第35話 春:ミズクラム
春も終わりに近づき、村の空気には初夏の気配が混じり始めていた。
朝の光は柔らかいが、冬のような冷たさはもうなく、土や草の匂いがはっきりと感じられる。
広場のロサケアの花もすっかり散り、枝の間には小さな緑の実がいくつも膨らみ始めていた。
その朝、アルフィ、リーナ、タツィオの三人はまたいつものように集まっていた。今日は村の下流、クローザー川をたどった先にあるエアークロス湖へ、散策がてら食材を探しに行くことになっている。
事前にベルランゴから指示は出ていた。竹で作った土を掘るシャベルのようなトラウルの道具、麻で編んだ袋をいくつか、それから背負い籠。それらを忘れずに持ってくるよう言われていた。
村の門の外には、すでにベルランゴが立っている。そしてその隣に、見慣れない青年がいた。肌は日焼けして濃い褐色で、髪は短く刈り込まれている。だが笑うと歯が驚くほど白く、健康的で人懐こい顔立ちだった。
ベルランゴが三人に紹介する。
「今日はこいつも一緒だ。ビーゴだ」
青年は軽く手を挙げた。
「よろしくな」
聞けば、ビーゴは農業も手伝うが、主に川や湖で漁をしている若者だという。両親が畑をやっているため、彼自身は水辺の仕事を任されることが多いらしい。
ベルランゴが言った。
「今日はビーゴが湖での漁を教えてくれる。だから一緒に覚えろよ」
タツィオがすぐに身を乗り出す。
「今日は何を採るの?」
ビーゴはにやりと笑った。
「それは行ってからのお楽しみだ」
その言い方に、三人は自然と顔を見合わせた。
やがて一行は村を出て、川沿いの道を下流へ向かって歩き始める。
朝の川は静かで、水面には柔らかな光が揺れている。岸辺には葦が生え、時折水鳥が羽ばたいて飛び立った。
歩きながらビーゴが言う。
「俺、この村で唯一舟を持ってるんだぜ」
その言葉にタツィオが目を輝かせた。
「えっ!舟!?俺も乗りたい!」
だがベルランゴがすぐに首を振る。
「だめだ。湖はかなり深い場所もあるし、奥には魔物もいる。アバルト様からも舟は禁止って言われてるからな」
「えー……」
タツィオは露骨に肩を落とした。一方、リーナはほっとした顔をしている。
アルフィはそのやり取りを見ながら、静かに湖の方角へ視線を向けていた。
――舟、か
胸の奥に、わずかな違和感が引っかかる。
――ああいう形なら、もっと安定させるには……
思考が続きかけて、ふっと止まる。
どこで知ったのか分からない知識が、浮かんでは消える。
やがて視界が開けた。
湖だった。
広大な水面が空を映し、風が走るたびに光が砕ける。川とは違う、広く静かな世界がそこにあった。
「わあ……」
アルフィは思わず小さく息を漏らす。
「でっけえ……」
タツィオの声が重なる。
湖のほとりに、小さな古い小屋があった。
木の板で作られた簡素な小屋で、屋根は苔むし、壁には補修の跡がいくつもある。
「ここが俺の道具小屋だ」
ビーゴが中へ入り、道具をいくつか持って戻ってくる。
三つ又の槍、細い竹、糸、熊手のような道具、そして網。
そして水際には、一艘の小舟。
アルフィはそれをじっと見つめた。
形を追うように視線が動く。
「……丸太をくり抜いた舟、だよね」
ぽつりと呟く。
ビーゴが驚いた顔をした。
「おいおい、よく知ってるな」
舟を叩きながら言う。
「そうだ。丸木舟だ」
ベルランゴも感心したようにアルフィを見る。
「それにしても、よく分かったな」
アルフィは小さく首を傾げた。
「……なんとなく、そんな気がしただけ」
本当に、それだけだった。
けれど――
――内側から、知っていた
理由のない確信だけが残る。
「トラウルは持ってきたか?」
ビーゴの声で意識が戻る。
三人は道具を取り出した。
川が湖へ流れ込む浅瀬に移動する。水は透き通り、底の砂がはっきり見える。
「いいか。岸から徒歩十歩以上は絶対に奥へ行くな」
三人は真剣に頷いた。
ビーゴが水に入り、トラウルの熊手で砂を撫でる。
すると黒い小さな貝が転がり出た。
「これがミズクラムだ」
その瞬間。
――ああ、これ
アルフィの胸の奥で、言葉が自然に浮かぶ。
――しじみね。
誰かが、当たり前のようにそう言った気がした。
「すごい、いっぱい出る!」
タツィオが夢中で掘り始める。
リーナはすでに無言で作業していた。
アルフィもトラウルを差し込み、砂を掘る。
柔らかい感触。
規則的に出てくる貝。
その単純な繰り返しの中で、妙な安心感があった。
――こういうの、嫌いじゃないでしょ。
また、あの落ち着いた女性の声が聞こえた気がした。
アルフィは少しだけ口元を緩めた。
「……うん」
誰に向けたのか分からないまま、小さく呟く。
やがて袋は重くなり、ビーゴが作業を止めた。
「よし、十分だな」
湧き水に袋を沈めながら説明する。
「ここに置いとくと砂を吐く」
三人は感心したように頷いた。
湖の風がゆっくりと吹き抜ける。
水面が揺れる。遠くで鳥が鳴く。
アルフィはその光景を眺めながら、ふと胸の奥に残る感覚を確かめる。
もう声はしない。
けれど――
確かに、どこかにいる。
それが不思議と、嫌ではなかった。




