33-2 丹波【誕生】
雪は先程までよりも明らかに強くなっていた。
風に煽られて細かな氷の粒が戸板を叩く。
ごう、と低く唸る音がまるで山そのものが息をしているかのように響いていた。
室内では誰もが言葉少なに動いていた。
夕霧は手早く寝具を整え、火鉢に炭を足す。
湯は絶やさぬようにと鉄瓶の様子を何度も確かめた。
永重は雪乃の背に手を当て、呼吸を整えるよう静かに促す。
「ゆっくりでよい。焦ることはない」
雪乃は頷き、小さく息を吐く。
だが――
「……っ」
先程よりも、わずかに強い張りが訪れる。
腹の奥がきゅう、と締めつけられるような感覚に雪乃は思わず永重の袖を掴んだ。
「来たか」
永重の声が低くなる。
「まだ……我慢できます……」
そう言いながらも、その額にはうっすらと汗が浮かび始めていた。
夕霧がすぐに傍へ寄る。
「間はどのくらいでございますか」
「……先ほどより、少し……短く……」
その言葉に夕霧の表情が引き締まる。
「では、もう間もなく本格的に始まるやもしれません」
外では風の音がさらに強くなる。
半佐は――まだ戻らない。
永重は一瞬だけ戸の方へ視線をやったが、すぐに雪乃へと戻した。
いま目を離すべきではないと分かっていた。
「夕霧、ここでできる備えはすべて整えておけ」
「はい、すでに」
夕霧は迷いなく答える。
産婆が間に合わぬ場合も想定していたのだろう。
その動きに無駄はなかった。
再び、雪乃の身体が強張る。
「……っ、殿……」
声が震える。
永重はその手を強く握る。
「ここにいる」
短い言葉だったが、その響きには揺るぎがなかった。
「……はい……」
雪乃は目を閉じ、痛みの波が過ぎるのを待つ。
やがて、ふっと力が抜ける。
「今のが……少し、強く……」
「よく耐えた」
永重は静かに言い、その額にかかる髪をそっと払った。
その時――
戸の向こうで、激しく雪を踏みしめる音が響いた。
ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ、と乱れた足取り。
「戻ったか!」
永重が叫ぶと、夕霧がすぐに立ち上がり戸へ向かう。
戸が叩かれる。
「開けてくだされ!」
半佐の声ではない。
張りのある、年配の女の声。
夕霧はすぐに戸を開けた。
吹き込む雪と風の中に、ひとりの女が立っていた。
厚手の蓑をまとい、頭には雪を積もらせている。
その背後には、息を切らした半佐の姿があった。
「お連れしました!産婆殿です!」
女は一歩踏み込むと、鋭い目で室内を見渡す。
「遅うはあるまいな」
その声には場数を踏んだ者だけが持つ確信があった。
「まだ間に合います」
夕霧が答える。
産婆は頷くと、すぐに雪乃のもとへ歩み寄った。
「御方様、恐れずに。わたくしに任せてくだされ」
雪乃はその顔を見つめて小さく頷く。
「……お願いいたします」
産婆は手早く脈を取り、腹に触れ、状態を確かめる。
「うむ……初産にしては、よう進んでおる」
そう言うと、永重へちらりと視線を向けた。
「殿は外へ」
はっきりとした言葉だった。
永重は一瞬、言葉を失う。
「ここに……」
「邪魔になります」
ぴしゃりと言い切られる。
だがその声音には、無礼ではなく職務としての厳しさがあった。
永重はわずかに息を吸い――
そして頷いた。
「……頼む」
雪乃の手を最後に強く握る。
「必ず。無事に」
「はい……」
雪乃は痛みの中でも、確かにそう答えた。
永重は立ち上がってゆっくりとその場を離れる。
襖が閉じられる。
その向こうから、かすかに雪乃の息遣いが聞こえてくる。
外では吹雪がいよいよ激しさを増していた。
永重は縁側に立ち、白く煙る庭を見つめる。
拳を握りしめる。
己にできることは、もうない。
ただ――待つのみ。
その背後でひとつの命が、この世へと踏み出そうとしていた。
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それから何刻経ったであろうか。
吹雪はなおも勢いを増していた。
風は唸り、雪は横殴りに庭を打ちつける。
白一色に閉ざされた世界の中で、時の流れさえ曖昧になっていく。
