第53話 アバルトの帰還01
寒さがいよいよ肌に食い込み、吐く息が白くほどけては消える頃だった。
乾ききった空気は音を遠くまで運び、冬の足音が確かな輪郭を持ち始めている。
陽はまだ高いはずなのに、光はどこか薄く、影は長く伸びていた。
その日、門に立っていたはずのシアズが、土を蹴り上げるようにして領館へ駆け込んできた。
外套の裾を翻し、靴底が石畳を打つ乾いた音を残しながら、勢いのまま玄関扉を押し開ける。
「ステラ様! アバルト様たちが帰ってきました!」
弾んだ声だった。抑えきれない高揚が、そのまま言葉の端々に滲んでいる。
廊下の脇に控えていたラルディが、ほんの一瞬だけ眉をひそめた。
礼を欠いた駆け込み――本来ならば注意すべき振る舞いだ。だがその目はすぐに緩み、口元にはかすかな安堵が浮かんだ。咎める言葉は、結局、喉元で溶ける。
その知らせは、すぐに奥へと伝わった。
執務室では、ステラがカルロと並び、アルフィを傍らに置いて帳面を広げていた。
紙の擦れる音と、控えめなやり取りだけが続いていた空気が、シアズの声で一変する。ステラの手が止まり、ペン先が紙に触れたまま静止した。
素早く顔を上げ、わずかに息を整えたのち、立ち上がる。
指先で髪を整え、衣の皺を払う仕草は、慌ただしさの中でも崩れない。だが、その動きには抑えきれぬ急ぎが滲んでいた。
「行きましょう。カルロ、シルエイティにも声をかけてね」
短く告げ、すでに足は廊下へ向いている。
アルフィも椅子を降り、リーナの顔を思い浮かべるより早く体が動いた。シルエイティもカルロに呼ばれるまでもなく立ち上がり、すぐに後を追う。
数日前からこの時を見越して滞在していた二人にとって、その知らせは待ち焦がれたものだった。
廊下を進む途中、アルフィとリーナは自然と顔を見合わせる。
言葉はいらない。互いの目に浮かんだものは同じだった。
気づけば手を取り合い、そのまま走り出す。
「先に行くね!」
振り返りもせずに言い残し、小さな足で石畳を蹴る。
「転ばないでね!」
背後から重なる声が届くが、それはもう風に紛れていった。
門前に近づくにつれ、人の気配と、外の空気の匂いが濃くなる。乾いた土と革と、旅の埃が混じった匂い。
門の前には、すでに人影が揃っていた。
アバルトとナパール、その背後に四人の従者たち。
外套には長旅の跡が残り、顔には疲労も見える。だが姿勢は崩れていない。立っているだけで、そこに「帰ってきた」という確かな重みがあった。
アルフィとリーナが駆け寄ったその瞬間、ステラ達も少し遅れて追いつく。
「アバルト! おかえりなさい!」
そのステラの声は、普段の落ち着きを忘れた、まっすぐな喜びだった。
アバルトはわずかに目を細め、口元に柔らかな笑みを浮かべる。
「ただいま戻った」
短く、それだけで十分だった。
「今回は後方支援が主でな。無理なく終わったのだ。全員、無事だ。怪我ひとつないぞ」
その言葉に、張り詰めていた空気が、はっきりと緩む。誰もが小さく息を吐いた。
アバルトは続けて、従者たち一人ひとりに視線を向ける。名を呼び、短い労いをかける。その声は低く、しかし確かに届く。
やがて袋を取り出し、穀物と硬貨を分けて手渡していった。辺境伯からの褒賞――決して多くはないが、冬を越すための現実的な重みを持っている。
「皆、よく務めたな。これで冬を越してくれ」
簡潔だが、背を押す言葉だった。
一度、全体を見渡す。
「今回も、誰一人欠けずに戻れた。それで十分だ。じきに石雪が来る。その後は本当の雪だ。春になったら――また全員で、この領を支えてくれよ」
頷きが、静かに連なる。
やがて従者たちはそれぞれの帰路へ散っていく。家族の待つ場所へ、あるいは持ち場へ。足取りは軽くはないが、確かな帰還の重みを踏みしめていた。
