バード倒れる
恐怖を覚えた鴨原は無言の気合いを籠めて腕を振りほどこうとした。しかし、掴まれた腕は伊能の万力のような握力のために肩が痺れて力が入らない。
「よせ。タクシーの運転手は藻掻いたために鎖骨が折れた」
鴨原の目が形容しがたい色に変わった。伊能の握力は生身の人間のものとは思えないものだった。
――うっ・・・あの辰造が・・・鎖骨をやったと言ったが、そうでもしなければ俺のことは吐かんだろう・・・こいつは本当にやったのだ。
「や、やる気か」
「やらんさ。君は頼みを聞いてくれるのだもの」
伊能は急に手を引いた。鴨原の腕にどっと血流がもどり直射日光があたったような暖かみがもどった。
「参ったな。人間わざじゃないな。伊能はなんとか研究所にまだいるんだろう? 荒っぽいことには縁がないはずだ。どうしてこんなことをするんだ」
「それはあとで話す。さ、早く堺の行く先を探してくれ。堺をさらった男は途中で別の三人組にひきわたし、そのあとは知らないといっている」
伊能が自分のことをあとで話すと言ったのはまんざら方便ではなかった。鴨原になら木枯らしの刺客のことを打ち明けて相談に乗ってもらってもいいのではないかと思ったのである。
鴨原は潔かった。
こいつには叶わない。札幌で出会ってしまったのがそもそも不運だった。またしても完敗だ。
「わかった。まあ、入ってくれ。話を聞かなくてはそこから先は俺にもわからんのだ」
鴨原は腕をさすりながらエレベータの前に進んだ。
鴨原の部屋はそのマンションの最上階にあった。広いリビングルームがあり、淡い間接照明が施された周囲の壁には大小の絵が架かっている。
「このセザンヌはひょっとしたら本物か」
「本物だ」
「こっちのは鴨原が描いたのか」
「そうだ」
「才能があるんだな。もっとも芸術がわからない俺に褒められても、あんまり嬉しくはないだろう」
「あんたの運動神経と比べればたいしたもんじゃないさ。さて。どうせ今回は丸ごと俺の出費だ。たのみには協力する。だがこちらも条件をだしていいか」
「いってみろ」
「ここを引っ越すのは嫌なんだ。これだけの絵や彫刻を飾るために空調や照明などでずいぶん金と時間をつかった。俺のこと。俺がここに住んでいるということは秘密にしてもらえるか。伊能はサツの人間じゃないんだろう?」
「承知した」
「それともうひとつ」
「なんだ」
「こいつは俺の貸しということに欲しい」
「いつか、あんたのために働けと?」
「そうだ」
伊能はわずかの間をおいて、「承知した」と答えた。鴨原は肯いた。
「で、辰造はなんと言った。あ、おい、辰造はどうした。まさか放りっぱなしじゃないだろうな」
「一一九に電話をした」
「そうか。一寸やばいがこの際は仕方がないな。やつが依頼されたのは誘拐だけでそのあとは他の人間がやることになっていた」
「やつも成増の空き地で引き渡したと言っていた」
「成増か、ほう。渡した相手についてはどう言っていた」
「三人いたそうだ。離れたところに黒っぽいワゴンがあったが、番号などはよくはわからなかったが。ただ、ひとりはイラン人のようにみえたそうだ」
「ふん、ま、見当はつくよ。ちょっと、ひとつふたつ電話をかけるが、三人組の雇い主がそれではっきりとするはずだ。そうすれば俺がそいつと交渉して聞き出してやる」
「そうか。たのむ」
そういって伊能は頭を下げたが上げた顔に笑顔があった。
「女がいるんだな」
ん? という鴨原に、
「香水の匂いがする」
鴨原はまたも苦笑いをせざるを得なかった。
「するか」
「ああ」
(俺にもいたんだ・・・)
「伊能には隠せんな。しかし二日前の匂いがまだ残っているとはな。俺も鼻は利く方なんだが。コーヒーを飲むか」
「二日前?」
伊能の目が光った。
「そうだ」
「おかしい。これは十時間以内の匂いだ。二日など経っては俺には無理だ」
