第11章:化け物との決別、狂気が遺した『牙』
二〇二五年三月二十八日。
冷たい雨が降りしきり、やがて鈍い曇り空へと変わっていったその日、俺たちは役所へ向かった。
入籍日をこの日に選んだのは、決してロマンチックな理由からではない。単純に年度末であり、子供たちが社会人になる前に戸籍の手続きを済ませておいた方が面倒くさくないという、極めて現実的な理由からだ。
無事に婚姻届が受理され、俺は隣を歩く彼女に向かって、少し照れ臭さを隠しながら口にした。
「これからは夫婦として、よろしくね」
これまでの壮絶な過去を思えば、どれほどの感動が押し寄せるかと思ったが――正直なところ、劇的な実感はまったく湧かなかった。思わず、隣で笑う妻を見て俺も苦笑してしまった。
それもそのはずだ。籍を入れるずっと前から、この五年間、妻からも子供たちからも、俺は当たり前のように「パパ」と呼ばれ続けていたのだから。
借金まみれの俺を救うため、文字通り命を削って貯めた五百万円を無償で差し出してくれた彼女。俺たちはとうの昔に、誰よりも強い絆で結ばれた『家族』だった。
俺の身体に刻まれた、正面を睨む向龍と、背中一面で情念を燃やす般若。それはもはや死を待つための墓標ではなく、この純粋で温かい家族を、理不尽な世界から命懸けで守り抜くための「決意の鎧」へと変わっていた。
だが、俺の血に巣食う連中は、最後まで俺の神経を逆撫でし続けた。
その筆頭が、実の父親だ。
そして迎えた、俺の四十一歳の誕生日。親父が音頭を取り、誕生日会が開かれた。
二人の弟と親父の姉、そして親父を含めた四人で一万五千円ずつを出し合い、総額六万円で立派なプレゼントを用意したという。手渡されたのは、丸に右三つ巴の家紋があしらわれたネクタイピンとカフスのセットだった。
「誕生日おめでとう」
そう言われて箱を開けた瞬間、異臭が鼻をついた。それは、親父の家特有のあの独特な匂いだった。
品物はどう見ても使い古されており、埃まみれで傷だらけ。かつて親父の家のタンスの上に飾られていたものと全く同じだ。しかも、納められていたのは紳士服のアオキの安価な箱。中身はシルバーの装飾品なのに、箱の奥には不自然に「オニキス」と記されている。
不審に思い、AIで相場を弾き出すと、その品は三万円程度の代物だった。親族から集めたはずの六万円の半分は、一体どこへ消えたのか。
後日、一番下の弟が親父の家を訪れた際、タンスの上に置かれていた光り輝く「新品」のネクタイピンを発見した。
「兄ちゃんのは新品だったの? 埃と傷だらけだったけど」
弟が問い詰めると、親父は拳を強く握り締めながら「当たり前だ」と言い放ったという。当然、誰もその言葉を信じていない。
親族から集めた金をくすね、使い古しを長男に押し付け、自分は真新しいものを手に入れる。
その事実を知った時、俺の中で何かが完全に冷え切った。怒りや悲しみではない。目の前にいるこの生き物は、ただ「人間の皮を被った化け物」なのだという、静かで決定的な諦観だった。
妻は血の繋がりもない俺のために五百万円という全財産を投げ出したというのに、血を分けた親父は、息子の誕生日すら自分の利益と見栄のダシに使うのだ。
欺瞞に満ちたネクタイピンは、二度と日の目を見ないよう深い場所に封印した。
そして心に、ひとつの冷たい誓いを立てた。
いつかこの化け物がこの世を去る日が来たなら。自分が喪主としてその場に立ち、これまで受けてきた全ての所業を会葬者の前で語り尽くしてやろう。式場を凍りつかせ、偽りの哀悼をぶち壊すこと。それが、血を分けた親に対する、せめてもの手向けだ。
親父を「化け物」と断じ、冷徹に葬儀での復讐を誓う一方で、俺の胸の奥底には、決して消し去ることのできない複雑な「感謝」が同居していた。
いじめの標的にされ、ただ泣いて帰るだけだったひ弱な少年時代。あのままなら、理不尽に押し潰されて一生を終えていたかもしれない。あの日、無理やり髪を染めさせ、特攻服まがいの学ランを着せ、「やり返してこい」と背中を蹴り飛ばした親父の暴力が、結果として俺の運命を大きく変えたのだ。
絶対的な恐怖による支配は、皮肉なことに俺へ「怖いもの知らず」という強靭な牙を与えた。
周囲からは時に「ヤクザみたいだ」と恐れられ、敬遠されることもある。しかし、その圧倒的な覇気と度胸は、今を生き抜くための最強の武器となっている。
会社組織の中で、上の人間が理不尽な要求を突きつけてきた時。それがたとえ社長であろうと、俺は一歩も引かずに堂々と噛み付く。相手の肩書きや権力など、自分がくぐり抜けてきた命がけの修羅場に比べれば、児戯に等しいからだ。
誰の顔色も伺わず、間違っているものは間違っていると真っ向から叩き潰す。あの狂気に満ちた親父から植え付けられた「牙」は、今や俺自身と、俺が大切に想う本物の家族を不条理から守り抜くための、最強の盾であり剣となっていた。
呪われた血は、その強靭な意志によって、確かな「生きる力」へと作り変えられたのだ。




