第11話
体を抱き上げようとされる感覚に目が覚めた。辺りはすっかり暗くなっていて、明かりの灯っていない大きな屋敷はなんだか不気味に見えた。脇の下に腕を通され、クマの上から降ろされる。足が地面とこすれて汚れる。持たされていた刀が地面に線を引く。視線を上げたら結月と目が合った。そして、脇の下に通されていた腕が外される。支えがなくなった私はそのまま地面に倒れる。
「起きたなら自分で歩け」
持っていた刀を取られ、早くしろとばかりにきつく睨まれる。私はダラダラと起き上がり、クマに目を向けた。それから手を振る。クマは軽く頭を下げたあと、私たちに背を向けて森の中へと消えていった。それを見届けてから私は結月に目を向けた。結月はすぐに私から目をそらし、屋敷に向かって歩き始めた。私もそのあとをゆっくりと歩く。
玄関に着くと、結月はその場で待っているように私に言って中に入っていった。玄関に灯る明かりをぼんやりと眺めていたら、結月が手拭いを持って戻ってきた。のちに知ったのだけれど、その手拭いはタオルと言うらしい。真っ白なタオルは濡れていて、結月に足を拭くように言われた。
玄関から入って少し高くなっている場所に腰を下ろし、右足の太ももに左足首を乗せる。左足の裏側を覗けば、指紋がわからないくらいに黒く汚れていた。濡れたタオルで足を強くゴシゴシと拭けば、痛みが走る。思わず眉間に皺が寄る。
「どうした」
手が止まった私の顔を結月が覗き込む。私は首を横に振るものの、結月は少しだけ汚れの落ちた足と私の顔を見比べて目を細め、深く息を吐き、私の前に移動して膝をついた。私の手からタオルを取り、私の足を優しく拭いていく。それでも足の裏に痛みが走って、眉間に皺がよる。
ある程度汚れが落ちたところで、結月はタオルを隅に起いて私に背を向けた。首を傾げる私に乗れという。私が首に手を回して結月の背に体重を預けると、結月は私のお尻の下に手を回して前に転びそうになりながらも立ち上がる。そして長い廊下を歩いて風呂場へと向かった。
風呂場に着くと身ぐるみ剥がされ、浴場へ放り出された。着物の裾をたくし上げ、袖を手ぬぐいを使って捲った結月も中へと入ってきた。
結月は風呂場にある低い椅子に私に座るように言うと、蛇口を捻り、私に思いっきりお湯をかけた。私が飛び上がって逃げようとすると肩を掴んで押さえつけてくる。私は仕方なくきつく目を閉じ、水がしみて足の裏がヒリヒリするのを我慢して大人しく座る。
髪をよくお湯で洗い流され、お父様がくださった石鹸を泡立て頭をグリグリと痛いくらいに押されながら洗われる。髪の泡を落とすと、今度は手ぬぐいを泡立て、ゴシゴシと肌が赤くなるんじゃないかって思えるほどの強さで洗われた。足の裏はさすがにそんな風に扱われなかったけど……
全ての泡を落とし終わると、結月は今度、私を湯船に放り込んだ。一度沈んだ私が水面から顔を出すと、結月は胸の前で腕を組み、私を見下ろしていた。
「これに懲りたら二度と裸足で出歩くな。クマにも乗るんじゃない。いいな?」
私がポカンとしていると結月は念を押してきた。その迫力に何度も頷く。結月はそれを見ると、不機嫌そうに鼻を鳴らして風呂場から出て行った。
怪我をするから裸足で歩いちゃ駄目なのはわかったけど、どうしてクマに乗っちゃ駄目なんだろ。確かに毛が硬くてチクチクしたけど、自分で歩くよりずっと速いし、乗ってるだけだから疲れなくて楽なのに。
湯船の縁に背を預け、足を伸ばして天井を見上げる。正方形の黒く綺麗な石が一面を覆っていた。そういえば、水の祖父様のお屋敷では、風呂場の天井は青い石で覆われていた。炎の祖母様の家はお屋敷は赤い石で覆われているのだろうか。……お風呂に入るだけで疲れそう。
目を閉じてゆっくりとして浸かっていたら、どうやらそのまま寝てしまったようで、また結月に怒られた。
