伊能&バード再会
鴨原は時間をかけて尾行がないことを十分に確かめてから自分のマンションに向かった。警察はうまく巻いたものの今回は失敗だった。
玄関の扉はコードを叩いて開ける仕組みだった。周囲には誰もいないが、そんな時でも油断のない鴨原は体で指先を隠すようにしてすばやくキーを叩いた。厚いガラス扉が開いて鴨原が体を擦るようにして入った、そのときだった。
音もなく現れた影が恰も鴨原の影であるかのように一緒に入ってきた。入り口には植えこみなどの死角となる遮蔽物はない。男はまさに地から湧いたように出てきたのである。
鴨原はその瞬間、かつて味わった不思議な体験を思い出した。防御陣の一角が空いたと判断して素早いパスを味方に放った瞬間、信じられない角度から現れてそれを奪ってゆく男がいた。
――・・・あいつだ。伊能か。どうしてここにいる。誰も知らないはずなのに。
ゆっくりと振り向いた鴫原に、その男は昨日もあったばかりだというように、や、と小さく手を上げた。
「伊能・・・」
「待っていた」
「待ったか」
「一時間ほどだ」
「まあ、立っていてもなんだから、ここで話そうじゃないか」
鴨原はロビーの片隅にある、竹細工の衝立で仕切られた応接セットに伊能を誘った。
「元気そうで結構だ」
「そちらも元気そうでなによりだ」
鴨原は苦笑いをしながも、伊能を抱きかかえるように両手をひろげた。
「頼みがある。ミスター・バード」
大きく広げた鴫原の両手が止まり、ばさっと鳥の羽のように下に下ろされた。
「バード、と言ったか」
「そう言った」
鴨原はじっと伊能の顔に視線を当てていたが、やがて軽く首を上下にふりながらソファに腰をおろした。伊能も向かいに腰をおろした。
「どうしてあんな入り方をした。どうしてここを知った。いや、どうして俺をバードと呼んだ」
「札幌の植物園であんたと会ったときに知った」
「なに」
三年前の札幌での出会いは偶然だった。
高校時代の鴨原は高校バスケット界屈指のシューティングガードとして知られていたが、画才においても将来を嘱望される高校生だったことは報じられていない。
鴨原はその日、市内にある北大植物園の中の博物館でエゾ狼の剥製に向かってスケッチブックを広げていた。鴨原は狼が好きだった。滅びたものの哀れさがよけい心を揺すぶるのかもしれない。明治の中期に姿を消してしまったその種は剥製でさえ、そこにいる雌雄一対が唯一のものだという。
――今年の干支の戌にはこれを使おう。
(うまいものだな)
うしろから声がかかり、鴨原は緊張しつつも体の柔軟性を保ちながらゆっくりと振り返った。そこに長身の男がいた。八十五センチの自分よりまた少し高い。
(あ)
思わず声が出た。
(これはこれは、宮高の伊能亮一)
ふたりは旧友のように手を握り合った。
(奇遇だな。鴨原良一。久し振りだ)
(ああ。しかし、あんたが俺を覚えていてくれたとは光栄だな)
(忘れるものか。うちはあんたにはずいぶん悩まされた)
(あんたがマークにつくまではな)
(俺も必死だったさ)
(嘘をつけ。まだ余裕があったはずだ。悔しかったが、これはものがちがうと思ったよ)
(なにをいう。それより鴨原、せっかくだ。時間があるのなら一緒に飯でも食おうじゃないか)
言葉を交わしたのはこれが最初であったにも関わらず、すぐにお互いを呼び捨てにできる心のかよいがあった。
(いいとも。そうしよう)
鴨原は久しぶりに心が弾んだ。伊能は自分たちの野望をうち砕いた憎き敵ではあったが、その技術とフェアなプレイには感服するしかなかった。マスコミは東西のリョーイチ対決などと囃したが、鴨原には自分がその期待からほど遠いということが最初のコンタクトでわかった。
