『ランデンハント侯爵令嬢』の『献身』
ララ・サッチェル伯爵令嬢視点です。
「……少し、詰め込みすぎだと思うのです。これでは、何とか聞くので精一杯で私の身にならない気がして……」
それは、ポツリと漏らした少しの鬱憤だった。
丁寧に淹れられた紅茶に、多めの砂糖とミルクを足して。
王妃教育の合間のこの時間が私の癒しだ。
「詰め込みすぎ、ですか?」
そばに控えている侍女は、私の言葉に少しだけ首を傾けた。
「ハットソン女史はとても良い方よ?ーーー……私が、頑張らなくてはいけない事も分かってるの……。でも、もう少し猶予をくれても良いのでは、と思って」
私の王妃教育指導として呼ばれたハットソン女史はそれはもう、真面目な方だ。
冗談ひとつ言う隙もないその人を目の前に、夜まで続く授業は流石に息が詰まってしまう。
合間合間の休息時間がなければ耐えられない程に。
「ーーーそうでございますか」
予想外の答えだった。
てっきり、“貴女は頑張っていますよ”とか“確かに厳しすぎるかもしれませんね”などと言った肯定の返事が来ると思っていたから。
ちらりと侍女の顔を盗み見る。
穏やかな笑みに、けれどその目は酷く冷え切ったものだった。
分かっている。
私が快く迎え入れられる存在じゃない事くらい。
ーーーだけど、
「あの……分かっています。このくらい追い込まないとアデリア様に到底敵わない事くらい」
そう、アデリア・ランデンハント侯爵令嬢。
彼女はきっと、完璧だった。
「アデリア様は……王妃になるために生まれたかのように完璧だったものね」
彼女なら何でもそつなくこなせた。
たとえ、ライドとの間に愛などなくても。
ーーー私だって、まさか自分が、欲望を優先するような女だとは思わなかった。
ルースと結婚して、平和に、幸せに生きていくのだと信じて疑わなかった。
「ーーー……完璧、ですか」
鼻で笑うような、そんな言葉の落とし方だった。
「私、変なことを言った?」
「いえ、ただーーー人とは見たい所しか見ないのだな、と。アデリア様は決して生まれながらの王妃の品格があった訳ではございません。ここで、この王宮で10年かけてお作りになられたのですよ」
この人はアデリアが王宮に通っていた時には、彼女に付いていたと聞いている。
王妃様からの信頼も厚い侍女なのだ。
「……アデリア様が教わっていた方はハットソン女史よりも、厳しい方だったのですか?」
「厳しい……そうですね、前教師はアデリア様こそと思って随分と熱心に指導していらっしゃいましたから」
アデリア様こそ。つまり、前任者は私がライドの婚約者になったから、その職を辞してしまったのだ。
「ーーー私も、その方にお願いした方がいいと思いますか?」
私の問いに、侍女は一度深く礼をした。
「恐れながら。今のララ様では1日も持たないのでは」
ーーーハットソン女史で音を上げているようでは。
そんな言葉の続きが聞こえた気がした。
※
「お出かけなんて、久しぶりですね」
「そうだな、お互い忙しいものな。今日は楽しもう」
ライドと婚約してから半年程が経った。
王妃教育に煮詰まってしまった私を、ライドが街へと連れてきてくれたのだ。
「ライド様、ありがとうございます」
「いや、私も一息入れたかったから。それに、ララは本当に頑張ってくれているよ」
優しく細められた瞳。
この瞳に映るのが自分であることが何より嬉しかった。
「今日の舞台、すごく楽しみだったんです。絶対に公演中に観たいと思っていたから、ライド様と来られて嬉しい」
にこにことライドを見上げると、頭を優しく撫でられた。
ーーーああ、こんな穏やかな時間がずっと続けばいいのに。
劇場に着いて馬車から降りると少しばかりの雨が降り始めていた。
「あ、雨……」
「本降りにならないといいけどな」
ライドと会話をしながら劇場の特別席へと向かう。
舞台を上から見下ろせる、半個室のようになったそこはそれでも隣同士の声がかすかに響き合う。
本当は王族専用の席も用意されているのだが、私はこちらから見る舞台の方が好きだった。
「ライド様……「アデリア、腰の傷は痛まない?追加でクッションを持ってきてもらおうか?」
ふいに、隣から聞こえてきた声に驚き言葉を止めた。
それはライドも同じようで、声の聞こえてきた方に顔を向けている。
壁で区切られたそこは、相手の顔は見えない。
それでも私にはあの穏やかなルースの顔がありありと思い出せた。
ほんの小さい、こちらが会話を続けていれば気にも留めないだろう声量で。
だけれど、私とライドはその音に耳を澄ませてしまった。
