第31話 アバルトとステラ
その朝――
アルフィの声に起こされて、ストンの不思議な夢を聞いた後、領館の食堂では、アバルトとステラが静かに椅子に座っていた。
厚い石壁に囲まれた部屋は、夜になると急に冷える。
暖炉の火が弱く揺れ、橙色の光が天井の梁をゆっくりと照らしていた。
しばらく二人とも黙っていたが、やがてアバルトが低く息を吐く。
「……どう思う?」
ステラは隣で天井を見つめたまま、小さく首を傾けた。
「何がです?」
「アルフィのことだ」
アバルトは腕を枕にして天井を見上げる。
「ステラがどう思うかは分からんが……」
少し間を置き、ぽつりと言った。
「俺は、とりあえず……生きていてくれて嬉しい」
それだけだった。
だが、その一言に、ステラの目からまた涙が溢れた。
「……私もよ」
声は静かだった。
「アルフィが生きているなら、それでいいの」
暖炉の火が小さく弾ける。
石の屋敷の夜は、いつもより少しだけ長く感じられた。
――それから数日後。
アルフィの熱は下がり、ゆっくりと目を覚ました。
アルフィが目を開いたとき、最初に見えたのは、いつもの天井の木の梁だった。
見慣れた天井。
窓から差し込む朝の光。
そして、すぐ横で眠そうな顔をしている母ステラ。
「……アルフィ?」
小さく呼ばれる。
アルフィはゆっくりと瞬きをした。
「……お母さん?」
その言葉を聞いた瞬間、ステラの顔が崩れた。
ストンの意識は――なかった。
少なくとも、表面には。
アルフィは、自分が石化が治った直後は、確かにストンの意識を感じたのだと言う。
しかし、その後熱が下がって朝起きてみると、もうストンの意識がなくなっていたのだと言う。
やはり、あの夢に出てきたストンは――
その後に、どこかへ行ってしまったのかもしれない。
領館の人々は皆、アルフィが起きあがってきたことで安堵した。
台所の日替わりで来る侍女たちまで、泣きながら喜んでいたほどだった。
さらに一週間ほど経つと、いつもの日常がゆっくり戻ってきた。
ある日の昼、領館の庭に小さな足音が響く。
「アルフィ!」
リーナだった。
栗色の髪を揺らしながら、遠慮がちに庭へ入ってくる。
リーナはあまり自分から多く話す子ではない。
だが、その表情はいつも柔らかい。
言葉が少ない分、そっと隣に座ったり、花を渡してきたり、そういう小さな優しさが多い。
さらに数日後には、ジョアッキーノ一家も訪れた。
ジョアッキーノと、その妻オーリス、そしてタツィオ。
領館の応接室で、ジョアッキーノは深く頭を下げた。
オーリスも、膨らんだお腹を抱えながら、涙ぐんでいた。
「本当に……申し訳ありませんでした」
何度も頭を下げる。
タツィオは横で気まずそうに立っていた。
確かに、あの時の言葉には傷ついた。
だが、冷静に考えれば――
家を飛び出したのは、アルフィ自身の思い込みだった。
だからアルフィは、笑って言った。
「もういいよ」
そして少し照れながら続けた。
「その代わり……これから友達になろう」
タツィオは驚いた顔をして、それから大きく頷いた。
ジョアッキーノは商売でよく旅に出る。
だがオーリスが妊娠しているため、タツィオはこれから村の商店を手伝うことになったらしい。
「だから、ちょくちょく遊びに来る」
その言葉に、アルフィは素直に嬉しくなった。
同年代の友達が、今までほとんどいなかったからだ。
この領は、相変わらず厳しい土地だった。
岩が多い畑。
長い冬。
生きていくだけでも大変な場所。
そして年一回必ず降る石雪。
それでも――
アルフィの毎日は、穏やかだった。
ある日、父アバルトから聞かされた。
「お前を救ったのは……ストンだ」
その言葉を聞いたとき、アルフィはすぐにポケットの中の石を取り出した。
小さな灰色の石。
あの日、自分を石化から治してくれた石。
そっと握る。
以前は、触れるとほんのり温かかった。
どこかで小さく鼓動しているような、不思議な感覚があった。
だが――今は違う。
石は冷たい。
ただの石のように。
命の気配は、もう感じられなかった。
アルフィは少しだけ眉を下げる。
「……ありがとう」
小さく呟いた。
それから、その石をあらためて大事に握り直した。
それ以来、ストンは肌身離さず持っている。
そしてもう一つ、変わったことがあった。
石化が治ってから、アルフィはあることに気づいた。
身体の特定の部分を強く意識すると――
そこが石のように硬くなる。
拳。
腕。
時には足。
まるで、身体の中に石があるように。
だが、それを誰にも言っていない。
試しに一度、父に聞いたことがある。
「体が石みたいに硬くなる魔法ってある?」
アバルトは首を傾げた。
「……聞いたことはないな」
それだけだった。
だからアルフィは、それ以上言わなかった。
けれど心の奥で、少しだけ思っている。
――ストンと、少しだけ同化したのかもしれない。
その考えは、なぜか少しだけ温かかった。
朝になると、アルフィは石を握る。
「おはよう、ストン」
夜になると、また握る。
「おやすみ」
それが、いつもの日課になっていた。
灰色の領の朝は早い。
山から風が吹き下ろし、草が揺れ、遠くで家畜の声が聞こえる。
厳しい土地。
それでも、優しい両親がいる。
友達がいる。
そして手の中には、小さな石。
アルフィの毎日は、静かで、穏やかに流れていた。
まるで、この平穏が永遠に続くかのように。




