29 全羅左水営【文禄の役-評価】
天正二十年(1592年)文月(7月)末――朝鮮水軍本営・全羅左水営。
夜明け前。
海はまだ暗く、空だけがわずかに白み始めている。
戦の直後とは思えぬほどに船団は静かだった。
火は最小限で声を発する者もない。
その中央の大船の甲板に一人立つ男。
李舜臣。
濡れた板の上に動かず立っている。
やがて背後から足音がすると一人の将が進み出た。
「昨夜の戦――」
言葉を選ぶように続ける。
「敵は巧みにございました」
李舜臣は答えない。
ただ海を見ている。
将はさらに言う。
「偽の港、囮、そして浅瀬への誘導。
いずれも……見事にございました」
一瞬の沈黙。
やがて。
「見事か」
李舜臣が静かに言った。
将ははっとする。
その声にはわずかな違和感があった。
李舜臣は続ける。
「半分だ」
将が顔を上げる。
「半分……とは?」
李舜臣は振り返った。
その目は冷静だった。
「策は良い。だが――」
一歩、歩み寄る。
「勝つ形になっていない」
その言葉は鋭かった。
将が言葉を失う。
李舜臣はさらに続ける。
「我らを"陸に上げる"ことができれば勝ち。そう考えたのだろう」
「だが――
間を置き
「それはできていない。ゆえに――未完だ」
静かだが断じた物言いだった。
将が問う。
「では……脅威ではありませぬか」
李舜臣は一瞬だけ考え、首を横に振った。
「違う」
その一言は重かった。
「脅威だ」
将の表情が引き締まる。
李舜臣は続ける。
「相手は理解しているのだ。
何が有利で、何が不利かを」
海を指す。
「海では戦わぬ。それを選んだ」
ゆっくりと頷く。
「正しい」
将が息を呑む。
李舜臣はさらに言った。
「そして――さらに我らを動かそうとしている」
わずかに目を細める。
「これは危うい」
将が問う。
「なぜ分かるのですか?」
李舜臣は答えた。
「戦場は、動かした者が支配する」
その言葉には重みがあった。
「昨夜。我らはわずかに動かされた」
将は思い出す。
浅瀬。
一瞬の停滞。
「……確かに」
李舜臣は頷いた。
「小さい。だが、初めてだ」
そして静かに言った。
「このまま育てば――面倒になる」
沈黙。
将が低く問う。
「何者が考えたか探らせますか?」
「いや」
即答。
「恐らく分かるまい。兵の足並みも揃っていなかった。
さほど地位のあるものが考え、指揮したのではあるまい」
続けて問う。
「では、今のうちに叩きますか」
李舜臣は首を振る。
「不要だ」
これも即答だった。
「急ぐ必要はない」
そのまま続ける。
「敵は、止まれぬ。運ばねばならぬ。
また間を置き
「いずれ、無理をする」
その言葉には確信があった。
「その時に断てばよい」
将が頷く。
だが、なお問う。
「では……あの将は」
少し間。
「どう見ますか」
李舜臣は海を見た。
そして――
短く答えた。
「良い将だ」
それだけだった。
だが。
それ以上の評価はなかった。
将が静かに頭を下げる。
「は」
李舜臣は最後に付け加えた。
「だが」
わずかな間。
「こちらを殺すにはまだ足りぬ」
夜が明ける。
海が青く染まり始める。
船団は静かに動き出す。
次の戦へ向けて。
その一方で、壱岐では永重が次の策を練っている。
互いに理解し始めた二人。
その距離は――縮まっているようで、まだ遠かった。