「ありがとう、ルース様。けれど大丈夫ですわ。コルセットの要らないドレスを着るようになってから本当に痛みが減りましたのよ」
「だけど、痛みがない訳ではないんでしょう」
「まあ、少しは……。ルース様、お顔が凄いことになってますわ。本日は悪魔の役でご出演する予定だったのかしら?」
「そうだね……アデリア。俺は悪魔になってもいい。貴女に教育という名目で体罰を行なった相手を呪い殺してやりたい」
「ふふっ……私は死んだらルース様と一緒に天の国へ行きたいので、悪魔にはならないでくださいね。それに、あの教育も無駄にはしませんわ。公爵の妻として役立つ事も多いですから」
開演の合図の音が鳴る。
静かに笑い合う隣の気配に、先ほどの会話に、あんなに楽しみにしていた舞台の何もかもが遠く遠くなっていった。
教育、体罰、腰の傷。
ぐるぐるぐるぐると、頭の中でそれらの単語が動き回る。
『恐れながら、今のララ様では1日も持たないのでは』
『アデリア様は決して生まれながらの王妃の品格があった訳ではございません。ここで、この王宮で10年かけてお作りになられたのですよ』
侍女の声が頭に響く。
そしてーーーー。
『お2人はただ、ランデンハント侯爵令嬢の献身に報いてくだされば俺はそれで満足です』
ランデンハント侯爵令嬢の、献身。
思えば、その言葉をただ受け取って呑み込んだままだった。
ーーーこんな所で、私は何をしているの。
思わず立ち上がった私に、ライドが驚いたように顔を向ける。
その顔は先程まで聞いた会話を明確に理解していた。
あの日、あの夜会でやっぱりルースは優しいな、と思っていた。
私たちを認めてくれた、優しい幼馴染だと。
ーーー違う。
ルースは、怒っていたんだ。
とてもとても怒っていた。
それは、ランデンハント侯爵令嬢を想って。
私たちにーーー私に蔑ろにされた、彼女の人生を抱えて。
ルースはきっと、彼自身のこともまだ許してはいないんだろう。
そういう、人だった。
私が無下にした元婚約者は。
「帰って……帰って、学ばなくては」
手足に重たい鎖が巻き付いたみたいだ。
「ララ?」
ライド王子。私の大切な人。
「ライド様……私帰ります。帰って、少しでも早く身につけなくちゃ」
私の好きな人。
私の愛しい人。
「ララ?どうしたんだ?」
ーーーー将来、王になる、人。
どっと全身から汗が吹き出る。
そう、この人は王になる。
この国を、導き守る、王に。
ーーー私は?
私は、『王妃』になるんだ。
ライド。好きよ、貴方が大好き。
貴方の隣に立てるなんて夢みたいだと思っていた。
だけど、夢ばかり見ていては駄目なのだ。
私は『王妃』にならなくてはいけない。
どうしてその事を、もっと早く理解しなかったんだろう。
ずっと目の前にあった現実を、それでも夢物語のように感じていた。
涙が溢れそうになって、その時ハットソン女史の言葉が脳裏をよぎった。
王妃は、人前で涙を見せてはいけない。
人々を不安にしてはいけないから。
そうして強く目を瞑った中に浮かぶ理想は、アデリア・ランデンハント侯爵令嬢の姿をしている。
私は、そんな彼女から全てを奪ったのだという事に、情けないけどこの時になってようやく恐怖した。
全身が震える。
立っていられないほどに脚が震えるけれど、もうこの震えを止める為にライドに縋るのは許されない。
これは、私自身が抱えなくてはいけない重みだから。
早足で馬車に戻る私に戸惑いながらもライドは付いて来てくれた。
外の雨はその足を強め、窓を力強く叩いている。
「ーーー……ライド様は、知っていましたか?……ランデンハント侯爵令嬢が受けていたことを」
目の前に座る王子は顔を歪め、下唇を噛んだ。
「知らなかった……いや、知ろうともしなかった。気がつく機会はあった筈だ。私が、怠った」
後悔の滲む目。
けれど、私たちの懺悔はもう何も生まない。
この先、食いしばった歯が欠けたとしても私たちに下を向くことは許されない。
真っ直ぐに、前に座るライドを見る。
その顔には同じ覚悟が宿っている気がした。
「ライド様。私、王妃になります」
「ああ、私も王になろう」
手を取り合う。
お互いの冷えた熱が少しでも温まるように。
この先にどれだけの茨があろうとも、それによって至る所が傷つこうとも。
決してもう歩みは止めない。
ーーーそれが、私たちの選んだ道なのだ。
ーーーいつか、いつか、遠い未来でこの顔を逸らすことなくアデリアを見ることを許される日が来たならば。
もう、あの夜会の時のような情けない真似は二度としない。
ああ、それにしてもルースったら。
私にはあんなに甘い声で囁いたことはなかったのにね。




