第54話 アバルトの帰還02
軍役の話がひと通り終わり、食卓に落ち着きが戻った頃だった。
暖炉の火は静かに燃え、橙の光が卓上の器や杯の縁を柔らかく照らしている。
満ちていた緊張はすでにほどけ、帰還の安堵と満腹の温もりが、ゆるやかに空気を満たしていた。
その中で、不意に椅子が擦れる小さな音がした。
アルフィとリーナが、同時に席を立つ。
奥から二人が抱えてきたのは、小ぶりの籠だった。中には、くすんだ飴色の実が幾つも収まっている。どれも表面はしわが寄り、白い粉がところどころに浮いていた。干からびたようにも見えるが、不思議と艶を帯びており、灯りを受けて鈍く光っている。
「これ、みんな食べてみて!」
アルフィが胸を張る。少しだけ顎を上げ、その声には隠しきれない自信があった。
「私とリーナとタツィオで作ったの!」
籠を覗き込んだシルエイティが、ゆっくりと眉を寄せる。見慣れた果実とは明らかに違う姿に、判断がつかない。
「これは……何なの?」
問いは素直なものだった。
それに応じるように、リーナがぱっと顔を輝かせる。目元が緩み、頬が少し紅くなる。
「柿を剥いて、軒下で干したの!」
その声音は弾んでいた。説明というより、見てほしい、伝えたいという気持ちが先に立っている。
ステラが小さく息を吐き、わずかに苦笑する。
「作っていたのは知っているけど……まだ味見はしていないのよね。あの渋い柿なのでしょう?」
言葉の端には、母としての警戒と、ほんのわずかな期待が混ざっていた。
それでも、アルフィとリーナの動きに迷いはない。
籠から一つずつ取り上げ、丁寧に手渡していく。家族だけでなく、控えていたカルロとラルディにも同じように差し出した。
「私たちは……」
ラルディが一歩引くように遠慮する。カルロも同様に視線を伏せた。
「手伝ってくれたでしょ。だから食べて!」
アルフィがぐいと押し出す。遠慮を許さない勢いに、二人は顔を見合わせ、小さく苦笑して受け取った。
その様子を眺めながら、アバルトが一つ手に取る。
掌の上で転がすと、思ったよりも柔らかい。指にわずかに吸いつくような感触があり、乾いているはずなのに、内に何かを蓄えているのが分かる。
娘たちが作ったものだ――その事実だけで、ためらいは消えていた。
「……では、いただこう」
ゆっくりと口元へ運び、ほんの一口、端を齧る。
その瞬間だった。
「……っ」
わずかに目が見開かれる。
舌に触れた瞬間、濃密な甘みが広がった。刺すようなものではなく、重く、絡みつくような甘さ。それでいて、後味は驚くほど穏やかに引いていく。
「こ、これは……!」
思わず声が漏れる。
「甘い……! 今まで食べた中で一番甘いぞ。それに、美味い!」
抑えきれない驚きが、そのまま弾けた。
その声に、ステラも恐る恐る口にする。ほんの小さく齧る。
「……あら……本当……?」
次の瞬間、表情が変わる。
「美味しい……!」
その一言が、場を一変させた。
次々と手が伸びる。口に運ばれ、そして同じように目が見開かれ、やがて笑みへと変わっていく。
「甘い……」
「こんなものが……」
驚きが重なり、やがてそれは笑いとなって広がる。暖炉の火よりも確かな温もりが、その場に満ちていった。
その中心で、アルフィとリーナは顔を見合わせる。
次の瞬間――
ぱん、と乾いた音が響いた。
二人の手が、勢いよく打ち合わされる。
リーナはそのまま弾むように跳ね、足先で小さく床を叩く。喜びを抑えきれず、身体ごと浮かせている。
アルフィも思わず笑みをこぼした。肩を揺らしながら何度も頷き、その瞳は誇らしさに輝いている。
――成功した。
それが、何よりの実感だった。
だが、その余韻を断ち切るように、気配が動く。
ステラが立ち上がり、すぐにアルフィの前へと歩み寄った。
そして――ぐい、と両肩を掴む。
「アルフィ」
声が低い。
先ほどまでの柔らかさは消え、代わりに研ぎ澄まされたものが宿っている。
「あと、何個あるの?」
その視線は真剣で、わずかに鋭い。
アルフィは一瞬だけ肩をすくめるようにしながらも答えた。
「えっと……リーナとタツィオと三人で分けたから、それぞれ十個くらいは残ってると思う」
その言葉を聞いた瞬間、ステラの目がはっきりと変わった。
思考が一気に回り始める。
「アルフィ。この作り方を知っているのは誰?」
間を置かずに問う。
アルフィは素直に答えた。
「全部の工程を知ってるのは、私とリーナとタツィオだけ」
その瞬間――
扉が、強く叩かれた。
室内の空気が一斉にそちらへ向いた。
カルロが即座に動き、静かに扉へ向かう。外で短いやり取りがあり、やがて戻ってきた。
「アバルト様。ジョアッキーノ殿が至急お話があると。タツィオさんもご一緒です」
「通してくれ」
扉が開く。
冷たい外気とともに、息を弾ませたジョアッキーノが入ってくる。その後ろからはタツィオも戸惑いながら部屋へ入った。
ジョアッキーノの頬は紅潮し、目は明らかに興奮に輝いていた。
「アバルト様! この干し柿というものを、お食べになりましたか!」
言葉はほとんど勢いで飛び出している。
アバルトは軽く頷く。
「ああ。ちょうど今、皆で食べていたところだ」
その一言を聞くや否や、ジョアッキーノは一歩踏み込む。
「この甘さは――画期的です! これをアルフィ様がお作りになられたと聞きまして……これはただ事ではありません!」
言葉が止まらない。
ステラもすぐに応じる。
「ええ……今まさに、その話をしていたの。この甘さ……異常よ。この帝国では砂糖一粒が金と同じ価値なのよ。甘いものなんて、せいぜい偶然採れる蜂蜜くらい。それが――」
視線が籠へ落ちる。
「こんな風になるなんて……」
静かに言い切った。
「これは……すごい価値になるわ」
ジョアッキーノが深く頷く。
「間違いありません。しかも原料は、これまで誰も見向きもしなかった渋柿です。村々の周囲にいくらでも生えております」
そのやり取りの意味を、まだ完全には理解しきれていない三人は、ただ顔を見合わせる。
さっきまでの無邪気な喜びの、その延長線の上に、別の何かが立ち上がっている。
それだけは、幼い三人にもぼんやりと分かった。
暖炉の火は変わらず揺れている。
だが今、この食卓に集まる大人たちの目は、もはや一つの菓子を見ているのではなかった。
冬を越える糧を。
領を豊かにする可能性を。
そして、この小さな領の未来を見つめ始めていたのである。