縁側に立つ永重は、ただじっとその景色を見つめていた。
だが、その意識は外にはなかった。
襖の向こう。
雪乃のいる場所。
微かに、途切れ途切れに声が聞こえる。
押し殺した息。
耐えるような声。
そのひとつひとつが、永重の胸を締めつけた。
「……若殿」
後ろから、半佐が声をかける。
いつの間にか濡れた蓑を脱いで静かに控えていた。
「湯も薪も、十分にございます。
何かあればすぐに」
永重は振り向かず、ただ一度だけ頷いた。
「……ああ」
それ以上に言葉が続かない。
半佐もそれを察し、口を閉ざしたまま少し距離を取る。
ただその場を離れることはしなかった。
「若殿!」
吹雪の中、多紀重兼と伴伊織がやって来た。
「如何でございますか?」
伊織が聞く。
「いま、頑張っておられます」
半佐が応える。
すると再び――声が上がる。
「……っ……!」
今度は、はっきりと。
永重の指先がわずかに震えた。
一歩、踏み出しかける。
だが――止まる。
――入るな。
先ほどの産婆の言葉が脳裏に蘇る。
邪魔になる。
その一言が重く胸に沈む。
歯を食いしばり、永重はその場に踏みとどまった。
やがて、夕霧の落ち着いた声が中から響く。
「御方様、呼吸を――そう、そのまま」
導く声。
支える声。
それに続いて、産婆の低い声。
「よいか、次が来たら力を込めるのじゃ」
雪乃の息が荒くなる。
「……はい……っ」
短い応え。
だが、その奥には確かな覚悟があった。
風が一層強く吹きつける。
戸が軋む。
まるで、この瞬間を試すかのように。
そして――
「……いきむのじゃ!」
産婆の声が鋭く響いた。
その直後。
雪乃の声が、これまでで最も強く。
室内に満ちた。
「――――っ!!」
永重は思わず目を閉じた。
拳を握りしめる。
爪が食い込むほどに。
時間が引き伸ばされる。
一瞬か。
あるいは永遠か。
やがて――
その声が、ふっと途切れた。
静寂。
風の音だけが残る。
永重の心臓が大きく脈打つ。
――まさか
嫌な予感がよぎる。
その時。
――ふぎゃあ。
小さく。
だが、確かに。
新しい声が、世界に響いた。
永重の目が見開かれる。
もう一度。
――ふぎゃあ、ふぎゃあ。
今度ははっきりと。
力強く。
産声だった。
「……生まれた……」
半佐が、思わず呟く。
永重はその場に立ち尽くしたまま、動けなかった。
やがて、襖の向こうから夕霧の声が弾む。
「若殿――御子にございます!」
その言葉が届いた瞬間。
永重の肩から、すっと力が抜けた。
深く、深く息を吐く。
知らぬうちに詰めていた息が、一気に解けていく。
拳を開くと、掌には爪の跡が残っていた。
「……そうか」
それだけを、静かに呟く。
だがその声はわずかに震えていた。
そしてその双眸から涙が零れた。
襖が開く。
夕霧が顔を出す。
その表情には安堵と喜びが満ちていた。
「母子ともに、ご無事にございます」
永重は、ゆっくりと頷く。
「……入ってもよいか」
夕霧は微笑み、道を開けた。
室内に足を踏み入れる。
火鉢の熱と、湯気と、そして――新しい命の気配。
雪乃は横たわりぐったりとしていたが、その顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。
その傍らに、小さな包み。
産婆がそれを抱いて軽く揺らしている。
「殿、御覧なされ」
そう言って差し出される。
永重は、恐る恐る覗き込んだ。
そこには――
まだ赤く、小さく、しかし確かに生きている命。
ぎゅっと目を閉じ、懸命に泣いている。
永重は、言葉を失った。
しばし、ただ見つめる。
やがてゆっくりと、手を伸ばす。
触れてよいものか迷いながら、それでも指先でそっとその頬に触れた。
温かい。
確かな温もり。
「……我が子、か」
かすれるような声。
雪乃が、かすかに目を開ける。
「殿……」
その声に永重は顔を上げた。
「よく……耐えた」
静かに言う。
雪乃は微笑む。
「……この子、泣き声が大きいですね」
「元気な証だ」
永重もわずかに笑った。
外では、吹雪が嘘のように少しずつ弱まり始めていた。
厚い雲の向こうでわずかに光が差し込む。
長い夜を越え――
新しい朝が、静かに訪れようとしていた。




