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第1章:理不尽の幕開け

この物語は、私自身の過去をもとに書いています。

暴力や家庭環境に関する描写がありますので、苦手な方はご注意ください。

1984年11月18日。愛知の空っ風が吹き荒れる中、ひとつの命が産声を上げた。

記憶の最も古い地層にへばりついている原風景は、長崎・高島の景色だ。鼻腔を突くツンとした潮の香りと、どこか焦げたような石炭の匂い。しかし、炭鉱の閉山という時代の波が、ささやかな日常を無残に飲み込んだ。わずか3歳で再び故郷の土を踏んだ時、俺の手を引くはずの「生みの母」の温もりは、すでに幻のように消え失せていた。

「あいつが悪いんだ」

誰に向けて放たれたものかもわからない、トゲのある非難のひそひそ話。この古い家には祖父と祖母も同居していたというのに、俺を庇う大人は誰一人として存在しなかった。血の繋がった家族がすぐ壁の向こうにいるにもかかわらず、俺は完全に孤立していた。冷たいざわめきだけが、暗い部屋の隅で膝を抱える幼い耳にねっとりとこびりつく。理由も告げられぬまま、世界から「絶対的な愛情」という土台が音を立てて崩れ去っていった。

俺が産まれた時、親父はまだ17歳の子供だった。親としての責任など知る由もない、ただ腕力で周囲をねじ伏せようとする未熟な暴君。

そして小学校の入学式を迎える頃、不気味なほど唐突に「新しい母親」が家にやってきた。実父の元恋人の妹――口にするだけでも反吐が出るような歪みきった関係性の女。当時、義母はわずか20歳の小娘だった。まともな家庭の安らぎなど、この家のどこを探しても見当たらなかった。

唯一の逃げ場であるはずの学校でさえ、容赦なく牙を剥く。

小学1年の朝礼。たった一度、宿題を忘れただけだった。担任だった女の先生の、甲高いヒステリックな声が響く。その細く冷たい指に腕を強く掴まれると、全校生徒が見上げる朝礼台の上へとズルズルと引きずり出された。マイクを通してグラウンドに響き渡る叱責。何百もの無機質な視線が、無数の矢のように小さな身体を一斉に射抜く。頭が真っ白になり、逃げ場のない羞恥に唇を強く噛み締めた。

だが、そんな出来事すら、これから始まる「本物の地獄」の、生ぬるい序章に過ぎなかった。

真の脅威は、重たい玄関の扉を閉めた内側にこそ潜んでいる。

来る日も来る日も、ただ恐ろしかった。日が暮れ始めると、胃の奥が鉛を飲んだように重くなる。

『ブォォォォン……ッ!』

遠くから夜の空気を切り裂いて響いてくる、親父のバイクの排気音。その低い音が鼓膜を揺らした瞬間、小さな身体はビクビクと制御不能なほど震え出した。「今日は何をされるのか」「いつか本当に、殺されるんじゃないか」という切実な死の気配。

エンジン音に凍りついていたのは俺だけではない。義母の顔からも、スッと血の気が引くのがわかった。

家を支配する男は、息子だけでなく、新しい妻にも容赦なく拳を振るっていたのだ。密室の奥で響く、肉を打つ鈍い音と女の悲鳴。

夫から受ける暴力への恐怖と屈辱は、逃げ場のない空間で真っ黒なヘドロのように彼女の腹の底に溜まり、やがて最も弱く抵抗できない存在――つまり俺へと、さらに陰湿な刃となって向けられた。同居する祖父母は、見て見ぬふりをするばかりだ。

ドカッ、ドカッという怒気を孕んだ足音が一直線に向かってきたかと思うと、次の瞬間には胸ぐらを掴まれて宙に浮く。

「ガッ……!」

コンクリートの土間へ容赦なく叩きつけられる。背中から脳天へ突き抜ける痛撃。肺から強制的に空気が搾り出され、ヒュー、ヒューと喉が鳴るだけで、まったく息ができない。

ある夜は、怒声と共に親父の太い腕が振り抜かれた。風切音の直後――「ボコッ!!」という鈍い打撃音と、『ガシャァァァァン!!』というけたたましい破砕音が同時に響き渡った。

力任せに投げつけられた陶器のマグカップが、俺の頭部にまともに激突して砕け散ったのだ。生温かい液体が額を伝い、視界がドクドクと赤く染まっていく。頭蓋に深く刻まれた「3針の縫い跡」。それは、俺の人生に焼き付けられた、決して消えることのない理不尽の烙印だ。

またある時は、食事中、突然頭上から「バシャッ!」と熱を帯びたラーメンの汁がドンブリごとぶちまけられた。ドロリとした麺の不快な感触、鼻を突く油の強烈な匂いが、髪から顔、服へとべったりとへばりつく。グツグツと煮えたぎるような屈辱。奇跡的に重度の火傷こそ免れたものの、見下ろされる俺の幼い魂は、確実に黒焦げに焼かれていた。

小学2年の時。「キキィィィッ!!」という不快なブレーキ音と共に、交通事故の硬い衝撃が小さな身体を大きく弾き飛ばした。アスファルトに転がり、全身が軋むような痛みに襲われる。

だが、運命の歯車は、さらに狂気じみた金属音を立てて暴走を始めていた。

時を同じくして、あの暴君はこの家から引きずり出された。

実は、親父が逮捕された瞬間の記憶は、俺の頭の中にほとんど残っていない。ひどく曖昧で、濃い霧がかかったようにもやがかかっている。あまりの異常事態に、幼い脳が限界を超えて自動的にシャットダウンしてしまったのだろう。

ただ、障子越しに不自然なほど赤く点滅していたパトカーのランプと、見知らぬ大人たちの慌ただしい足音、そして怒号だけが、断片的な映像として脳裏に焼き付いている。

後になって、その夜の事件が地方新聞の三面記事に載ったのだと大人たちから聞かされた。活字として社会に晒された男の罪名。それは――「殺人未遂」だった。

「ウゥゥゥゥ……」と不吉なサイレンの音だけを夜の闇へ残し、最大の元凶は鉄格子の中へと消えた。

主を失った家には、耳鳴りがするほどの異様な静寂が降りる。しかし、本当の安息など訪れるはずもない。

ふと視線を感じて振り返ると、暗がりの中で、残された義母の底知れない瞳が、じっとこちらを睨み据えていた。盾となるべき祖父母は相変わらず沈黙を保ったままだ。まるで、檻から放たれた次なる獲物を、その冷酷な目で確実に見定めるかのように――。

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