第40話 夏:魚釣り04
やがて――
「嬢ちゃん!」
遠くから張り裂けるような声が届いた。
何度も、何度も呼ばれ、そのたびに現実が薄く重なっていく。
無心で剣を振り下ろしていた腕が、ようやく止まった。
アルフィはゆっくりと顔を上げる。
そこにいたのは、マグナイトと――息を切らしたタツィオの姿だった。
その瞬間、張り詰めていた何かが、ぷつりと切れる。
全身から力が抜けた。
指先がほどけ、剣が地面に落ちる。鈍い音がやけに遠く響いた。
喉の奥が詰まり、呼吸がうまくできない。肺が震え、空気をうまく吸えない。
――次の瞬間。
声が、溢れた。
大きく、抑えのきかない泣き声が、あたりに響き渡る。
それは子供の泣き方だったが、同時に、押し込めていた恐怖を吐き出すような、壊れた声でもあった。
視界の端に、何かが転がっている。
三つ。
それが何だったのか、もう形では分からない。
ただ、赤く濡れた肉塊がそこにあるだけだった。
血が地面に広がり、靴も、服も、手も――すべてが赤く染まっている。
その現実が、遅れてアルフィの中に落ちてきた。
そのとき――
「アルフィ!」
駆け寄る足音。
振り返ると、アバルトがいた。
その後ろに、息を切らしたリーナの姿もある。
アバルトは迷いなくアルフィのもとへ駆け寄り、肩を掴むと、すぐに全身を確かめた。
腕。足。胸。
乱暴なほどに触れ、確かめる。
そして――手のひらの傷で、動きが止まる。
それ以外には、致命的な傷はない。
その事実に、胸の奥で張り詰めていたものが、ようやくわずかに緩んだ。
アバルトはここまで、ただ必死だった。
また失うかもしれない――その恐怖だけで、駆けてきた。
だが、アルフィは泣き止まない。
ただ、震えながら声を上げ続けている。
その姿を見て、タツィオもまた顔を歪め、涙をこぼした。
リーナも、唇を震わせ、やがて声にならない泣き声を漏らす。
初めての魔物。
初めての身近に感じる死。
そして、それを目の前で成した幼い友。
子供には、耐えられるものではなかった。
事情を問われても、アルフィは言葉にならない。
タツィオも同じだった。
そこで――リーナが、しゃくり上げながら口を開く。
「……アルフィが……」
途切れ、息を吸い、また続ける。
「わたしたちを……逃がして……ひとりで……」
その断片的な言葉だけで、十分だった。
アバルトは静かに息を吐く。
幼い子供が選ぶには、あまりにも重い選択。
何か言うべき言葉は、いくつも浮かんだ。
だが――
口は、動かなかった。
領主の子として。
その判断は、間違いなく最善だった。
だが同時に、それはあまりにも危うい選択でもあった。
もし――ほんの少しでも歯車が違っていれば。
目の前にいるはずのこの子は、もういなかったかもしれない。
叱るべきだと分かっている。
無茶だ。危険すぎる。
それでも――
泣きじゃくる我が子を前にして、その言葉を投げることはできなかった。
一度、失いかけた命だ。
もう二度と――同じ思いはしたくない。
気づけば、アバルトはアルフィを強く抱き寄せていた。
血で濡れた服など、意にも介さずに。
その温もりを、確かめるように。
やがて、人が集まり始める。
パナール、従者、村人たち。
次々と駆けつけ、異様な光景に足を止めた。
マグナイトが、簡潔に状況を伝える。
三匹のゴブリン。
リーナとタツィオを逃がし、アルフィが一人で対峙したこと。
そして――それを、退けたこと。
ざわめきが、静かに、しかし確かに広がっていく。
誰もがすぐには言葉を発せなかった。
視線の先にあるのは、血に染まった小さな身体。
まだ幼いはずの少女が、魔物と対峙し、生き残ったという現実。
やがて、その沈黙の中に、感情が滲み出す。
畏怖。
恐怖。
そして――それを押し流すほどの、圧倒的な感動。
まだ七歳に過ぎぬ子供が、己の身を盾にして他者を逃がすという選択をした。
それがどれほど重い決断であったか、大人である彼らには痛いほど分かる。
そのとき――
遠くから、別の足音が響いた。
必死に駆けてくる影。
ステラだった。
靴も履かずに裸足で、乱れた呼吸のまま駆け寄り、アルフィの姿を見た瞬間、顔色が変わる。
周囲の視線など、もうどうでもよかった。
すぐにアルフィを抱き寄せ、震える手で体を確かめる。
腕。肩。背。
そして――手の傷。
それだけだと分かった瞬間、張り詰めていたものが崩れた。
そのまま、強く抱きしめる。
壊れてしまいそうなほどに。
その腕の中で、アルフィの泣き声が一度収まる。
だが――
「……こわかったよぅ……」
小さく、震える声。
それが引き金だった。
再び、大きな泣き声が溢れ出す。
何度も、何度も同じ言葉を繰り返しながら。
ステラは何も言わず、ただ抱きしめ続けた。
もう失わずに済んだこと。
それだけで、十分だった。
パナールは、その光景を黙って見つめていた。
血に染まった、小さな背中。
まだ七歳。
その年で、魔物に立ち向かい、他者を逃がし、自ら残る決断をした。
武器も持たずに。
それがどれほど異常なことか、理解している。
大人の兵士であれば、ゴブリン三匹など脅威ではない。
だが――
七歳の自分が同じ状況に置かれたとき、果たして動けただろうか。
想像しただけで、胸の奥が熱を帯びる。
あの小さな背に、ただの子供ではない何かを見た。
恐怖を越えて立つ意思。
守るべきもののために踏み出す覚悟。
その先に――
この領を背負う者の影が、確かにあった。




