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【御礼20,000PV到達】戸侯記  作者: 和音
■第五章■

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33-3 丹波【命名】


産声(うぶごえ)が落ち着く頃には、室内の空気もすっかり和らいでいた。


先ほどまでの張り詰めた気配は消え、代わりに静かな安堵とぬくもりが満ちている。


産婆(さんば)は手際よく後始末を終え、赤子を柔らかな布で丁寧に包み直した。

その動きには一切の無駄がなく、長年の経験が滲んでいた。


「よく泣く子じゃ。肺が強い」

満足げに頷く。

「名は、もう決めておられるか」


その問いに、永重(ながしげ)は一瞬だけ雪乃(ゆきの)を見た。

雪乃は微かに頷く。


「……松丸(まつまる)と」

永重は静かに告げた。


「ほう」

産婆の目がわずかに細まる。

「松、とな。冬を越えてもなお色褪(いろあ)せぬ木……よい名ですじゃ」

夕霧(ゆうぎり)も嬉しそうに微笑む。

「この雪の朝に生まれた御子(みこ)にまこと相応しゅうございます」


半佐(はんざ)は戸口の外でそのやり取りを聞いていたが、思わず顔を綻ばせた。

「松丸様……若殿の御幼名と同じ……」


「入ってもよいぞ」

永重が声を掛けると、半佐は「失礼いたします!」と頭を下げて中へ入った。

重兼(しげかね)伊織(いおり)も続いて入ってきて、顔を綻ばせながらも少し離れて黙って座る。


半佐は数歩進んだところでぴたりと足を止める。

視線の先――雪乃と、その傍らの小さな命。


「……」

半佐が言葉を失っていた。


「どうした、らしくもない」

永重がわずかに口元を緩める。


「いえ……」

半佐は頭をかきながら照れたように笑う。

「なんと言いますか……こう……」

言葉を探し、やがて小さく頷いた。

「守らねばならんものが増えましたな」

その言葉に、永重は静かに目を細めた。

「……ああ」

短い返答。

だが、それは重く確かな響きを持っていた。


産婆が松丸をそっと雪乃の傍に寝かせる。

「しばし、母の傍で休ませてやるとよい」


雪乃はゆっくりと腕を動かし、小さな体を包み込む。

ぎこちないながらも確かに母の手だった。


「松丸……」

その名を、初めて自分の声で呼ぶ。


赤子は泣き疲れたのか次第に静かになり、やがて小さな寝息を立て始めた。

その様子を見つめながら、雪乃の目に涙が滲む。

「……無事で、よかった……」


永重はその傍に膝をつく。

其方(そなた)もだ」

静かに言う。

「よくやった」


雪乃は微笑みながら目を閉じた。

張り詰めていたものが解け、深い疲れが押し寄せているのだろう。


「少しお休みなさいませ」

夕霧がそっと声をかけて、布を整える。


産婆は立ち上がり、永重に向き直った。

「今のところ心配はいらぬ。

だが、今夜までは気を抜かぬことじゃ」


「うむ。承知した」

永重は深く頭を下げた。


「半佐」

「はっ」

「礼を」

その一言で、半佐はすぐに察した。

「ははっ!」




--------------------------




やがて産婆が帰る頃には、外の吹雪はすっかり収まっていた。

厚い雲の切れ間から淡い光が差し込み、白く覆われた庭を静かに照らしている。


半佐は門まで見送りに出ていた。

「本当に助かりました」

深々と頭を下げる。


「なに、これも務めじゃ」

産婆は軽く手を振ると、慣れた足取りで雪の道を戻っていく。


その背を見送りながら半佐は空を見上げた。

「……止みましたな」




--------------------------




室内。


永重は再び雪乃と松丸のもとへ戻っていた。

静かな寝息がふたつ。

寄り添うように重なっている。

火鉢の炭が穏やかに赤く灯り、鉄瓶からは細く湯気が立ち上っていた。


その光景を永重はしばらく黙って見つめる。

やがて、そっと腰を下ろした。


指先で松丸の小さな手に触れる。


すると――

ぎゅ、と。


無意識にその指を握り返した。


「……」

永重の目がわずかに見開かれる。

そして、ふっと笑みがこぼれた。


「離さぬ、か」


かすかな声。

だが、その奥には確かな決意が宿っていた。


「ならば……こちらも離すまい」

外では、雪解けのしずくがぽたりぽたりと軒先から落ち始めていた。


厳しい冬の只中で生まれた命。

松丸。


その小さな手が掴んだものは、

ただの指ではない。


この家の未来であり、

守るべき時であり、

そして――新たに始まる日々そのものだった。


静かな光が、親子三人をやわらかく包み込んでいた。




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