第2章:抗いと堕落の境界線
※本章には一部強い描写が含まれます。
父が刑務所の分厚い壁の向こうへ消えた後も、この家に平穏が訪れることはなかった。
いや、むしろ事態はより陰湿な地獄へと変貌を遂げていた。
親父が逮捕される前後、義母は立て続けに二人の男の子を出産していた。俺とは7つ、8つ歳の離れた、彼女の「本当の子供たち」である。
腹を痛めて産んだ我が子が誕生したことで、義母の俺に対する憎悪は決定的なものとなった。自分と血の繋がった愛息たちと、憎き夫が別の女に産ませた目障りな連れ子。家の中には明確なカーストが築き上げられ、俺は完全に「異物」として扱われるようになった。
同居する祖父母の前でだけ、義母は「二人の乳飲み子を抱える可哀想で優しい母親」の完璧な仮面を被っていた。しかし、その裏で彼女の陰湿な本性は俺だけに向けられる。正月になれば、親戚から貰ったばかりのなけなしのお年玉を「貸して」と有無を言わさずに強奪した。逆らえばどうなるか、幼い脳に恐怖がすり込まれている。祖父母の目は完全に誤魔化されており、俺のSOSが届くことはなかった。
小学5年の記憶は、生温かい鉄の味がする。
ある日、義母の容赦ない拳が俺の顔面を的確に捉えた。ゴキッという骨の鳴る音とともに鼻梁からおびただしい鮮血が噴き出し、冷たい床へボタボタと滴り落ちる。赤く染まった視界の中で、自分を守ってくれる大人などこの世界には一人も存在しないのだと、少年は骨の髄まで理解させられていた。
救いのないまま季節は無情に巡り、中学生への階段を上る。
だが、そこには「母」と呼ぶことを強要された女からの、さらにねじ曲がった悪意が待っていた。義母が俺にわざと買い与えたのは、あろうことか「女性用の体育館シューズ」だった。
それは、家の中だけでなく、外の世界でも俺を孤立させようとする残酷な呪い。体育館の床で不快なゴムの摩擦音を鳴らすその異物は、瞬く間に同級生たちの嘲笑の的となった。
惨めなイジメの標的にされる日々。大切な友人との数少ない繋がりだったポケベルは床に叩きつけられ、無残なプラスチックの破片となって絶望と共に散らばった。
惨めさと悔しさで顔を歪め、涙を流しながら帰った中学1年の終わり。重い玄関の扉を開けた俺の前に、一人の男が立っていた。
刑期を終え、シャバの空気を纏った父だった。
大人になってから父本人から聞いた話だが、出所して真っ先に向かったのはラブホテルだったという。義母と二人で再会を祝うように覚醒剤を打ち、狂ったように交尾を繰り返してから帰ってきたのだ。
泣きじゃくる息子の姿を見た父は、慰めるどころか、薬の抜けきらないギラついた眼光で凄んだ。
「明日やり返して来なかったら、俺がお前を殺す」
有無を言わさずパイプ椅子に座らされ、頭からツンとした刺激臭のするブリーチ剤をぶちまけられる。冷たいカミソリの刃が肌を滑り、鋭く剃り込みを入れられた眉。与えられたのは、ダボダボのボンタンと丈の短い短ラン。鏡の前に立たされたのは、昨日までの怯えた少年ではなく、大人たちの手で人工的に作り出された「凶犬」だった。
翌日、俺は言われた通りに反撃に出た。自分を嘲笑っていた者たちを力でねじ伏せ、相手の顔が恐怖に歪んだその瞬間、いじめられっ子だった過去は完全に死に絶えた。暴力という麻薬の味を覚え、やがて不良たちの「No.2」へと上り詰めていく。
しかし、暴力の連鎖は容易にコントロールを失う。
中学3年の抗争。自分が手を下した後に、血に飢えた仲間たちが相手を徹底的に袋叩きにし、全治3ヶ月の重傷を負わせる集団リンチ事件へ発展したのだ。事態は少年課の範疇を越え、警察の「暴力団対策課」が動く事態となった。
激怒した父の怒号が響く中、祖母がどこからか札束を積んで示談を成立させ、かろうじて少年院行きだけは免れた。
だが、日常はすでに真っ黒な裏社会と隣り合わせになっていた。
父の知人によって、毎週のようにヤクザが経営する風俗の事務所へと連行される。紫煙が燻り、安い香水の匂いが充満する部屋で、組長から「将来はうちに入れ」とドスを利かせた声でスカウトされた。それでも、俺は決して首を縦には振らず「否」と突っぱね続けた。それだけが、自分の中に残された最後の矜持だった。
そして迎えた、中学卒業の日。
人生の節目を祝うはずのその日、俺は父から古びたアパートの狭い便所に呼び出された。
「腕をめくって、目を瞑れ」
その声に逆らうことはできなかった。直後、腕の静脈に走った「チクッ」という鋭利な痛み。途端に視界がぐにゃりと歪み、脳髄がぐらぐらと揺れ、足元の重力が消失していく。薬品がもたらす強制的な酩酊状態。
意識が混濁する中、引きずり込まれた先は父の部屋だった。
ピントの合わない視界の先にいたのは、生々しい下着姿の義母。自分を生んだ男と、自分を血まみれにした女。大人たちが作り出した最狂の密室で、少年は決定的な尊厳を奪われた。親からの性的虐待という、逃げ場のない泥濘。卒業という晴れやかな言葉とは裏腹に、俺の魂は最も深く、暗い奈落の底へと沈んでいった。
家という空間は、もはや完全にスラムと化していた。
バイトでクタクタになって帰宅すると、白昼堂々、俺の部屋から獣のような荒い息遣いが聞こえてくることがあった。親父と義母が、息子のベッドで性行為に耽っているのだ。プライバシーも尊厳も、そこには微塵も存在しない。
そして、俺が中学を卒業して半年から1年が経った頃。
被爆者であった祖父は、体調のこともあり、祖母と共に故郷である長崎へと帰っていった。
それは、この狂った家を繋ぎ止めていた「まともな家族の形」という最後のストッパーが外れた瞬間だった。残されたのは、薬と暴力と性欲に塗れた大人二人と、彼らの血を引く幼い兄弟、そして行き場を失った俺だけ。
境界線は、とっくに越えていた。堕落に満ちた本当の闇夜が、ここから口を開けようとしていた。




