第52話 徴税
領館の石壁に囲まれた執務室は、昼を過ぎてもなお薄い緊張を孕んでいた。
紙とインクと乾いた穀物の匂いが重なり、窓から差し込む光の中で埃がゆらりと浮かぶ。
収穫と徴税が重なるこの時期、どの家も忙しさに追われているが、ここではそれが数字となって机の上に積み上がっていた。
帳面は整然とは言い難く、書き手の癖がそのまま残り、行も余白も揃わない。
だが、それでも記録は記録として機能し、この領を支えている。
ステラは頁をめくりながら、わずかに眉間へ皺を寄せていた。
隣ではジョアッキーノが低く唸り、指先で数字を追い、少し離れた位置でカルロが別の帳面を開いて確認を重ねている。
文字を読める者、数を扱える者が限られるこの地において、この三人は剣を持つ者と同じ重さで責務を担っていた。
外では人が動き、物が動き、そしてここでは、そのすべてが数として収まっていく。
その中で、一人だけ手持ち無沙汰に立っている影があった。
アルフィである。
しばらく黙って様子を見ていたが、やがて小さく息を吸い、ステラへと声をかけた。
「お母さん、帳簿……見てもいい?」
ステラは顔を上げず、次の頁をめくりながら短く答える。
「いいわよ。でも、元の場所に戻しておいてね」
その言葉には余裕のなさが滲んでいたが、拒む色はなかった。
アルフィは頷き、近くの帳面を一つ手に取る。ざらついた紙、整っていない文字、ところどころに書き足された数字。
収穫量、納入量、保管量――それらが規則もなく並んでいる。
見づらい、と率直に感じながらも、視線を落とした瞬間、頭の中で自然に数が動いた。
三つの数が並ぶ。足す。さらに一つ加える。合計と照らす。
――違う。
思考というより、反射に近い感覚だった。紙に書く必要すらない。数は揃い、差だけが浮かび上がる。
アルフィは顔を上げた。
「お母さん」
ステラの手が止まる。
「この書類、穀物の量が合ってないと思う」
「どこ?」
帳面を受け取り、ステラは指で数字をなぞりながら口の中で数を繰る。ジョアッキーノも横から覗き込み、同じ箇所を追った。
やがて、「……本当だわ。合ってない」
小さく、だが確かな声が落ちる。
ステラは顔を上げ、アルフィを見る。その目に浮かんでいるのは明確な驚きだった。
「アルフィ、あなた……よく分かったわね」
アルフィはわずかに首を傾げる。どうしてかと問われれば、答えはない。ただ見れば分かる。
それだけのことだった。
もう一冊、手に取る。
同じように視線を落とす。数が動く。揃う。
――やはり違う。
「お母さん、ここも違うと思う」
間を置かずに言う。
ステラはすぐに引き寄せて確認し、今度は先ほどよりも速く数を追った。
「……これも、違う」
息を吐く。その中に、驚きと同時に別の色が混じり始めていた。
次の瞬間、勢いよく立ち上がる。椅子がわずかに軋む音が、静かな室内に響いた。
そのままアルフィの前へ歩み寄り、両肩をしっかりと掴む。
「アルフィ!」
声には驚きと、そして切実さが混じっている。
「手伝ってちょうだい。まだ確認しきれていない書類が山ほどあるの。
難しいことじゃないわ、足し算と引き算だけでいいの。合っているかどうか、それだけ見てほしいの」
一瞬だけ、言葉が途切れる。幼い娘に頼ることへのためらいが、かすかに影を落とした。
だが、それはすぐに消える。
「……お願い」
短く、逃げ場のない言葉だった。
アルフィはその勢いに押されるように、こくりと頷いた。
それからの流れは速かった。
帳面を開き、数字に目を落とす。三桁、四桁、多くても五桁。
それらを頭の中で順に足し、引く。必要なら紙に簡単に書き留めるが、ほとんどはそのまま処理されていく。
一つ、二つと進むごとに結果は揃う。合っているものは流し、違うものだけが引っかかる。
「ここ、三つ足すと合計が一つ多いよ」
「こっちは引いた数が一桁違う」
声は淡々としているが、迷いはない。その手際は、まるで長く慣れた作業のようだった。
ステラはそれを受け取り、確認する。同じ計算をなぞれば、確かに一致する。
ジョアッキーノは低く唸りながら頷き、カルロは静かに次の帳面を差し出す。
時間が流れる。
紙をめくる音、インクの匂い、短い言葉。それだけが積み重なり、室内の空気を満たしていく。
やがて光が傾き、机の影が長く伸びた頃。
ステラがようやく息を吐いた。
「……今日はここまでにしましょう」
背にもたれ、腕を伸ばす。固まっていた体がゆるやかにほどけていく。
そのままアルフィの頭に手を置き、優しく撫でた。
「ありがとう、アルフィ。本当なら夜までかかると思っていたの」
安堵の滲む声だった。
「あなたのおかげで、夕食前に終わったわ」
ジョアッキーノも頷き、感心したように言う。
「これは見事ですな。お嬢様、ここまで速く、正確に数を拾うとは」
そして、口元をわずかに緩める。
「このベルリネッタ領は、将来安泰ですな」
カルロも静かに頷き、微笑を浮かべた。
だが――
その翌日から、アルフィの席は自然とステラの隣に用意されることになる。
帳面が整えられ、めくりやすく揃えられ、ペンがそっと添えられる。
「アルフィ、これもお願い」
「これも見てくれる?」
声は穏やかなままだが、そこにあった遠慮は、少しずつ薄れていった。
ステラは内心で、わずかに胸を痛めていた。
幼い娘にこれだけを任せていることは分かっている。それでも、手が足りない。
そして何より、アルフィはそれをこなしてしまう。
だから、手を伸ばしてしまう。
アルフィ自身は、それを不思議とは思わない。
ただ目の前の数字を整えるだけだ。
どこで覚えたのか分からぬまま、その手は止まらない。
こうしてアルフィは、数日のあいだ、帳簿と数字に囲まれた日々を過ごすことになるのだった。