過去二桁の優勝回数を誇り、かつ前年まで三連覇を遂げていたバスケット界の名門洛北高校は、伊能によってエースの鴨原が完封され大差で敗れたのであった。
冬季閉園が近いとあって園内に人は少ない。ふたりはハルニレの古木の下の枯れかけた芝生に座り、十二年前の大会のあれこれを語らい合った。
(あのあと、俺はあんたの試合は全部みせてもらった)
(知っていた。決勝のときはゴールのちょっと横の方にいたじゃないか)
(やっぱり、知っていたか)
その時、虫の鳴くような音が聞こえ、鴨原は失礼といって立ち上がると木の反対側に回った。携帯電話の呼び出しだったのだが人に聞かれたくない電話なのだろう。
「その時、聞こえたんだ。俺だ。バードだ、と言ったのが」
鴨原が疑わしそうな目で伊能をみた。
「本当か」
「ああ」
「そうか、迂闊だったな。あれが聞こえたとはな。なあるほど。伊能の耳は兎の耳。伊能の目は鷹の目だと新聞に誰かが書いていた」
「ははは、そんなことはないよ。すまん。盗み聞くつもりは全くなかった。だから俺も立ち上がってそこから少し離れたんだ」
「そうだったな」
いくら兎の耳でもなにかトリックがあったのではないかと、鴨原の頭脳は目まぐるしく回転したが、答えは得られなかった。
「で?」
「バードに頼みがある」
「いかにも俺は友達にはバードといっているよ。だが、伊能、どうして俺がバードを名乗るか知っているか」
「鴨だからかな?」
「鴨ならダックだ」
「じゃ。わからん」
「やはりな。あんたらしいよ。バードとは伊能、あんたのことだ。だったというべきかな。当時、マスコミの一部が伊能にその愛称を奉ったんだ。あんたの素晴らしい跳躍力にはそのネーミングがぴったりだった」
「それは知らなかった」
「それにあやかったんだ」
「そうか」
「で、頼みというのはなんだ」
「俺の知人が誘拐された。車に乗せてガスで眠らせた誘拐犯人が、その仕事はバードからもらったと言った」
――なに、ガスでだと! どうしてそんなことまで知ってるんだ! まさか・・・
「おいおい。穏やかじゃないぞ。なんだい、誘拐犯人とかガスとかいうのは。しらんぞ。そんなことは」
鴨原がそう言い捨てて立ち上がると、恰も紐がついていたように伊能も立ち上がりすっと寄ってきて顔を近づけると、低い押し殺した声でこう言った。
「印刷工なら腕のいいのをふたりほど斡旋できる」
「なに」
鴨原は表情を変えた。
「君はそう言ったのだ。あの時の携帯で」
「・・・!」
鴨原の顔に鋭く剣呑なものが現れたが伊能は言葉を続けた。
「それから数週間ほど経って、札銀を舞台にした有価証券偽造事件が起きたというニュースが小さな記事で出た」
「それと俺を結びつけるのか。ひどいじゃないか。あんまりというものだ」
「無論、結びつけたのはその時じゃない、今日だ。あんまりなのは君だ。時間がもったいない。わたしの知人、堺公人がどこにいるか教えてくれ。君なら探せるはずだ。闇の人材斡旋人、ミスター・バード」
伸びてきた伊能の腕を鴨原はかわすことができなかった。反射神経には鴨原も自信があった。素早く伸びてきたのであればあるいはかわせたかもしれない。しかし伊能の腕の動きはちがう。むしろのろのろと伸びて来た。それが鴨原自慢の反射神経の反応を押さえたのだ。
鴫原はかつてコート上で伊能のカットインやスルーパスが、その動きゆえにどうしても止められなかったことを思い出した。反射神経にも視力でいうところの盲点があることをその時に初めて知ったのだった。
「頼みを聞かぬとあれば腕の骨を砕く。君は絵を描けなくなる。彫刻もできなくなる」
伊能は声を潜めてそう言った。




