由は、ただ一つ――腹に子供を宿した義母が、帰ってこない夫を案じて、この一週間ずっと泣きながら心配していたからだ。

幼い頃から俺を殴り、散々虐待してきた憎き女。それでも、不安に怯える身重の義母の姿を放っておけなかった。自分でも理解できない、血の呪縛と複雑な情の交錯。それが当時の俺の、不器用すぎる「家族へのケジメ」だった。

親父という絶対的な独裁者を失った家は、あっけなく瓦解した。

逮捕から間もなく、義母は二人の幼い弟たちを連れて、逃げるように栃木へと去っていった。かつては祖父母も含め、七人もの人間がひしめき合っていた3DKの古いアパート。そこに残されたのは、行き場のない俺ただ一人となった。

それは、真の「孤独」と「極貧」の始まりだった。

未成年の俺には、家賃の払い方も、光熱費の手続きすらもわからない。そもそも名義すら自分のものではなかった。見かねた長崎の祖母が家賃だけは援助してくれたものの、電気、ガス、水道といったすべてのライフラインは容赦なく止められた。

夜になれば、自分の指先すら見えないほどの漆黒の闇が訪れる。

水が出ないトイレには、排泄物の悪臭とともに黒光りするハエが大量に湧き、飛び交う羽音が静寂の部屋に不気味に響き渡った。電気の切れた冷蔵庫の中では、腐敗した食材からおびただしい数のウジ虫が這い出し、白い蠢きとなって庫内を覆い尽くしている。吐き気を催すほどの腐臭と不衛生の極み。まるでこのアパート全体が、一つの巨大な死骸になってしまったかのようだった。風呂に入る金すらなく、一週間に一度だけ、握りしめた小銭で近所の銭湯へ駆け込むのが唯一の「人間らしい」時間だった。

さらに、崩壊した家の周囲には、死臭を嗅ぎつけたハイエナたちが群がってくる。

ある夜、暗闇に沈むアパートの前に、黒塗りの高級車が何台も列をなして横付けされた。降りてきたのは、親父と繋がりのあったヤクザや右翼といった、裏社会の素性知れぬ男たちだ。

「親父を出せ」

凄みのある低い声で脅しをかけてくる男たちに対し、俺はただ一人、玄関の前に立ちはだかった。

「パクられてるから、ここにはいねえよ」

冷たく、一切の感情を交えずに追い返す。彼らからの「俺たちのところで働かないか」という甘く危険な誘惑も、すべてその場で叩き切った。ここで頷けば、親父と同じ泥沼の底へ引きずり込まれる。それだけは本能が拒絶していた。

ウジとハエが支配する密室で、底なしの飢餓感と戦いながら、ただ生ける屍のように息を潜める日々。このまま誰にも気づかれず、ゴミのように腐って死んでいくのか――。

そんな絶望が脳裏をよぎり始めた矢先、思いもよらない一筋の光が差し込んだ。

泥沼から俺をすくい上げてくれたのは、かつて中学校で不良の「No.2」として暴れ回っていた俺に、密かに憧れの眼差しを向けていた一人の後輩だった。

俺の凄惨な窮状を聞きつけた彼は、実の母親と共にあの地獄のようなアパートへ駆けつけ、迷うことなく俺を連れ出してくれたのだ。

後輩の実家に足を踏み入れた瞬間、鼻先をくすぐったのは「生活の匂い」だった。

腐敗臭でも、ヤクザの安い香水でもない。温かい飯の湯気と、清潔な柔軟剤がふわりと香る、生まれてからずっと知らなかった「普通の家庭」の匂い。

「家賃なんて、絶対にいらないからね。気にせずここにいなさい」

後輩の母親は、ボロボロに痩せこけた顔を真っ直ぐに見つめ、そう言い切った。

彼女は血の繋がりなど一切ない、ただの「息子の先輩」でしかない俺を、まるで本当の我が子のように迎え入れてくれたのだ。温かい風呂を用意し、まともな食事をテーブルに並べ、背負ってきたおぞましい過去を詮索することも哀れむこともしない。ただ、一人の人間としてそこに居ることを許してくれた。

生みの母は3歳で消え、義母からは搾取され続けた俺にとって、この見ず知らずの女性から無償で与えられた愛情は、氷のように固く閉ざされていた心を確実に溶かしていった。

彼女への恩義に報いるため、俺は後輩と共に「コーキング屋」に就職し、職人としての新たな道を歩み始めた。

建物の隙間をシーリング材で埋め、雨風から守る緻密な作業。手や作業着にはゴムのような特有の匂いがべったりと染み付いたが、あの部屋の悪臭に比べれば、それは間違いなく「希望」と「再生」の匂いだった。

親から愛されず、人間不信の底に沈んでいた俺は、この親子との出会いによって、かろうじて「人間としての温もり」を取り戻すことができた。血の繋がりなど、呪いでしかない。本当の家族とは、無条件に守り、守られる存在なのだと、この時初めて魂の底から理解したのだった。

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