351 最悪の日
男が逃げ出した方向に走ったけど、追いつくのは厳しい。
だから狼の背中に乗ったのだが、それでも距離が中々縮まらない。
用いる全力を逃走に振り切った人間というのは恐ろしく早く、剣闘士なら尚更だ。
「はっ、はっ──」
そして、それだけではない。
熱を持った頭で、微妙なズレを感じた。
──あれ。アイツ……入り口じゃなく、森に入っていく。
それが何を意味しているのかまでは分からない。
けど、本来なら森の外を目指して南に下るハズ。
なのに、アイツは東に向かって走っていってる。
何を考えているのかは分からないけど、
「捕まえてやる」
怒りの感情は普通ならすぐに収まる。苛立つこともすぐになくなる。
でも、これだけは一向になくなる気配がない。
木々を駆け抜け、道なき道を走って、風に煽られて。
ようやく見えた軍服を追いかけていく。
「もう少しっ……!」
先生の敵討ちだ。復讐だ。
絶対に許さない。逃さない。
光のない眼が、涙で滲んだ。
「もう少しで──」
ザザザと木々を抜けていった先は、川が流れていた。
光を反射する川が眩しく映ると、その向こう側に男は息を整えながら立っている。
「…………逃げるのはお終い?」
「体力ってのがあるからな……はぁ……」
肩で呼吸を繰り返す男の前で、狼から降りた。
ジリジリと距離を詰める。川があるからと思って甘く見ているのか。余裕の態度でタバコを吸っている。
「みんな、アイツを倒して」
「おぉ、怖い怖い……死霊術ってのはやっぱり人を殺す魔法ってことだな」
「先生を殺した人にそんなこと言われたくない」
「で、お前がオレを殺したらお前も人殺しだが? いいのか?」
「説得のつもり?」
そんなの何の意味もないのに。
わたしを、ただの女の子だと思ってるみたいだけど。
「もう……遅いよ」
何故か溢れてくる黒い涙を手で拭いながら、強く笑った。
「何人も殺した。たくさん、冒険者を──」
もう私は綺麗な女の子じゃない。
勉強して、放課後に友達と一緒に遊んでいた女子高生じゃない。
ただの人殺しの転生者だ。
お兄ちゃんよりも手が汚れてる。ただの悪いヤツ。
「その人数が今日、増えるだけだ。だから、もう、いいよ」
死ぬ──っていうのはテレビの向こう側で起きてるだけの、私には関係ない別世界のことだと思ってた。
有名人が死んだり、交通事故で死んだり、殺人で死んだり。ソレを見ても「悲しいなぁ」としか思わなかった。
次の瞬間にはキッチンのママに呼ばれて、ご飯を美味しく食べてた。
それが、今はどうだ。
眼の前でお兄ちゃんの胴体を割かれ、自分が召喚したモンスターで人を殺して、自分が死んで、先生が死んで。
今度は自分の意志で人を殺そうとしてる。
殺意なんて抱きたくないのに、選択肢に入ってるのだ。それも実行可能で、精神が許容できる選択肢の一つとして。
──「死」に慣れると「殺す」ことへの躊躇いが薄れる。
こんなの望んでなかったのになぁ。
普通に生きたかったのになぁ……。
誰か、今、わたしの名前を呼んでくれないかな。この気持ちの悪い感情を、別の感情で塗り替えてくれないかなぁ……!
私に今からでも遅くないから、って優しい言葉をかけて……くれないかなぁ……っ。
でも、分かってるんだ。
そんな望みが叶わないことくらい。
だから、私は殺意を言葉に変える。
「……みんな、アイツを殺して」
汚れがこびり付いた手をもう一度、血液に浸すために。
「ワタシの先生を殺したアイツをやっつけて──」
「アルマ」
「!?」
仲間に号令を出そうとした私の後ろで誰かが私の名前を呼んだ。
同時、肩に置かれた手を私は振りほどこうとして──
その人の顔を見上げた。
「……なんで、せんせい、が」
私の名前を呼んだのは、殺されたはずの蕎麦先生だった。
◇◇◇
「アルマ。皆を引かせな」
「蕎麦先生……なんで、生きて」
「いいから、早く引かせるんだ」
言われた通りに川を越えようとしていた皆を引かせた。
それを見た男が苦虫を噛み潰したような顔になったのが見えた。
「計画はそこまでさ、坊や」
「…………ちくしょうが。殺したハズなんだがな」
「殺したのはそうだろうさ。でも、死んでないだけさ」
わたしの隣に立つ先生を見上げて、
「詰めが甘いよ。何年生きてるとおもっ、て、ちょっ、アルマッ! 喋ってる時に触るんじゃないよっ!」
「だって、ほんとうに……せんせい、いきてるかって」
首が切られた。そのはずだ。
でも、顔はあるし、表情も動いてる。相変わらず冷たいけど……死んでるほど冷たいけど……。
頬もむにむにしておく。お年寄り特有の水分のない、もちとした肌というか、肌触りが良い感じ。
「生きてるから安心しな。それよりも……アイツさ」
手をゆっくりと降ろされて、先生は指を鳴らした。
すると、私達がやってきた側から先生の死霊が彼らを連れてやってきた。
「抵抗はしないことだね。お仲間を捕まえさせてもらったから」
「……ありえねぇ……」男は瞠目し、腑に落ちたように苦い顔をした。「ってことは、あんた……戦いながら追わせてたのか?」
「足が早いもんだから苦労したよ。そっちに意識を持っていかれるし、離れていけばなおさらさ。おかげさまで一回おっ死んじまった訳だしねぇ」
先生は和やかに笑い、男は苦しそうな顔になった。
「それと東に走り出した時にはさすがに焦ったさ。結界の感知内に連れ込んで間接的に援軍を呼ぶつもりだったんだろう? 魔族の反応なら優秀なお仲間さん達が出てきてくれる」
「…………」
そうだったのか、と一人で小さく呟いた。
なにも分かっていないけど……後で先生に聞いてみよう。
「だが、いいのか? 王国には魔導具で連絡を入れておいたぞ? 感知できなくても、手を打っておいた──」
「嘘も上手だねぇ。魔素を乱す魔法を展開してるのが分からないのかい? どのみち持ってなかったみたいだから魔素の無駄だったがね」
「…………全部、お見通しだったって訳か」
「300年も生きてたら、相手が何をしようとしてるのかくらい分かるようになる」
「あんた、何者なんだ?」
先生は後ろに手を組んだまま密かに笑い、口は開かなかった。
その反応に打つ手なし、と男は両手を上げた。
「くそが……降参だ」
「ならん。わたしとこの子を殺しておいて、自分は殺さないでくださいは虫が良すぎる」
先生は手を横に出すと、呼応して軍勢が出てきた。
鎧。龍。馬。巨人。あとはなんていえばいいのか分からない化物達。
「男だろう。殺さないように努めるから、頑張って耐えな」
「…………くっそ、最悪の日だ」
男は次の瞬間には軍勢の猛攻に晒されていた。




