第38話 夏:魚釣り02
夏の陽はすでに強さを帯び始めていたが、まだ朝のうちは空気にわずかな涼しさが残っていた。
湿り気を含んだ風が頬を撫で、草の匂いと川の水の気配を運んでくる。
そんな早朝のうちに、アルフィとリーナ、タツィオの三人は家を出ていた。
今日はいつもの川での釣りだ。
勝手知ったる場所ということもあり、護衛――いや、お守り役の大人はついていない。
いつものように出発の前、コンマース家の牛舎の裏へ回る。
朝露に濡れた牛糞が積まれた土を木の枝でほぐすと、ほどなくしてミミズが姿を現した。
ぬめりを帯びた細長い体を、タツィオは嫌がる様子もなくつまみ上げる。
アルフィも同じように捕まえて、竹製の器に入れた。
「今日もたくさん釣れるといいな」
タツィオが笑う。
アルフィは軽く頷きながらも、その言葉にどこか確信は持てなかった。
理由はわからない。ただ、胸の奥にわずかな引っかかりがある。
川へ向かう道すがら、水際に網を構えている男の姿が見えた。
村人のマグナイトだ。日に焼けた顔に深い皺を刻み、無駄のない動きで網を扱っている。
農業の傍ら川漁を生業にし、干物や塩漬けにして売ることもある男で、領館の食卓に並ぶ魚も、彼の手によるものが少なくない。
アルフィは歩みを緩め、声をかけた。
「おはようございます。今日、少し奥まで釣りに行こうと思うのですが、川の様子はどうですか」
マグナイトは振り返り、すぐに表情を緩める。
「おお、お嬢。おはようございます」
軽く頭を下げ、それから川面に視線を戻しながら言った。
「今日はあまりよくないねぇ。このあたりの魚、どうも散っちまってる。何かがいるのかもしれん、気をつけて行ってくださいよ」
アルフィはその言葉を静かに受け止め、頷いた。
「ありがとうございます」
そしてそのまま歩き出す。
――道で会った者には必ず声をかけなさい。
母に何度も言い聞かされてきた言葉が、ふとした拍子に浮かぶ。
それはただの躾ではない。
領主の家に生まれた者としての務めであり、自分という存在を周囲に刻みつけるための行いだった。
誰と、どこで、いつ会ったか――それが人の記憶に残るだけで、いざという時の“手がかり”になる。
その意味を、アルフィは身をもって知っている。
あの日――石雪が降った日。
白く冷たい粒が静かに降り積もる中、アルフィはひとり屋敷を飛び出した。
足跡もすぐに埋もれていく世界へと踏み込んでいったのだ。
結果は、単純で、そして重い。魔物に襲われて、転び、動けなくなった。
呼んでも、誰も来ない。石雪は周囲の音を吸い、視界を奪い、ただ静かに時間だけが過ぎていく。
どれだけ経ったのかも分からぬまま、不安に押し潰された。
そして翌朝――ようやく見つけられた。
だが、それは“すぐ”ではなかった。誰も、アルフィがどこへ向かったのかを知らなかったからだ。
探す者たちは足取りを辿れず、ただ範囲を広げていくしかなかった。
結果として、発見までに無駄な時間を費やすことになった。
あの時の、母の顔。安堵と、怒りと、恐怖が入り混じったあの表情を、アルフィは忘れていない。
それ以来だった。
「いいですか、アルフィ」
ステラは、何度も、何度も繰り返した。
「道で誰かに会ったら、必ず声をかけなさい。名前でも、挨拶でも、何でもいいのです。あなたが“そこにいた”と覚えてもらいなさい」
静かな声だったが、そこには決して譲らぬ強さがあった。
「あなたがどこへ向かったのか、それを誰かが知っているだけで、助かる命もあるのです」
その言葉は、叱責ではなく、祈りに近かった。
だからこそ、アルフィは今でも自然とそれを守っている。
ただの挨拶に過ぎない行為が、誰かの記憶に残り、いざという時の道標になる。
あの日、雪の中でひとりきりだった自分を思い出しながら、アルフィは今日もまた、すれ違う誰かに声をかけるのだった。
三人はそのまま川沿いを進み、いつもの釣り場へと辿り着いた。
流れは穏やかで、水は澄んでいる。石の間を縫うように流れる水面には、小さな波紋が絶えず揺れていた。
仕掛けを整え、糸を垂らす。静かな時間が流れる。だが――反応がない。
餌を変えても、投げる位置を変えても、竿先は微動だにしなかった。
やがて、タツィオが耐えきれずに声を上げる。
「なあアルフィ、もう少し奥に行ってみないか?」
その言葉に、アルフィもすぐに頷いた。
「そうね。少し移動してみよう」
立ち上がり、下流へと歩き出す。
リーナは一歩遅れてついてきながら、何か言いたげに視線を揺らしていたが、結局口には出さなかった。
しばらく進むと、川幅がゆるやかに広がり、流れも穏やかになる。
さらにその先には、水面が大きく開け、下流にあるエアークロス湖の端が視界に入ってきた。
そこで再び竿を出す。しばらくして――ぴくり、と糸が揺れた。
「来た」
アルフィが静かに竿を引く。水面を割って現れたのは、手のひらより少し大きい魚だった。
体側にははっきりとした斑点がある――パーマークだ。
大物のオンコリマイキスではない。だが、この大きさでも十分に食卓を賑わせる。
それを皮切りに、ぽつぽつと釣れ始めた。
タツィオが歓声を上げ、アルフィも無駄のない動きで釣り上げる。
リーナも静かに糸を操り、確実に数を重ねていく。
気がつけば、一人七、八匹ほどは釣れていた。太陽はすでに高く昇り、空気は一気に熱を帯び始める。
川面の光も強くなり、照り返しが目に刺さるようになっていた。
「そろそろ戻ろうか」
アルフィの言葉に、二人も頷く。釣果は十分だ。三人は魚を籠に収め、帰路についた。
道すがら、タツィオは上機嫌に話し続ける。
どの魚が一番大きかったか、どうやって釣ったか、そんな話が途切れることはない。
リーナはその隣で、ただ静かに耳を傾け、時折小さく微笑むだけだ。
その穏やかな帰り道――
不意に、道脇の草むらがガサ、と音を立てた。乾いた葉が擦れ、明らかに何かが動いた気配がある。
三人の足が、同時に止まった。




