第37話 夏:魚釣り01
夏の陽射しが、山の空気をゆっくりと温め始めた頃だった。
朝から空は高く澄み渡り、白い雲がゆっくりと遠くへ流れていた。
山から吹き下ろす風は、もはや春先のひんやりとしたものではなく、陽に温められた草の匂いと乾いた土の匂いを含んだ、少しぬるいほどの柔らかな風になっている。
川の水は相変わらず透き通っているが、雪解け水の荒々しさはとっくに消え、流れは穏やかで、強い陽射しを受けた水面が細かな光となって絶え間なく瞬いていた。
岸辺の石もすっかり温まり、流れの浅い場所では水草がゆらゆらと揺れ、小さな魚影がときおり銀色にきらめきながら走り抜けていく。
あれから、かなりの頻度で三人で遊んでいる。
その日も朝から、三人で魚釣りに行くことになっていた。
ボクサー村の外れ、木材で組まれた簡素な防壁をくぐると、すぐにこの領の中心を流れるクローザー川がある。だが、よく釣れる場所はそこではない。山の方へ、上流へと二十分ほど歩いた場所だ。
川は夏の光を反射して眩しく、岸辺の草は青々と伸びている。水は澄み、底の丸石がくっきり見える。
時折、小さな魚影がきらりと翻り、流れの中へ消えていった。
この川では、パーマークがよく釣れる。
ときどき、その親であるオンコリマイキスが釣れることもある。
体側には鮮やかな朱色の帯が走り、光の角度によって虹色にきらめく。全身には黒い斑点が散り、身は淡いピンク色。淡白で甘みがあり、塩焼きにするととても美味い魚だ。
パーマークは十〜二十センチ前後の大きさ。オンコリマイキスは五十センチを超える大きさだ。
今日は三人で、それを狙いに行くのだった。
ボクサー村を出てすぐの川なので今日はこども三人だけでも許されたのだ。
まずは餌集めから始まる。
村外れの農家、コンマース家の牛舎の裏には、牛糞が積まれた場所がある。夏の空気の中では匂いも一層濃く、湿った土と混ざってむっとした空気が漂っていた。
そこを木の棒で少し掘ると、赤黒い太いミミズがくねくねと姿を現す。
「お、でかいのいた」
アルフィが指でつまみ上げると、ぬらりと体をくねらせた。
「うげ……」
タツィオは顔をしかめながらも、慣れた手つきで木箱に放り込んでいく。
少し離れた場所で、リーナは腕を組んでその様子を見ていた。
「リーナもやる?」
アルフィが軽く首を傾げながら聞くと、リーナは即座に首を横に振る。
「……無理です」
短くそう言うだけだった。
彼女はミミズが苦手なのだ。だから釣り針に餌をつけるのも、いつもアルフィかタツィオの役目になる。
川虫でも釣れなくはないが、ミミズの方がよく釣れるのだ。
だから結局、餌係はいつも二人だった。
コンマースにお礼を言ってから、三人は川へ向かう。
木の防壁を抜け、山へ続く細い道を歩く。両脇の草は夏の勢いで高く伸び、足に触れるたびに青い匂いが立った。
アルフィとタツィオは歩きながら、いつものようにくだらない話をしている。
昨日焼いたパンが石みたいに固かったとか、タツィオが店で瓶を落として母に怒られたとか、そんな話ばかりだ。
リーナはその少し後ろを歩き、静かに聞いている。
だが顔を見ると、ちゃんと笑っている。
つまらないわけではないのだ。
やがて、いつもの釣り場に着いた。
川はここで少し広がり、流れの速い場所と緩やかな場所が入り混じっている。
水は透明で、底の石までよく見えた。
三人はいつものように釣り糸を垂らす。
この三人の中で一番釣りが上手いのは、なぜかリーナだった。
彼女は糸を流れに入れると、ほとんど動かない。
「動かないの?」
アルフィが覗き込むように聞くと、リーナは川を見たまま小さく言う。
「流れの速いところと、遅いところの間……そこがいい」
確かに、そこに糸を入れると竿がすぐに震えた。
ぱしゃり、と水面が弾け、小さなパーマークが釣り上がる。
一方でタツィオは落ち着きがない。
「ここダメだ!」
と言っては場所を変え、また少し歩いては糸を入れる。
そのせいで、なかなか釣れない。
昼前にはすでに十匹ほど釣れていた。
リーナが五匹。
アルフィが三匹。
タツィオが二匹。
河原の石に腰を下ろし、弁当を広げる。
弁当といっても、この領は裕福ではない。
固い黒パンと、塩気の強い干し肉。
それだけだった。
パンを齧ると、歯がきしむ。
それでも三人で食べると、妙に美味しかった。
午後も釣りを続けたが、なぜかいつもよりはあまり釣れなかった。
日が少し傾き、帰ろうかという頃。
突然、リーナの竿が大きくしなった。
「っ!」
彼女の体がぐっと前へ引かれる。
「でかい!」
三人で竿を掴む。
水の下で巨大な影が暴れていた。
何度も糸が引き込まれ、腕が震える。
数十分の格闘の末、ようやく魚体が水面に浮かんだ。
巨大なオンコリマイキスだった。
しかし――
大きすぎて持ち上がらない。
三人で息を合わせ、思いきり引き上げた瞬間。
「うわっ!」
アルフィの足が滑り、ざぶん、と川へ落ちた。
冷たい水が全身を包む。
必死に魚を抱えながら岸へ這い上がると、三人は顔を見合わせて笑った。
釣れた魚は、八十センチ以上はある。
とんでもない大物だった。
アルフィは濡れた靴の中が気になり、脱いでみた。
中から転がり出たのは、黒い塊だった。
石のようだが、妙に軽い。
表面はざらざらして、尖った岩のようにも見える。
それを見た瞬間、胸の奥がざわついた。
――これは……
何かを思い出しかける。
だが、思い出せない。
妙な感覚だけが残る。
アルフィはふとポケットを探った。
ストンは――そこにあった。
冷たい石。
もう温もりも、鼓動もない。
それでもアルフィは、肌身離さず持っている。
そのとき。
「これどうやって持って帰るんだよ!」
タツィオの声が響いた。
巨大な魚を前に、二人が騒いでいる。
アルフィは少し考え、林へ入った。
長い枝を二本切り出し、その間を蔓で編む。
簡単な網のような形を作る。
まるで小さなソリのようだった。
「これで引けばいいと思う」
リーナとタツィオは目を丸くする。
「そんなの思いつくか普通?」
アルフィ自身も不思議だった。
なぜか、こうすれば作れる気がしたのだ。
巨大なオンコリマイキスと釣ったパーマークをその上に乗せる。
三人で蔓を引きながら、笑い声を上げてボクサー村へ帰った。
その夜。
ボクサー村の食卓には、久しぶりに豪華な料理が並んだ。
大きなオンコリマイキスの塩焼き。
脂の乗った身が香ばしく焼け、香りが家々に広がる。
村人たちは皆、嬉しそうにそれを頬張った。
夏の一日。
ただそれだけの、穏やかな日だった。




