第33話 春:散策02
村の中心にある広場には、古くから立ち続けている一本の大樹があった。
春の陽がやわらかく広場を満たし、その木は静かに長い影を落としている。
太い幹は何人もで手を回さなければ抱えきれないほどで、歳月に刻まれた皺のような樹皮が深く走っている。
だがその荒々しさとは裏腹に、枝は高く伸び上がるのではなく、ゆるやかに弧を描いて垂れ下がっている。
幾重にも分かれた細枝が、まるで水の流れのように空から地へと降りてくるその姿は、他の木々とは明らかに異質だった。
その木は、この周辺ではロサケアと呼ばれている。
ちょうど今、その花が散る時期だった。
枝という枝からこぼれるように咲いていた淡い花々は、風がそよぐたびに静かに揺れ、そのたびに細かな花びらがふわりとほどけるように離れていく。
舞い上がるというより、流れ落ちる――そんな表現の方が近い。
白と薄桃色の小さな欠片は、垂れた枝の軌跡をなぞるように、上から下へとゆるやかに降りていく。
まるで空に掛けられた無数の糸から、光の粒がこぼれ落ちているかのようだった。
陽光を受けた花びらは、ひとひらごとにかすかな輝きを宿し、重なり合いながら静かに地面へと積もっていく。広場の中央には、一本の木から生まれたとは思えないほどの淡い色の輪が広がり、その中心に立つだけで、どこか別の場所に迷い込んだような錯覚を覚える。
ピニンファリーナ村の土手に沿って咲くロサケアが、連なり、景色そのものを染め上げる“帯”のような美しさだとすれば――
この木は違う。
ただ一本で、空間そのものを支配している。
近づけば、垂れた枝が頭上を覆い、外の景色をやわらかく遮る。
視界は花の色に染まり、音すらもわずかに遠のくように感じられる。
風が吹けば、そのすべてが一斉に揺れ、静かな波のように広場を満たしていく。
それは並木の華やかさではなく、ひとつの存在が作り出す、閉じた美だった。
「わあ……きれい……」
リーナが思わず声を上げる。
タツィオも同じように空を見上げ、くるくると舞う花びらを手で追いかけている。
「すごいな、雪みたいだ」
二人はただ純粋にその光景を楽しんでいた。
だがアルフィだけは、なぜかその花びらを見ていると胸の奥が静かに揺れるのを感じていた。
懐かしい――そんな感覚がある。
それなのに、何が懐かしいのかは分からない。
どこか遠い記憶の端に触れそうで、しかし届かない。そんな郷愁のような感情だけが胸に残った。
ロサケアの花が散ると、その後には小さな赤い実がつく。
丸く艶のある実で、熟すと甘酸っぱく、村の子供も大人も毎年それを楽しみにしていた。
広場の木は村の春の訪れを知らせる目印のような存在でもある。
今日はまだ朝早い時間だった。
いつもの三人――アルフィ、リーナ、タツィオが集まっている。
「今日は竹の子掘りだね」
タツィオが嬉しそうに言う。
「うん、そのあとエルガミオさんの家」
リーナも頷いた。
もっとも、三人だけではない。今日もいつものようにベルランゴがついてくる。
護衛というより、もはや半分はお守り役だった。
村の門の前まで来ると、すでにベルランゴが待っていた。
背の高い体で腕を組み、朝の空気を吸い込みながら空を見ている。
三人が駆け寄る。
「ベルランゴさん、おはようございます!」
三人そろって頭を下げると、ベルランゴは軽く手を上げた。
「おう。今日もよろしくな」
今日は竹林で竹の子を掘り、そのあと森の浅い層に住んでいる木こり――エルガミオの家へ行く予定だった。そこで自分専用の籠を作るのだ。
この話はすでにアバルトからエルガミオへ伝わっている。
ベルリネッタ領は土地が狭く、土も痩せている。
畑で十分な穀物が取れるわけではないため、人々は手が空けば周囲の森や川へ入り、食べられるものを採って生活を補っていた。
そのため籠はとても重要な道具だった。
