有田刑事
伊能はソファに腰をかけると目を閉じた。静野は向き合ってはいるものの百パーセント無理だろうと思っていた。しかし伊能のただならぬ様子を見て、これはひょっとしたらと思い始めた。
右手を前に伸ばした伊能の顔は青ざめ、ほとんど呼吸をしていないのではないかとさえ思えた。始めに、どんなになっても決して驚かないでください、と言われていなければ伊能の体をたまらず揺さぶったにちがいない。わずか三分ほどの時間が静野には十分以上に感じられた。やがて顔に血の色がもどり始めると、伊能は右手の指をゆっくりと動かし始めた。
ヒ、ト、マ、ロ
静野が小さな声でそれを読み上げた。
コールフラッシュが光り、有田が大きな手で掬うようにとりあげた。
「警視。静野からです」
佐野が替わった。
「なに。読めた?! ヒトマロ? 柿本人麻呂のヒトマロか? そうか、ご苦労だった。うんうん、そうしてくれ」
佐野が受話器を置くと、有田が大きな体を弾ませるようにしていった。
「警視。俺、ヒトマロが分かるかもしれません」
「なに」
佐野と遠山がほとんど同時に言った。
「うまいぞ。人の名前だな。どういう男だ」
「いってみれば鴨原の同業者です」
「居所は知ってるか」
「わかりませんが、居所を必ず知っているはずの暴力団の幹部を知ってます」
「誰だ、そいつは」
有田が低い声でその名前をつげた。佐野はなるほどという顔になった。
「狐野郎か」
「はい。やつなら知っているはずです」
どうしてそう思うのだ、とは誰も問わなかった。その分野での有田は全警視庁でも屈指の専門家なのだ。
「狐には手みやげが要るな?」
「幸いといいますか、今絶好のタマがこっちの手にあります。しかし」
有田がちらりと遠山の顔をみた。
「有田君、かまわん。言ってみたまえ」
遠山が有田に先を促した。
「はい。町田という男がいま新宿署に留められてます。それを出してやるといえば必ず取引に応じるはずです」
「その男は」
「ジュクでは名の知られた麻薬の売人で狐の資金源です」
だれかが、ヤクじゃなあ、とつぶやいた。
「そいつを出そう。すぐに手配する」
えっ、と有田が目をむいた。遠山にとっていや警察にとっては、この事件を解決するためならナンデモアリなのだ。一同は足枷を外してもらった韋駄天のように立ち上がった。
「ヒトマロにはどうする。やつの泣き所は」
佐野が有田に聞いた。
「一番痛いのはリストでしょう」
「抱えているテフダのか」
「ええ、それとお客さんの」
「そいつは簡単にはみつかりそうもないな」
「はい。あの手の連中にとって一番大事なのは信用です。口を割ったら最後、商売ができなくなるだけじゃなく報復されることもありますからね、これは容易にはみつからないでしょう」
それはそうだろうな、と誰かが呟いた。
「俺たちもやってみますかね。石をどっこいしょと」
有田が大きな石を持ち上げるふりを冗談めかしながらやったが、それには誰も返事をしなかった。
「有田。よせ」
佐野が苦笑してそれを制した。
「よし、こういこう。ユリの殺人に関わっている可能性もある。証拠があるように思わせそれで締め上げる。それから鴨原の名前をつかう。どうやらふたりはこの世界ではビッグネームのようだ。毒には毒をだな。まずは狐を押さえてヒトマロの所在をつきとめる。室長、新宿署の一件、よろしくお願いいたします」
遠山はうなずくと部屋を出ていった。さすがにみんなの前では電話しにくいとみえる。
遠山といれちがいに静野がもどってきた。女性の刑事は特捜班に三人いるが静野が一番若い刑事だ。
「ご苦労。お手柄だった。伊能さんは仮眠室だね」
佐野はそういって静野をねぎらった。
「はい。伊能さんは相当エネルギーを費やしてしまったようです。わたしは彼が死ぬのじゃないかと思って正直怖かったですよ。それからヒトマロには是非会いたいから、そこに行くときには必ず起こしてくれと頼まれました」
?
佐野が首をかしげた。
俺たち信用がないのか。だが断るわけにもいかんだろう。
「ショックでした。自分の脳の中を探って埋もれていた記憶を取り出してしまうなんて」
静野は深い嘆息をもらした。
まだ時間がかかるかと思われた遠山だったが、意外なほど早くもどってきた。電話の先は新宿署署長か、いや警視総監だったか、あるいはもっと上か。
「新宿署はOKだ。佐野君これを。ユミという女性のことは伊能君にはわたしからいっておく」
遠山は電話番号らしい数字を書いたメモを佐野に手渡した。
「ありがとうございます。俺と北野、有田、村井、五十風は拳銃を携帯する。行くぞ」