その夜、領館の食卓は久しぶりに賑わいを取り戻していた。
暖炉の中で薪がゆっくりと崩れ、ぱちり、と乾いた音を立てるたびに、橙色の火がわずかに揺れる。
その光が壁や梁に柔らかく映り、室内の影をゆるやかに揺らしていた。外はすでに冷え込み、石壁越しにも冬の気配が伝わってくるが、ここだけは別の季節のように温かい。
鍋から立ち上る湯気が空気に溶け、煮込まれた野菜と肉の匂いがゆっくりと広がり、焼きたてのパンの香ばしさがそれに重なる。腹の底から安堵を呼び起こす匂いだった。
席にはアバルト家とナパール家が自然と寄り添うように並び、互いの顔を確かめるように言葉を交わす。
声はどれもどこか軽く、少しだけ弾んでいる。無事に帰ってきた――その事実が、言葉の端々に滲んでいた。
やがて食事がひと段落し、器が静かに置かれる音が重なった頃。
アバルトが杯を指先で押さえ、わずかに前へ身を乗り出した。
「辺境伯様の領内を巡回している最中にな、魔物と遭遇した」
低く、落ち着いた声だった。だが、その一言で場の空気がわずかに引き締まる。
ナパールへ視線を向けると、彼も短く頷いた。
「数は多くなかった。せいぜい群れから外れた低位の魔物だ。囲んで、間合いを崩さず、一つずつ確実に処理した。無理に前へ出る者もいなかったし、怪我も出ていない」
言葉は淡々としている。だがその裏には、訓練された動きと、互いを信じた連携があった。
「別の日には、他国の斥候とも接触したな」
アバルトは一度言葉を切り、杯に口をつける。温かな酒が喉を通るのを確かめるように、ゆっくりと息を吐いた。
「向こうは三人。強行偵察だったらしい。だが、こちらは他領の部隊も合流して十数人いた。数を見て、あちらはすぐに引いた。深追いはしていない。戦にはならなかった」
戦わなかったこと――それがどれほど価値のある判断か、誰もが理解していた。無駄に血を流さないこともまた、領を守る術なのだ。
その空気の中で、アバルトはほんのわずかに肩をすくめる。
「ただな――」
短い間。視線が自然と集まる。
「逃げる隊長のような奴の背に、試しに投げてみたんだ。石をな」
その一言に、張り詰めていた空気がわずかに緩む。
だが、アバルトの視線はまっすぐだった。
そして、アルフィを見る。
「当たったぞ」
簡潔な言葉。
一拍遅れて、場の空気が動いた。驚きが、ゆっくりと広がっていく。
「そのまま倒れてな。捕らえた。どうやら、あれは貴族に連なる者だったらしい。持ち物や紋で分かった。拘束して、情報を引き出したようだ」
ナパールが静かに補足する。
「口は重いが、身分が身分だ。向こうも無視はできない。いずれ交渉になるでしょうね」
アバルトが頷く。
「捕虜は、それだけで価値になる。情報もそうだが、身代金だ。領にも、そして辺境伯様にも益がある」
ステラが静かに息をつきながら頷いた。
「ええ……戦の中では、最も確実な“実り”の一つですね」
「その功が評価されてな。今回の褒賞に上乗せされた。それに、身代金が確定すれば、さらに分配が来るだろう」
言葉は静かだが、その重みは誰にでも分かる。命を落とさずに得た戦果。その価値は、数字以上のものだった。
そして、アバルトはふと視線をアルフィへと戻す。
暖炉の火が揺れ、その瞳の奥に小さく光を映す。
「……これも、あの石のおかげだな」
何気ない調子で言ったその一言は、しかし確かに実感を伴っていた。
食卓の空気が、再びゆるやかにほどけていく。
誰もが無事で、暖かい場所に集い、同じ食事を囲んでいる。
その当たり前が、今は何よりも重く、そして尊い。
笑いは大きくはない。だが、静かに、確かに続いていく。
温もりと安堵と、そしてほんの少しの誇らしさが、言葉の合間に満ちていた。
冬の入り口に立つその夜。
領館の灯りは、いつもよりも長く、穏やかに揺れ続けていた。




