第30話 アルフィの目覚め
アルフィの石化が解けたとき、最初に駆け寄ってきたのはアバルトだった。
大きな手が、まだ熱の残る娘の肩をそっと抱き寄せる。
「……生きているなら、それでいいのだ」
低い声だった。普段のおおらかさを抑えた、どこか震えを含んだ声。
「お前がアルフィでも……ストンでも……そんなことはどうでもいい」
ステラも、すぐ隣で何度も頷いていた。
「ええ……そうよ……」
涙を拭きながら、アルフィの頬に触れる。
「あなたが生きていてくれるなら、それだけでいいの……」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥から熱いものが込み上げた。
涙が、勝手に溢れてくる。
自分でも理由はうまく説明できない。ただ、胸の奥がほどけるような感覚だけが残った。
だが――その日の夜、アルフィは再び倒れた。
石化から回復したばかりの身体はまだ弱く、そして何より、頭の中が混乱していたのだ。
アルフィの記憶と、ストンの意識。
二つの感覚が、うまく重ならない。
目を閉じると、見たことのない景色が浮かぶ。
触れたことのない岩肌の冷たさ。
地の奥で響くような、ゆっくりとした振動。
そして次の瞬間には、自分が少女の身体で寝台に横たわっている現実に引き戻される。
熱が上がり、意識が遠のいた。
その夜、領館は深い静けさに包まれていた。
石造りの廊下は昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、遠くで夜番の足音が時折こつり、と響くだけだった。
窓の外では山から吹き下ろす風が木々を揺らし、枝葉が擦れ合う音が、まるで遠い波のように途切れ途切れに聞こえてくる。
アルフィの部屋もまた、淡い月明かりだけに照らされていた。
小さな寝台の上で、アルフィは毛布に包まりながら眠っている。
胸の上では、握りしめたままの石――ストンが、冷たいまま静かにそこにあった。
眠りは深かった。
けれど、その夜の夢は妙に鮮明だった。
ふと、気配を感じて目を開ける。
夢の中のはずなのに、部屋は妙に現実に近い形で広がっていた。
月の光、窓の形、壁の影――すべて見慣れたものだ。
そして、寝台のすぐそばに――
一人の女性が立っていた。
二十代前半ほどの女だった。
黒い髪が無造作に肩のあたりまで伸び、少し癖がある。
瞳は深い黒で、どこか軽薄さと優しさが同居しているような、不思議な光を宿していた。
その女性は、寝台の上のアルフィの顔を覗き込むようにしていた。
そして、にやりと笑う。
「おはよう、アルフィ」
気軽な声だった。
どこか砕けていて、それでいて距離の近い声音。
「よかったわね。石化、ちゃんと戻って。もう無理はしないでね。次はもう助けられないからね」
腕を組みながら、少しだけ顎を上げる。
「ま、誰のおかげかって話だけどね?」
アルフィは瞬きをした。
不思議と怖くはなかった。
ただ、胸の奥がざわつく。
「……あなたが」
ゆっくりと口を開く。
「ストン、なの?」
女は肩をすくめた。
「そうよ」
軽く笑う。
「ストンでもあり……光希でもある、って感じね」
アルフィは黙って見つめる。
光希は窓の外へ視線を向けながら続ける。
「石になる前はね、別の世界の日本って国で生きてたのよ」
さらりと言う。
「気づいたら石。笑っちゃうでしょ? まぁ、あの時は私、石だったから笑えなかったけど」
頭の後ろで手を組み、肩の力を抜いたまま話す。
「で、そのまま何百年だか何千年だか知らないけど、ぼーっとしてたら」
ちらりとアルフィを見る。
「あなたたちに拾われたってわけ」
少しだけ表情が柔らかくなる。
「……だからまあ、感謝してるのはこっちなのよ。短い間だったけど、面白かったわよ」
一瞬だけ、声が落ち着いた。
だがすぐに、軽い調子に戻る。
「だからね」
指をひらひら振る。
「これからはちゃんと、アバルトさんとステラさんの言うこと聞きなさいよ?」
そう言うと、くるりと背を向けた。
「じゃ、わたしはもう行くわね」
歩き出す。
夢の中の部屋なのに、まるでどこか遠くへ続く道のように、背中が少しずつ遠ざかっていく。
アルフィは思わず身を起こした。
「待って!」
だが、距離は縮まらない。
――そのとき。
「あ、そうだ」
光希が足を止め、振り向いた。
そして、にやりと笑う。
「ステラさんに伝えといて」
妙に真面目な顔で続ける。
「腰の下、柔らかくて気持ちよかったわって」
アルフィは固まった。
光希はさらに続ける。
「あと、たまには、またそこに入れてくれてもいいって言っといてね」
くすっと笑う。
「その石、もう、私はいないかもだけどさ」
そして、指を一本立てる。
「それと」
今度は少しだけ呆れた顔になる。
「アバルトさんには――」
軽くため息をついてから言った。
「後ろポケットに入れたまま、私がいるのにオナラするのはやめてって」
アルフィは呆然としていた。
光希は満足そうに頷く。
「うん、これで全部かな」
そして片手をひらひら振った。
「じゃあね、アルフィ」
背中が、遠ざかっていく。
アルフィは叫んだ。
「待って!!」
届かない。
だから、最後に――
「ストン!!」
その瞬間――
アルフィは目を覚ました。
朝だった。
窓から差し込む光が部屋を照らし、鳥の鳴き声が遠くから聞こえる。
胸が激しく上下している。
ゆっくりと手を見る。
掌の中には、石。
ストン。
冷たい。
ただの石のように、静かだった。
アルフィは目を閉じる。
石化が解けた直後、確かにあったもう一つの意識。
ストンの意識。
だが今は――何も感じない。
静かだった。
まるで最初から、何もなかったかのように。
「……行っちゃったのね」
小さく呟く。
そのとき――
バタン!!
扉が勢いよく開いた。
「アルフィ!」
アバルトだった。
その後ろからステラも駆け込んでくる。
「どうした!」
「今、大きな声を……!」
アルフィは少しだけ戸惑いながら言う。
「夢を見たの」
ステラが身を乗り出す。
「夢?」
アルフィは石を見つめた。
「ストンが出てきた」
二人は顔を見合わせる。
「ストンはね、別の世界から来たんだって」
ゆっくり続ける。
「“ニホン”って国で生きてて、本当の名前は……“ミツキ”っていうの」
アバルトは黙って聞いている。
アルフィは少し迷ってから続けた。
「それでね……伝言があるって」
ステラが首を傾げる。
「何を?」
アルフィはそのまま言った。
「お母さんの腰の下、柔らかくて気持ちよかったって」
空気が止まった。
ステラの頬が一気に赤くなる。
「え……?」
アルフィはさらに続ける。
「それと、お父さんには」
アバルトを見る。
「後ろのポケットに入れたままオナラは絶対にやめてほしいって」
そして――
ステラが吹き出した。
「……ふふ……っ」
肩を震わせながら笑い出す。
アバルトも目を見開いていた。
その話は、誰も、当然アルフィは知らないはずだった。
それでも、確かに当たっている。
ステラは涙を拭いながら、微笑んだ。
「そう……」
小さく呟く。
「やっぱり……見ていてくれたのね」
アルフィは石を握り直した。
冷たい。
けれど――
ほんの少しだけ、優しい気配が残っている気がした。