山菜、木の実、魚、薪――何を採るにも籠が必要になる。だから村の人々は皆、自分専用の籠を持っている。
そして面白いことに、その籠を布や紐で飾るのがこの村の流行だった。
「この籠かわいいよね」
「あれは誰の籠?」
そんな話を子供たちがすることも珍しくない。
今日三人が持ってきている布も、そのためのものだった。
リーナは赤い布。
タツィオは緑。
アルフィは藍色。
籠の縁や背負う紐に編み込んで飾る予定だ。
そうしておけば、森の中で籠を置いて別の場所を探しに行っても、遠くから誰の籠かすぐ分かる。
誰が森に入っているかの目印にもなるので、意外と実用的でもあった。
村の門を出て少し歩くと、道の脇に竹藪が見えてくる。
背の高い竹が密集して生え、朝の光を細く切りながら林の奥へと続いていた。
ベルランゴはそこで足を止めた。
「よし、まずは掘り方を教えるぞ」
三人は素直に集まる。
「地面から大きく出てるやつはダメだ。あれはもう育ちすぎてる」
そう言って地面を指差す。
「探すのはな、こういうところだ。土がちょっと盛り上がってたり、ひびが入ってたりする場所。その下にある」
三人は真剣な顔で地面を見つめた。
「見つけたら、周りを円を描くように掘る。焦らずゆっくりだぞ」
掘る道具は竹を斜めに切った簡単なものだった。本来なら鍬や鎌を使うのだが、金属の道具はとても貴重だ。普通の家でも一本あるかないかというほどで、子供に持たせることはまずない。
ベルランゴは説明を終えると腕を組んだ。
「よし。まずは探してみろ」
その言葉を聞くやいなや、タツィオが真っ先に走り出した。
「よーし!」
リーナもきょろきょろと地面を見ながら歩き始める。
アルフィはこういう観察が得意だった。
少し歩いただけで、地面の一か所がわずかに盛り上がっているのに気づく。
「ベルランゴさん、ここは?」
呼ばれてベルランゴが近づき、地面を覗き込む。
「……おお」
小さく笑った。
「すごいなアルフィ。一度で見つけるとは。ここは良さそうだ」
アルフィはさっそく竹の道具で周囲を掘り始めた。土は柔らかく、掘るたびに湿った匂いが立ち上る。
しばらくして、今度はリーナがベルランゴの袖をそっと引いた。
「……こっち」
小さく指を差す。
ベルランゴが覗き込み、頷いた。
「リーナもすごいな。ここも大きそうだ」
それを見てタツィオが焦ったように叫ぶ。
「ベルランゴさん! こっち!」
駆け寄って見てもらうと、ベルランゴは少し困った顔をした。
「うーん……これは育ちすぎだな」
地面からすでに大きく顔を出している。
「食べられるけど、エグミが強い。別のを探した方がいい」
タツィオはしゅんと肩を落とした。
それでも諦めずに探し続ける。しばらくしてベルランゴが少しだけヒントを出した。
「この辺を見てみろ」
タツィオはそのあたりをじっと見つめ、ようやく盛り上がった土を見つけた。
「これ!」
ベルランゴが頷く。
「よし、それでいい」
三人が掘り進める間、ベルランゴも自分の場所を掘り始めた。どうやら最初から目星はつけていたらしい。
「曲がってる方向を見ながら掘るんだぞ」
掘りながら言う。
「無理するとすぐ折れるからな」
その直後だった。
「あ!」
タツィオの声が上がる。
どうやら途中で折れてしまったらしい。
ベルランゴは笑った。
「折れても味は変わらない。気にするな」
それでもタツィオは少しだけしゅんとしていた。
やがて全員の竹の子が姿を現した。
結果は――
一番大きかったのがアルフィ。
次がベルランゴ。
その次がリーナ。
そして折れてしまい、なおかつ一番小さかったのがタツィオだった。
ベルランゴは四人の収穫を見回して頷いた。
「よし」
腕を組んで言う。
「次からは俺がいなくても掘れそうだな。竹の子掘りは合格だ」
その言葉を聞いて、三人は顔を見合わせた。
なんとなく――とても嬉しかった。




