石を抱かす
「警視。どじな受取人がわかりました。十一月十八日、辰巳さんがまちがえられた当日です。十八時三十分頃、学園駅構内で痴漢騒ぎが有りました。事務所に連行を求められた男が逃亡を図ったのですが、その時、通りかかった別の男が脚を出して止めようとしたのだそうです。ところがその男、あたりどころが悪くて脚のどこかを骨折してしまったらしく、立つことも出来なくなり、駅では救急車の手配をしようとしたのですが、男はそれを振り切って名前も告げずに立ち去ってしまったとのことです。駅員に辰巳さんの写真を見せたところよく似ているとのことでした。従いまして、その男がBと考えてよいと思います。辰巳さんの写真をベースにして駅員の証言を加えて修正しデータベースとの照合を始めております」
「そうか」
「それから興味深い事実が分かりました。そのことを電話で聞いてきた男が居たそうです。それも二人です。一人目は、その事故のおよそ一時間ほど後、もうひとりは月曜日のお昼前でした」
「片方は恐らく辰巳さんに接触したサングラスの男かその仲間だろう。しかし、もうひとりの方はどう考えたらいいのか。みっつの組織又は個人が絡んでいるという事になるな。電話はその事故の確認の為なのだろうから。そして三者は必ずしも親密な間柄ではないということになる」
「複雑になりましたね警視。仲間割れでも起こしてくれませんかね。畜生」
有田がそうつぶやいた時、電話のコールフラッシュが光った。
「警視、伊能さんから緊急事態です」
鴨原の容態は予断を許さないものだった。人工呼吸器を使って百%酸素の吸入を行っているのだが、ほとんど生きているようにはみえなかった。枕元のスコープの波形が辛うじて生の気配を伝えているのみだった。
「シアン中毒の典型的な特徴ですが血圧がかなり下がってます。血液が低酸素の状態に陥いっているんです」
治療にあたった医師が淡々とした口調で説明をした。
「今は亜硝酸系の点滴を続けてますが」
ベッドの脇に、伊能の他、遠山、佐野を始めとする特捜班のメンバーが立ち、いずれも沈痛な面もちでスコープに見入っていた。
「意識をとりもどすのは」
「運良く助かっても三日は無理です。あとは患者の体力だけがたよりです」
「なんてことだ。折角、伊能さんが」
村木らの尾行班は心底口惜しがった。
伊能は病院に駆けつけた遠山と佐野に対し、本人との約束があるのであの部屋の展示絵画類には注意をはらって欲しいと言い、遠山はそれを了承した。
「それから佐野さん、これを」
伊能は持参していた一冊のスケッチブックを佐野に示した。
「このユミという女性を探してください。この女性は鴨原の愛人だったようです。経緯はわかりませんが彼をこういう目に遭わせるのにひと役かってます。というより彼女の安否が気遣われるのです」
「わかりました。すぐに所轄に指示します。伊能さん、彼の役割はなんだったのでしょう」
「鴨原は闇の世界での人材斡旋業をやっていたようです。例のタクシー運転手を手配したのが彼です」
「伊能さん、それをどうして知ったのです」
「運転手から聞きました」
「そうですか。どうやってあの男を掴まえたのかは今は聞きません。しかし、あのしたたかな男がよくも口を割ったものですね」
「どうしても、そうしなくてはならなかったものですから」
「それはそうですが・・・どう?」
伊能は少し困った顔になったが小さな声でこう言った。
「ちょっと石を抱かしてみた、というのでは駄目ですか」
「え? それ・・・」
佐野の口が開いたままになった。遠山もまわりの刑事達も体を固くした。拷問は現代警察官にとっては絶対の禁じ手である。
「一一九番には通報しておきましたが・・・」
伊能はそう小声でいうと叱られた小学生のように顔を赤くして目を伏せた。刑事達はその様子に涙ぐみたいほどの好感をもった。
「警視」
秦が佐野を呼んだ。
「あ、そうだ」
佐野は秦の声でわれに帰った。
「時田、救急センターを調べてすぐに運転手の身柄を押さえろ。篠原を連れて行って貼り付かせろ。外部とは遮断だ。所轄の警察からもだ。文句が来たら署長からここに電話をしろといえ。至急!」
