第32話 春:散策01
春の陽射しが気持ち良い朝、三人は村の門の前に集まっていた。
今日は散策に行く約束をしていたのだ。
ただし子供だけで遠出をするのは危ないということで、執事カルロの息子であるベルランゴが付き添いとして同行することになっていた。
歳は三人よりも上で、背も高く、肩には村の守備用の簡素な槍を一本担いでいる。
本人は大げさに振る舞うつもりはないのだろうが、その姿はやはりどこか頼もしく、三人の「見守り役」という言葉がよく似合っていた。
「今日はピニンファリーナ村まで行くんだったな」
ベルランゴがそう言うと、タツィオが元気よくうなずく。
「そうそう! ロサケアの花が今すごいんだってさ!」
リーナは言葉を発さないまま、小さく笑っていた。
アルフィは二人の後ろ姿を見ながら歩き出す。最後尾はベルランゴだ。
今日の目的地は、叔父ソチェッタが村長をしているピニンファリーナ村の手前。
その近くを流れるクローザー川の川岸には、ロサケアの花が群れるように咲いているのだという。
春に咲く淡い桃色の花が風に揺れる様子は、この辺りではちょっとした名物だった。
花が散っても、その実は赤くなり、甘酸っぱくて美味しい。そういう話も、子供たちは自然と知っている。
ただし今日は遊びだけが目的ではない。この土地では穀物の収穫は多くない。
土地は痩せ、岩も多く、豊かな畑とは言い難い。
だから歩く途中に食べられる山菜や木の実があれば見逃さない。それが当たり前だった。
村を出るとすぐに道は細くなり、草の匂いが濃くなる。
春の空は穏やかで、陽射しはやわらかい。
山から吹き降ろす風はまだ少し冷たく、木々の葉がさらさらと鳴っていた。
「なあベルランゴさん、それ食えるの?」
タツィオが道端の葉を指さすと、ベルランゴがしゃがみ込む。
「これは食える。若い葉だけな。苦いけど腹には溜まるぞ」
そう言って摘み取った葉をアルフィの籠に入れた。
三人はそれぞれ小さな籠を背負い、少しずつ中身を増やしていく。
リーナは相変わらず口数が少ない。ただ、面白いときだけ肩を震わせて笑う。
その静かな反応が、場をやわらかくしていた。
しばらく歩くと、前方に奇妙な場所が見えてきた。
草がまばらで、地面がどす黒く湿っている小さな沼だ。
水は濁り、表面には虹色の膜が浮いている。腐ったような臭いが鼻を刺した。
「うわ、ここか……くっさ!」
タツィオが鼻をつまむ。リーナも顔をしかめた。
「踏み込むなよ。泥に足を取られるぞ」
ベルランゴが言う。「これは水で洗ってもなかなか落ちない」
三人は沼を避けて進む。
そのときだった。
アルフィだけが、ふと立ち止まる。
――この匂い。
胸の奥が、わずかにざわついた。
どこかで、知っている。
けれど、思い出そうとした瞬間、それは霧のようにほどけていく。
アルフィはもう一度沼を見た。どす黒い水面が静かに揺れているだけだった。
「アルフィー! 置いてくぞー!」
タツィオの声に呼ばれ、小さく首を振って歩き出す。
やがて道はクローザー川の支流へと下っていく。
小川が石の間を流れ、透明な水がさらさらと音を立てていた。
川底の丸石が光を受けてきらきらと輝く。
「まだ小さいな」
タツィオが石を蹴る。
「食っても腹の足しにならねえ」
リーナも覗き込み、静かに頷いた。
「ほら、これ」
ベルランゴが草を指す。
「茹でれば食える。でも似たやつは毒だから気をつけろ」
三人はまた籠に葉を入れていく。
そのとき、アルフィの視界の端で――川底の石の間に、何かが一瞬だけ光った。
胸がまたざわつく。
――何か、引っかかる。
けれど呼ばれて顔を上げたときには、もう何もなかった。
「おーい、行くぞ!」
視線を戻し、アルフィは皆の後を追う。
そこから少し進むと、視界が開けた。川の土手。そして両側に並ぶ木々。その枝いっぱいに、淡い桃色の花が広がっていた。
ロサケア。
花びらが光を透かし、風に揺れるたびに柔らかな影を地面へ落とす。
「うわぁ……」
タツィオが声を漏らす。
リーナの目も大きくなっていた。
だがアルフィは、なぜか胸の奥がきゅっと締めつけられる感覚を覚えた。
懐かしい。
けれど、思い出せない。
「この花きれいだけどさ。すぐ毛虫が湧くんだよな」
ドン。
無言でリーナがタツィオの足を蹴った。
「いてっ!」
タツィオが飛び上がる。
「余計なこと言うなってことだな」
ベルランゴが苦笑する。
四人は花の下で弁当を広げた。
固い黒パンと、塩気の強い肉、簡単な野菜。それでも風と花の香りがあれば、それで十分だった。
「外で食うと、うまいよな」
タツィオの言葉に、アルフィは小さく頷いた。
食後、草の上に寝転ぶ。風が流れ、鳥が鳴く。
いつの間にか、全員が少し眠っていた。
目を覚ましたとき、アルフィはまず空の音を聞いた。
体を起こすと、ベルランゴが槍を抱えたまま、うとうとしている。
やがて皆が起き、また歩き出す。
十分ほどで、ピニンファリーナ村の柵が見えた。
「おお、アルフィか!」
村長で叔父のソチェッタが豪快に頭を撫でる。
「大きくなったな!」
アルフィは少し照れながら挨拶し、預かってきた穀物を渡す。
代わりに山菜を分けてもらい、しばし休んだ後、四人は帰路についた。
春の空は高く、風はやわらかい。
その日は――
ただそれだけの、穏やかな一日だった。




