第36話 春:ミズクラブ
春の陽が高く昇り、水面のきらめきが少しだけ強さを増していた。
湖の浅瀬は相変わらず穏やかで、さざ波が寄せては引き、砂の上に淡い模様を描いている。
ミズクラムを採り終えたあと、ビーゴは腰に手を当てて胸を張り、いかにも次の見せ場だと言わんばかりの顔で声を張り上げた。
「次は、ミズクラブだ!これもおいしいぞ!でも挟まれると痛いから気をつけろよ!」
その言葉に、リーナの肩がぴくりと揺れた。先ほどまで無心に砂を掘っていた時とは違い、どこか警戒した目で周囲を見回している。
ビーゴは笑いながら湖岸を回り、反対側へと歩き出す。
足元は次第に粘り気のある泥へと変わり、水と土の境目がまだらに広がっていた。そこには、小さな穴が無数に口を開けている。
四人が近づいた瞬間、さっと影が走り、穴の奥へと消えた。泥がわずかに揺れ、静けさだけが残る。
「あれが巣だ」
ビーゴは顎で示しながら、細い竹と糸を配る。
「穴の中にいるから――釣るんだ」
手際よく貝を割り、柔らかな身を糸に結びつける。その動きは迷いがなく、何度も繰り返してきた者のものだった。
「こうやる。見てろよ」
しゃがみ込み、竹を穴へ差し入れる。風が止まり、周囲の音が遠のく。やがて、竹がわずかに震えた。
「今だ」
ゆっくりと引き上げると、泥水を滴らせながら、鋏を振り上げたミズクラブがぶら下がっていた。
「おお……」
小さく息が漏れる。
アルフィはそれを見つめながら、無意識に呟く。
「……サワガニ……」
自分の口から出た言葉に、ほんのわずかに眉が寄る。けれど、その違和感はすぐに流れていった。
ビーゴは気にした様子もなく、クラブを袋へ放り込みながら笑う。
「家に帰ったら水につけとけよ。泥吐かせないと食えたもんじゃないからな」
そして指を鋏の形にして見せる。
「挟まれると、ほんと痛いぞ」
その仕草に、リーナが一歩下がった。
アルフィは静かに仕掛けを作る。貝の身を結び、糸を整え、穴へ差し入れる。
手の動きは落ち着いているが、どこか慎重だった。
しばらくして、竹が揺れる。
ゆっくりと引く。
重み。
泥を切りながら現れたのは、小ぶりながらもしっかりした鋏を持つクラブだった。
「……取れた」
小さく呟く。声は控えめだが、その目には確かな手応えが宿っている。
「お、やるじゃねえか」
タツィオが覗き込み、にやりと笑う。
それからは賑やかだった。
ベルランゴは淡々と数を重ね、タツィオは声を上げながら走り回り、リーナはビーゴの助けを借りつつ確実に釣り上げていく。
アルフィは、その中で静かに数を重ねていった。竹の震え、引くタイミング、重みの違い――それらを一つずつ確かめるように。
やがて袋はどれも膨らみ、十分な収穫となった。
「よし、ここまでだ」
ビーゴの声で手が止まる。
袋を湧き水に沈めると、クラブたちが中でわずかに動いた。澄んだ水が流れ続け、静かに時間が過ぎていく。
その後、木陰へと移動し、火を囲む。
鍋の中で貝が口を開き、出汁が広がる。香りが立ち上り、空気が少しだけ柔らかくなる。
「ほら」
差し出された汁を、アルフィは両手で受け取る。
一口。
静かに息を吐いた。
素朴で、けれど芯のある味。舌に残る余韻が、ゆっくりと広がっていく。
隣ではタツィオが声を上げている。リーナは無言で食べ続けている。
その中で、アルフィはもう一口すすった。
胸の奥が、わずかに温かくなる。
ふと、口を開く。
「ビーゴさん」
「ん?」
「今日は……ずっと教えてくれてましたけど、自分の漁は大丈夫なんですか?」
少し間を置き、続ける。
「それに……場所を教えてしまっても、いいんですか?」
ビーゴは少しだけ目を細め、それから肩をすくめた。
「この領のもんはな、全部アバルト様のもんだ」
湖へ視線を向ける。
「だから、その子――アルフィに教えるのは、別に変なことじゃねえよ」
軽い調子のまま、だが言葉は揺らがない。
「勝手にやれば密猟だ。けど、許されてるやつは別なんだ」
火の音が小さく弾ける。
アルフィはしばらく湖を見つめた。風が水面を渡り、光が揺れる。
その広さの奥に、何かがあるような気がしたが、それはまだ形を持たない。
やがて小さく頷き、もう一口、汁を飲んだ。
春と初夏の境目の空気が、静かに流れていた。