その日以降、私は何をするのも禁じられていたので、することもなく与えられた部屋でひたすらゴロゴロしていた。数日して、結月が普段は何をしているのだと聞いてきたので、ありのままに答えたらすごく深い溜め息を吐かれた。それから少しは動けと小言を言われた。
ちゃんと動かないとどうなるかすごーく長く結月に説明されるのも嫌なので、翌日は外に出てみた。数日ぶりの直射日光がとても眩しい。動きやすいようにと袴というものを結月が用意してくれた。森に来た時に履いていた草履とは違い、ブーツというものも履かせてもらった。全然知らなかったのだけれど、お父様や水の祖父様が食料や衣類などを準備して、数日おきに森の入り口に置いていってくれているらしい。それを結月が取りに行っていたらしい。その中にこの服が入っていたそうだ。
……本当に全然知らなかった。言ってくれれば私も取りに行ったのに。そう言ったら、荷物を持って怪我されたり迷子になられては余計に面倒だ、と。荷物くらい持ったくらいじゃ怪我しないのに……たぶん。
外に出たところですることもないし、どうしようかとうろうろしていると、草むらから音がして黒いリスが顔を見せた。リスは私と目が合うと一度首を傾げ、そのあと私に近づいてきた。私の足元でちょろちょろとしたあと、ブーツの上に乗って、袴の裾を口ではさんで引っ張る。そしてブーツから降り、森に向かって歩き出して数歩進んでは私の方に振り返る。私はそのあとを追った。
リスはしばらく行ったところで足を止めた。その上には大きな葉を持つツル。葉の陰に、小さな赤紫色の実がいくつもまとまって、たくさん垂れ下がっている。リスは私の肩によじ登り、数回、鳴いた。耳元で鳴くものだから結構うるさい。私は赤紫色の実のまとまりの一番の部分に手を伸ばし、ツタを引っ張った。思っていたよりもツルが頑丈で、ツルが切れた瞬間に勢い余ってしりもちをついた。肩の上に乗っていたリスも吹っ飛んでいく。
私の元に戻ってきたリスが不機嫌そうに鳴く。うるさいので、先ほど採った房の一粒を取り、リスの口元に押し付けた。リスはそれを食らうと静かになった。私は立ち上がって、他の房も取る。途中途中で、リスが私の足元で鳴いて喧しいので、そのたびに一粒ずつ与えた。
両手がいっぱいになると、リスは私の足元から離れた。そして、来た時と同じように数歩進んでは振り返るを繰り返す。私はそのあとを追う。しばらくすると庭に戻った。洗濯物を干していた結月が私を見て目を見開く。
「どうしたんだ、それ」
「教えてもらった」
私がリスを一瞥すると、結月もリスに視線を向ける。リスはどこか居心地が悪そうに見えた。結月は、そのリスに待つように言っておけ、と言って洗濯物をそのままに屋敷の中へ戻っていった。それを機に森の中に戻ろうとしたリスに、待って、と声をかけた。リスはぴょんっと跳ね上がったあと、身を小さくしてその場にとどまった。
少しして結月が戻ってきた。怯えているリスの前に膝をつくと、リスの前に右手を差し出した。結月の右手の上には小さく切られたリンゴが乗っている。リスはきょろきょろとしたあと、鼻を鳴らしてリンゴの匂いを嗅いだ。おそるおそるリンゴに前足を伸ばし、口に含む。それから、ねだるように結月に向かって鳴いた。結月が小さく笑って、左手から新しくリンゴのかけらを取り出した。リスはそれを数個食べると、差し出された手から顔をそらした。
結月は立ち上がり、私を手招きする。近づくと口を開けるように言われた。口を開けるとリンゴのかけらを放りこまれる。結月の手で少し温まっていたけれど、甘くて美味しいかった。
「狼嘉が世話になったな」
結月のその言葉を聞いてリスは森の中へ戻っていった。結月は私に採ってきた房は台所に持っていくように言われた。玄関まできて、両手が塞がっているためにブーツが脱げないことに気付いた。どうしたものかと玄関で立っていると、先に手を洗うために屋敷の中に入っていった結月が戻ってきて、呆れた顔をしていた。
「一度、置けばいいだろう」
「あ」