コーヒーを入れに立った鴨原の動きがとまった。険しい顔でなにかを考えている。
――ユリには鍵を渡していた。しかし自分に無断では決してここに来ないはずだった。そういう約束をしっかり守るところがあの女の良いところなのだ。それが今日、俺の留守のあいだに来たってか・・・なんのために。
「ちょっと待ってくれ」
鴨原は中央のドアを開けて隣の部屋に入った。アトリエや寝室があるのだろう。三分ほどすると首を横にふりながらでてきた。そこには何事もなかったようである。
次にはキチンと浴室にゆき、さらになにかを調べて回った。伊能はそのあいだソファに座ったまま壁の絵を黙ってながめていた。
「なにも変わってない。なくなっているものもない。俺の一番大事なこの手帳もあった」
鴨原はソファには腰をおろさず立ったままで伊能にそう言った。
「それは大丈夫か。写真を撮られるとか書き写されるとかしてないか」
「まさか、そんなヌケたしまい方はしてない。それに万が一見られても、俺にしか解読できないようになっている」
「信用できる女なのか、このユミというのは」
鴨原は眉を上げたが、伊能の視線の先にあるものをみると苦笑いをした。壁に見事なヌードのデッサンが飾ってあり、隅に小さくyumiとあった。鴨原は携帯電話をとりだしボタンをはじいた。しかし応答はないようである。首をかしげた鴨原に伊能はいいにくそうにこう言った。
「信用はできても脅迫されて仕方なくということもあるだろう。なにか仕掛けられたということはないのか。盗聴マイクとか」
鴨原の顔がゆがんだ。誰がなんのためにとはいえない。自分に対してそういうことをやりたい連中は少なくないのだ。伊能はポケットから小さなリモコン操作機のようなものを取り出した。
「これで調べていいか」
「なんだい、それは」
「盗聴なら多分電波を使って外に出す方式だろう。マイクロレコーダなどはモーターの音で気づかれる恐れがある。あんたの注意深さならな。ちょっと手を叩いてみてくれ。早めに」
伊能は立ち上がるとスイッチを入れた。鴨原が四方に向かって強く両手を叩いているあいだ、伊能はそれを壁や天井に向けながらゆっくりとひと回りした。
「大丈夫なようだ」
「そうか。それにしても伊能はそういうものに用がある身の上ということか」
鴨原はあらためて伊能の顔をみた。
「これは自分で作った。内職でね」
伊能は鴨原の問いに直接は答えず、それだけをいうと、ぱちりと音をさせ再びポケットにしまいこんだ。
「これはますます、おまえさんを逃がすわけにはいかなくなったな。ま、ユミにはあとで聞いてみる。明日来るんだ」
鴨原はコーヒーをカップに移しながら、ときに、と言った。
「どうしてここがわかった? ユミの他には誰にもここは教えていないんだがな」
「札幌で、あれからふたりで近くのホテルに入って飯を食ったが、あんたはそこの売店で大きな木彫りの熊を買って東京に送ったじゃないか。あれがそれだろう」
伊能はちらりと壁際にある彫刻を見た。
「その送り状を見たのか」
「そうだ。むろん、怪しいやつだからと思って盗み見たのじゃない。その時はな。だが見えてしまって覚えてしまって・・・」
「信じよう。あんたの記憶力、はいや視力も聴力も運動神経同様に人並み外れているということだ。毒味がいるか」
「まさか」
伊能はカップを取り上げ口元に持ってきたが、その瞬間、「飲むな!」と叫び、鴨原のカップを手で叩き落とした。
鴨原は目を丸くし口に入れたコーヒーをがっと吐き出すと前屈みに倒れた。伊能は素早く立ち上がると鴨原を抱え起こし指を口深くつっこんだ。鴨原はわずかに反応して少し吐いたが、顔色はあっという間に紙のように白くなり、右手で少し宙を掻くとすぐに折れたように首を垂れてしまった。
「鴨原、死ぬな! 死ぬなよ」
伊能は携帯電話を取り出して一一九番につなぐと同時に、鴨原を絨毯の上に横たえて人工呼吸を開始した。




