9/残響幽鬼2
紅い眼光が、暗闇に閉ざされた廊下でゆらゆらと左右に揺れる。
窓から差し込む月光で獣の半身が露わになる。
四肢はすでに人とは言えぬほどに変形し、発達した犬歯が口からはみ出していた。
粘度のある透明な液体が犬歯から垂れ、飢えた獣を彷彿させる。
「成り損ない、何がお前をそうしたかは知らないがな。狙う相手を間違えるな」
距離は変わらず、両者共に微動だにしない。
あと一歩、見えない境を踏み越えた瞬間にどちらかの死でしか決着が決まらないことを認めている。
その境を先に踏み越えるのは、
「Rrrrrrrrraaaaaaaaaaaaa───────────!!!!!!」
絶叫と共に獣が疾駆する。
速度は下に居た怪物などより遥かに上。
気付けば、もう綾との距離は一メートルもない。
一直線に獲物を捉えようと振るわれた爪が綾の頬を掠め、床に叩きつけられる。
捲れ上がるタイルを瞳に映しながら、間一髪で体を退けた彼女は衝撃で揺らいだ体を数歩の後退で抑えつける。
接近したことで、綾は獣の額に小さな角があることを認知した。
怪物の中でも特筆して暴力的かつ狂気的な存在の名を想起させるその角に、再度、彼女は深く息を吸う。
あと一度の交錯で決着をつけるべく。
─────愛梨。
────────────瞬間、全身を倦怠感が襲う。
足が笑い、体が揺らぐ。
「ああ、クソ」
空間に満ちた声に意識が引き込まれる。
知り過ぎた。
深く見すぎてしまった。
“憎い、憎い、憎い、何故、何故、何故、何故”
名を呼んだ声を塗りつぶすように、幾重にも重なり、反響する声が脳を揺さぶる。
その声を綾は、
「五月蝿い。その列に、私は入らないし、そんなつまらない感情の為に赤の他人を巻き込むんじゃねぇ」
と、言い捨てる。
────────残響。
奪われた者達の残響が、この空間にひしめいている。
だが、もう、自分は揺るがない。
その確信を持って彼女は獣に近づく。
眼前の獣の規格を見る。
胸部に浮かぶ赤点を見据えて、綾は駆け出す。
相対する獣もまた、獲物ではなく敵へと変わった彼女を仕留めんと地を蹴る。
今一度振るわれる獣の狂器。
残響に取り憑かれた鬼が、綾の脳天に爪を突き立てた。
「アイツは、私のだ」
鬼の胸を綾の腕が突き抜けたのは彼女の溢したその言葉と同時だった。
肉の熱が彼女の腕を包む。
振るった筈の腕は素通りされ、彼女の肩にかかるように垂れ下がっている。
「────────あ、いり
獣はか細く、言い残して泥のような液体となって崩れた。
「なり損ないの死に方としては上等だよ、お前」
その最後を看取った綾は背を向け、廊下の中央にある病室の扉に手をかける。
─────────鍵は、掛けられていない。
ふと、病室に掛けられた名前を見ると、宮水愛梨という名前が記載されていた。
手に力を入れる。
病室の扉は容易く左にスライドし、白一色の部屋は月光を反射して輝いていた。
室内にはベッドが一つと、外された点滴の針が床に垂れている。
ベッドに寝かされているはずの病人はその真っ白なベッドには居なかった。
「お前の兄貴は死んだぞ」
綾は窓辺に佇み、星空を見上げる少女に声をかける。
「──────────そう、あの人は何て?」
少女、宮水愛梨は憂いを帯びた眼差しで綾を見る。
しかし、その奥には極端なまでの無関心があった。
世界を見渡した覚者の如き威容は少女のそれとはかけ離れている。
「さぁな、未練は聞かないようにしてるんだ」
「不思議な人。未練は聞くのも責任じゃない?」
コロコロと笑う少女は兄の死などまるで気にも止めていないようだ。
「それは真っ当に死ぬ奴に言うべきだな」
「それもそうよね。けど、やっぱり不思議。その言葉に私はホッとしているの」
胸に手を重ね、微笑む少女の横顔は人としての気配は微塵も感じられない。
あるのは彫像のような無機質の存在感。
この神殿のような病院に最も馴染む存在がそこに立っていた。
まるで、ここが少女を迎え入れるためにあるような。
「…………もう、いいか?」
「ええ、これ以上存えたところで誰かを巻き込むだけだもの。それに、貴女が許さないでしょう?」
「…………ああ」
少女が綾に歩み寄る。
優しく、抱擁を求める幼子のような足取りで。
「きっと、今の私は偽物で、本物の私はもういない。だから、これは何者でもない私からのお願い。どうか、父と母にお別れを言わせて貰えない?」
「ああ、善処する」
「ありがとう。優しいお姉さん」
問答は短く、綾もまた少女の近づく。
「────────すまない」
ポケットから折りたたみ式のナイフを取り出す。
────────────────パチン。
発条が解放され、冷たく光る銀色が月光を照り返す。
滑らかに、ナイフを少女に斬り付ける。
少女の白磁のような肌を立つ銀色の刃。
血は溢れない。
ただ、少女は支えを失い綾に寄り掛かる。
「ああ、全く。面倒だな」
少女をベッドに寝かせ、綾は病室を後にする。
病室を出ると、廊下の窓から見える地平線から朝日が僅かに顔を上げ、綾の目を閉ざす。
「しまった。真也のやつが晩飯作りに来る日だった」
溜息を吐いて歩き出す。
階段を踏み締める彼女の足取りは軽快だった。