阿保、と言われ、私は両腕いっぱいの房を一度置き、ブーツを脱いだ。結月は洗濯物を干してくると再び外へ出て行った。私はやっとの思いでブーツを脱ぎ、房を抱えなおした。落とさないように気をつけながら台所へ移動し、空いている場所に房を置いた。
台所から出ようとすると結月が台所に入ってきた。そのまま出ていこうとする私に結月が待ったをかける。
「お前の採ってきた山ぶどうでジャムを作る。手伝え」
「いいの?」
「……何もさせないのは良くないと言われたからな」
後ろを向けと言われ、髪を金と銀の髪紐で高い位置で結われた。それから手を洗うように言われる。
手を洗ったあと、取ってきたやつ……山ぶどう?を房から外すように言われた。結月と一緒に房から外していく。やっぱり、結月の方が手際がよくて、結月の前にある実の取れた房がどんどんと山積みになっていく。
採ってきた全てを外すと、結月はその実を水で洗った。それから鍋にそれと水を入れ、火にかける。そこまですると、結月は小さな時計を引き出しの中から取り出し、少しいじって私に渡した。
「これが鳴ったら火を止めてくれ。それくらいならできるな?」
私は頷く。結月は片づけをしてくると言って台所から出て行った。私は渡された時計を眺める。普通の時計と違った針。しかも一本しかない。それは十の位置から徐々に零の方へ戻っていく。初めて見るそれをじっと眺めていると、は針が零を示したときに、時計が音を立てた。慌てて時計を手放し、火を止めた。
こぼさなかったことにほっとして息を吐く。少しして結月が戻ってきた。結月は手を洗うと、大きな鉢とそれと似た形のざるを取り出した。鉢はボウルというらしい。結月が教えてくれた。ボウルとざるを重ね、結月は鍋の中身をそこへ流し込んでいく。それから、私にすりこぎを渡す。
「左手でボウルを支えてすりつぶして」
言われるままに左手でボウルを支え、右手に持ったすりこぎで山ぶどうをすりつぶす。私がこぼしそうになると、右手の力を弱めるように言われた。それで弱めると、今度は弱すぎだと言われる。そんなやり取りを何度か繰り返し、結月にもういいと言われた。また呆れられたと思ったら、どうやら違うようで、結月はざるを取り外して、ざるに残った種と実を鍋に戻して水を入れ、火にかけた。それからまた小さな時計をいじって、また鳴ったら火を止めるように言われた。
さっきと同じようにじっと針を眺めていて、時計が鳴ったところで火を止めた。それから結月が戻ってきて、さっきのようにボウルとざるを重ねて鍋の中身をそこへ流し込んだ。それをさっきと同じようにすりつぶすように言われた。このすりつぶす作業をこすというらしい。
結月はその作業を止めると、今度はボウルの中身を鍋に戻した。そこに砂糖を加え、再び鍋に火をかける。
結月は木べらを取り出して、時々ゆっくりと混ぜる。やってみるかと聞かれたが、火にかかった鍋をこぼすわけにもいかないので首を横に振った。
暇で暇で堪らなくなったころに、結月が火を止めた。匙を取り出し、中身をすくって私に食べてみろと、その匙を向けた。私は匂いを嗅いで口を開けた。甘酸っぱい味が口の中に広がる。
「美味いか?」
「ん!」
「そうか」
結月は透明な容器を三つ出して、鍋の中身をそこに入れていく。入れ終わると蓋をきつく閉め、容器を逆さまに置いた。
「二つは辰貴様に渡そうと思う。いいか?」
「水の祖父様に?」
「いやか?」
とっても美味しかった。水の祖父様にも食べてもらえるなら食べてほしい。でも、水の祖父様、こんなの貰って困らないだろうか。
「……迷惑じゃない?」
結月は不思議そうな顔をし、それから少し考え込むように視線を下げた。それから、また私と目を合わせる。
「喜ぶんじゃないか」
「……じゃあ、いい」
お久しぶりです。更新が遅くて本当に申し訳ないです。
続きを書く気はあるのですが、次回がいつになるかはわかりませんので、本当に気長に待っていただければと思います。