33-3 丹波【命名】
産声が落ち着く頃には、室内の空気もすっかり和らいでいた。
先ほどまでの張り詰めた気配は消え、代わりに静かな安堵とぬくもりが満ちている。
産婆は手際よく後始末を終え、赤子を柔らかな布で丁寧に包み直した。
その動きには一切の無駄がなく、長年の経験が滲んでいた。
「よく泣く子じゃ。肺が強い」
満足げに頷く。
「名は、もう決めておられるか」
その問いに、永重は一瞬だけ雪乃を見た。
雪乃は微かに頷く。
「……松丸と」
永重は静かに告げた。
「ほう」
産婆の目がわずかに細まる。
「松、とな。冬を越えてもなお色褪せぬ木……よい名ですじゃ」
夕霧も嬉しそうに微笑む。
「この雪の朝に生まれた御子にまこと相応しゅうございます」
半佐は戸口の外でそのやり取りを聞いていたが、思わず顔を綻ばせた。
「松丸様……若殿の御幼名と同じ……」
「入ってもよいぞ」
永重が声を掛けると、半佐は「失礼いたします!」と頭を下げて中へ入った。
重兼と伊織も続いて入ってきて、顔を綻ばせながらも少し離れて黙って座る。
半佐は数歩進んだところでぴたりと足を止める。
視線の先――雪乃と、その傍らの小さな命。
「……」
半佐が言葉を失っていた。
「どうした、らしくもない」
永重がわずかに口元を緩める。
「いえ……」
半佐は頭をかきながら照れたように笑う。
「なんと言いますか……こう……」
言葉を探し、やがて小さく頷いた。
「守らねばならんものが増えましたな」
その言葉に、永重は静かに目を細めた。
「……ああ」
短い返答。
だが、それは重く確かな響きを持っていた。
産婆が松丸をそっと雪乃の傍に寝かせる。
「しばし、母の傍で休ませてやるとよい」
雪乃はゆっくりと腕を動かし、小さな体を包み込む。
ぎこちないながらも確かに母の手だった。
「松丸……」
その名を、初めて自分の声で呼ぶ。
赤子は泣き疲れたのか次第に静かになり、やがて小さな寝息を立て始めた。
その様子を見つめながら、雪乃の目に涙が滲む。
「……無事で、よかった……」
永重はその傍に膝をつく。
「其方もだ」
静かに言う。
「よくやった」
雪乃は微笑みながら目を閉じた。
張り詰めていたものが解け、深い疲れが押し寄せているのだろう。
「少しお休みなさいませ」
夕霧がそっと声をかけて、布を整える。
産婆は立ち上がり、永重に向き直った。
「今のところ心配はいらぬ。
だが、今夜までは気を抜かぬことじゃ」
「うむ。承知した」
永重は深く頭を下げた。
「半佐」
「はっ」
「礼を」
その一言で、半佐はすぐに察した。
「ははっ!」
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やがて産婆が帰る頃には、外の吹雪はすっかり収まっていた。
厚い雲の切れ間から淡い光が差し込み、白く覆われた庭を静かに照らしている。
半佐は門まで見送りに出ていた。
「本当に助かりました」
深々と頭を下げる。
「なに、これも務めじゃ」
産婆は軽く手を振ると、慣れた足取りで雪の道を戻っていく。
その背を見送りながら半佐は空を見上げた。
「……止みましたな」
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室内。
永重は再び雪乃と松丸のもとへ戻っていた。
静かな寝息がふたつ。
寄り添うように重なっている。
火鉢の炭が穏やかに赤く灯り、鉄瓶からは細く湯気が立ち上っていた。
その光景を永重はしばらく黙って見つめる。
やがて、そっと腰を下ろした。
指先で松丸の小さな手に触れる。
すると――
ぎゅ、と。
無意識にその指を握り返した。
「……」
永重の目がわずかに見開かれる。
そして、ふっと笑みがこぼれた。
「離さぬ、か」
かすかな声。
だが、その奥には確かな決意が宿っていた。
「ならば……こちらも離すまい」
外では、雪解けのしずくがぽたりぽたりと軒先から落ち始めていた。
厳しい冬の只中で生まれた命。
松丸。
その小さな手が掴んだものは、
ただの指ではない。
この家の未来であり、
守るべき時であり、
そして――新たに始まる日々そのものだった。
静かな光が、親子三人をやわらかく包み込んでいた。




