第12章:暁の轍(あかつきのわだち)
会社という組織の中で、上の人間が理不尽な要求を押し付けてきた時、俺は絶対に引かない。相手が直属の上司であろうと、間違っていることには真っ向から噛み付く。
服の下に隠れた向龍と般若は、決して他人を威嚇するための道具ではない。どんな不条理にも二度と屈しないという、俺自身への冷たい誓いだ。あの狂った親父から植え付けられた「恐怖を知らない牙」は、今や外の世界で理不尽を噛み砕くための最強の武器になっていた。
だが、一歩自分の家に入れば、その鋭い牙は完全に消え去る。
玄関のドアを開けた瞬間、三匹の愛犬たちがちぎれんばかりに尻尾を振って駆け寄ってくる。十一歳になる白いチワワのルイ、十歳の黒のラン、そしてまだ一歳のトイプードルのモカ。俺の足元で無邪気に跳ね回るこいつらの小さな体温に触れるとき、張り詰めていた神経がゆっくりと解けていくのがわかる。
誰も俺の顔色を窺って怯えたりはしない。そこにあるのは、無条件の愛情と穏やかな時間だけだ。
俺は家の中では、絶対に偉そうな態度はとらない。
俺と同じように、いや、時には俺以上に理不尽な環境で必死に戦い、身を粉にして働いてくれている妻を心から尊敬している。だから、時間が合えば俺が台所に立ってご飯を作り、掃除機もかける。それは義務でも手伝いでもなく、夫婦として当たり前の「対等」な関係の証だ。
かつて俺が育った家は、親父の絶対的な暴力と恐怖によって支配されていた。女や子供を威圧し、ふんぞり返ることでしか自分のちっぽけなプライドを保てない、哀れで滑稽な生き物。俺は、あの化け物のようには絶対に成り下がらない。今の俺にとって、エプロンを締めて家族の飯を作る時間は、あの過去に対する何よりの勝利宣言でもあった。
俺たちには、五人の子供がいる。
妻が女手一つで育ててきた三人の子供たち。双子の長女は、この四月から飲食店の店長として重責を背負い、新しいスタートを切った。双子の次女は大阪へ渡り、ガールズバーで働きながら自分の足でしぶとく立とうとしている。一番下の息子は、バイトで汗を流しながら、本当に自分のやりたい仕事を探している最中だ。
そして、俺の血を分けた実の子供たち。息子はダクト屋として現場の埃にまみれながら懸命に働き、娘もバイトをしながら自分の人生を生きている。
合計五人の子供たち。血の繋がりがあろうとなかろうと、俺にとっては等しく愛おしく、気にかかる存在だ。
だが、俺はあいつらの人生に無理に干渉するつもりはない。親父のように、子供を自分の見栄や都合の道具にするなど論外だ。
あいつらが自分で選んだ道なら、転んでも、遠回りしても、ただ黙って背中を見守る。そして、もしも本当に理不尽な悪意に晒され、助けを求めてきた時だけは、俺がこの『牙』を使って全力で防波堤になる。それが、俺の父親としての覚悟だ。
休みの日は、ホームジムで冷たい鉄の重みを感じながら限界まで筋肉を追い込む。庭に出れば、土の匂いを深く吸い込み、土壌改良に汗を流す。そして、自分の部屋にこもり、ミニ四駆のモーター音とギアの噛み合う音にただ静かに没頭する。
誰かに理不尽に怒鳴られることも、怯えることもない。自分の好きなものだけに囲まれたこの空間は、俺が地獄の底から這い上がり、自分の手で勝ち取った「本物の城」なのだ。
俺はもう、死ぬためではなく、生きるために呼吸をしている。
過去の血生臭い呪縛も、身を切るような裏切りも、激痛に耐えて背中に刻み込んだ刺青も。すべては、この穏やかな朝を迎えるための通過儀礼だったのだ。
夜はとうに明けた。
俺の背中の般若と向龍は、今日も静かに、俺が切り拓く暁の轍を見つめている。