「了解」
時田がすばやく病室を出ていった。ひとり椅子にかけてその成り行きを見ていた遠山がおもむろに言った。
「佐野君。伊能君は警察官ではないのだし、それに、なにかあったら責任はわたしがとる。だから、石の件は」
「わかっております。余計な詮索でした。すみません伊能さん」
「いえ。こちらこそ、どうも」
――そうか。だから俺たちの前では掴まえなかったのだ。確かにそうでもしなくては、そう簡単には依頼人のことなどは白状しなかったにちがいない。どえらい頭の人だな。それにしてもそれを読んだ秦さんもすごい。
「鴨原は堺さんたちが監禁されている場所を直接ではないまでも、それを知る手掛かりをもっていました。調べてやると言ったのですが、その寸前にやられました。不覚でした・・・俺はなんという馬鹿なんだ!」
その顔に血が昇った。周囲がそれに驚く中で伊能は最後のひとことを血を吐くように言うと、拳でそばのコンクリートの柱を激しく撃った。石の件にも関わらず、そういう荒々しい行為とは無縁に見える伊能の激しさに、刑事達はみな自分の頬を打たれたように静まりかえってしまった。
――あの時もう少し、あとコンマ一秒でも早くあの異質な匂いを嗅ぎ取っていれば。
伊能は鴨原のことを少しも疑っていなかった。従ってコーヒーを口に運ぶになんの躊躇いもなかったのだが、鴨原は伊能に対する心遣いとしていち早く飲んでみせたかったのだろう。その分だけ口にするのが早かった。むろん、そのような毒物が入っているとは夢にも思わなかったのだ。
――どこのだれだか知らないが絶対に許さない。必ず相応の報復をしてやる。
秦が伊能の背中を軽く叩きながら言った。
「伊能さん。お疲れでした。その上に忙しい身の上かとは思いますが、本部での捜査会議に出てもらえませんでしょうか。お話を詳しく聞かせて欲しいのです。彼は大丈夫、きっと回復します。ドクターがいってましたよ。これほど心臓が強い人も珍しいと」
午後の十一時をまわっていたが、捜査本部には聞き込みにでている数人を除いた全員が残っていて懸命に骨折した男の照会を続けていた。むろん、みな庁内の仮宿泊所への泊まり込みで帰宅するなどは考えていない。
「秦さん、鴨原を知っていたといいましたね」
佐野がそういって秦を振り返った。伊能も秦を見た。
「はい、知っておりました」
「どうして知っているんですか」
今度は伊能が聞いた。
「鴨原良一は四谷大英文科の出身ですが、在学中は学生運動家でした。伊能さん、そうですよね」
「いえ、わたしは高校時代の彼しか知らないのです」
そうか、バスケのライバルだったか、と秦は気がついた。
「そうですか・・・じつは彼の卒業間際だったと思いますが、原発反対、米軍基地反対などを叫んで学生達が久しぶりに気勢を上げた年がありました。四谷大グループも例のスタイルでアジ演説を盛んにやったのですが、その時マイクを握る男の傍らで手話でその演説の通訳をやっていた男がいたんです。そのグループの演説には、毎回必ずその男の手話通訳がついたものですから、新聞にも載り、首都圏ではちょっとした話題になったんです」
ちょっと、待ってください、と伊能がせわしなく秦を押しとどめた。
「鴨原が手話ですって?」
「ええ、なにか」
伊能は目を細めて何かを思い出そうとしていた。
「鴨原が気を失う直前に妙な指の動かし方をしたのです。苦痛の表現だとばかり思っていたのですが・・・」
今度は秦がせわしなく聞いた。
「伊能さん、その指の動きを再現できませんか。鴨原はなにかを伊能さんに伝えたかったのではありませんか」
伊能は視点を宙の一点に据えると石像のようになった。
「この静野君は手話ができるんです」
秦がひとりの女性刑事をさして言った。
「秦さん、それは無理でしょう。いくらなんでも」
佐野も周囲の誰もがそう思った。しかし秦はそうは思っていないらしくじっと伊能をみつめている。伊能はゆっくりと視線を秦にもどすと、こう言った。
「できないじゃ鴨原が可哀想です。静野さん、お願いできますか。やってみます」
息を詰めて秦と伊能のやりとりを見守っていた全員が一斉に吐息をもらした。




