タクシー運転手逃亡
ひとりの制服警官が佐野に近寄ってきた。
「来たか」
佐野が警官の指さす方を見ると、グレイのコートを着て顔に薄いサングラスをかけた長身の男がロープの傍にいた。
「いいよ。とおして」
その言葉が聞こえたらしく、飛んだともみえなかったのに伊能はもうロープの内側におり、そのまますべるような速さで佐野のもとにやってきた。伊能はどの男が指揮官かを知っていたようだ。
佐野は、おや、と思った。
・・・科学者か研究者か。
「伊能です」
「佐野です。わけは知りませんが、遠山さんに絶大な信用があるようですね。よろしく頼みます」
自分は仙台での一件についてはなにも聞いていない、と言外に匂わせる挨拶をしたのだが、じっさい坂の上でのことまでは遠山は語っていない。
「はい」
「あの車ですが、伊能さん、なにをしたいのかをまず言ってくれますか」
「運転手はどう言ってます」
「運転手ですか」
「きょとんとしているんじゃないですか」
佐野は興味深げに集まってきた部下の顔を見ながら少し考えてしまった。その通りだったからである。
「どうして、そう思うんです」
「もっと傍によって車を見ていいですか。触りませんから」
伊能は佐野の問いには答えず、ゆっくりと車に近寄ると、背を屈伸させながら車の後部を眺めた。それから背を伸ばすと広い駐車場にある十数台の同じタイプのタクシーを眺めた。
「ないですね」
「なにがないんです」
「あの時の車がないのです」
いかつい顔をした北野が自前の尖った目で言った。
「あんた。なにを言っているんだ。これがそうじゃないか」
「これじゃない」
刑事たちは顔を見合わせた。
「これじゃないって? じゃあ、なんです。あんたが見たのはこの車でしょう。標識、番号、ぴったしだ。どういうお仕事の人かは存じ上げないが素晴らしい記憶力ですな」
いくぶん皮肉をこめて北野はそう言ったのだが、伊能はそれには取り合わなかった。
「佐野さん、これはわたしが見た車ではない。こういうことになるのではないか、と思ったので見たかったんです」
「どういうことですか」
「堺さんを乗せたタクシーにはトランクの左うしろに小さな凹みがあったんですが、これにはそれがありません。念のため最近修理した跡があるのかと思ってみたのですが、それもない」
刑事たちは首をひねった。この男、気がおかしいのではと思い始めた刑事もいた。佐野はどんな不思議なことを言っても心して応対するようにと遠山から言われていたのだが、伊能をもっとよく知りたい気持ちから敢えて部下の食い下がりを任せた。
「驚いたね。普通、事前によく見ておけといってさえ気がつかないようなことを、あんたはどうして知ってるんです」
「気がついたからというほかはないですね」
にべもない返事に周囲は鼻白んだ。秦が穏やかに割って入った。
「伊能さん。お世話になります。秦と申します。無い、と言ったのはその凹みのある車がここには無いという意味ですね」
「そうです」
そう言った伊能の目が動いた。
「ゆっくり体を回して下さい」
伊能はほとんど唇を動かさずに、しかし明瞭な発声で言った。
「今入ってきた車。佐野さんのちょうど真後ろです。今、ガススタンドの横に停車しました」
それから少し向きを変えて、刑事達の後ろに遠慮がちに立っている小太りの男に言った。
「今帰ってきた運転手さんは昔からおつとめの方ですか」
営業所長は伊能も警察の人間だと思ったようである。
「あれは影浦甚吉といいまして、三ヶ月ほど前に入れた男です。まじめで成績もいい男ですが」
「同じところに凹みがある」
「なんだって」
驚きつつも選抜された刑事たちである。いきなり振り返ることはせずに、ゆっくりとあるいは遠回りに体を回した。
――マジかよ。ここからで凹みが見えるのか。ま、光の加減ということもあるだろうがな。しかし、俺たちはこやつのだぼらにつき合わされているのじゃないだろうな。
「影浦はガスアップに立ち寄ったでしょう」
所長が言った。
「そのようですね。これから事務所に入って一服というところのようですが、押さえるかそれとも泳がせるか」
佐野は伊能がひとりごとのように呟いた言葉を聞いて、どうしましょうか、と危うく指示を仰ぎそうになったのだが、そんな自分に苦笑すると、すぐに確保するという指示を出した。刑事たちはさりげなく動き始めた。
「伊能さん。あなたはここにいて下さい」
「はい。しかし、あの男のみてくれに騙されないようにしてください。かなり体がききますよ」
俺たちが騙される? まあ素人さん、みてなさいって。
刑事たちは表情をひきしめながらも――寒さはそういう演技にはちょうどよかった――さあてここは終わった。あとは事務所に入って営業日誌でもみせてもらって引き上げるか、という調子で三々五々に歩き始めた。
刑事たちは事務所の入り口の近くで影浦運転手と丁度鉢合わせのタイミングになった。巨漢の有田を従えた佐野が正面から近づき、うしろから何気なさを装って回り込んだ北野たちが退路を断つ位置を占めた。近くで見る影浦甚吉は油断のない顔つきをしていて全身から漂うのは無頼者のそれだった。有田は心中呻った。
――こいつはホンボシだ。
「もし。ちょっとよろしいですか」
佐野はそういって開いた身分証を見せた。影浦は声をかけられるとは思っていなかったらしく、少しまごついた表情になった。
「あ、警察の人なの。なあに、事故?」
「ええ。ちょっと」
佐野はみんなから聞いたことをあんたにも聞くのだという軽い調子で言った。影浦は、それをそのまま受け取るような素人ではなかったが、誰にもナンバープレートなどは見られてない自信があったから、あのことで警察がここに来るはずがないと思っていた。
――それにしてもおかしいな。こいつらはただの交通事故などで出張ってくるようなデカじゃない。
さらにはまた、高額の報酬に見合うだけの念入りな仕事をする彼は、車のナンバープレートを細工するという保険までかけており、万ヶ一だれかが車の番号を覚えていても、気の毒な同僚の前科持ちが自分の身代りにしょっぴかれるはずだった。
――へんだな。こいつらえらく気合いが入っているじゃないか。ガキでもひき逃げされたかな。
その時、影浦の目にその解答を示唆するものが映った。ひとりだけ離れて立ち反対側の杉林の方を眺めている長身の男である。
――お? やつは?
堺が手を上げながら車道に沿って歩き始めたのを見て、すかさず空車灯を点けて近寄ったときのことである。堺と少し離れて向こうから歩いてくる背の高い男がいた。堺は知り合いらしく、そちらに軽く頭を下げたようにみえたが長身の男は見もせずに通り過ぎていってしまった。もし、ふたりが挨拶を交わすようなら作戦を変えねばなるまいと案じていた影浦は安堵した。首尾よく堺を乗せた後も、ルームミラーを使って離れて行くその後姿を見守ったのだが、男は一度も振り向かなかったのである。
――どうも神経質になりすぎたようだ。
影浦はそう結論した。
――ま、どうせありきたりの質問だ。皆さんにお尋ねしていることです、というやつだろう。証拠はなにもない。絶対にな。
「影浦さんとおっしゃるんですね。あのトランクのうしろの凹み、あれはいつからですか」
「は? ああ、あれですか」
――あ、ばれてるよ・・・どうしてだ??
灯りを消して堺を待っている間、影浦は車の窓から外を見ていたのだが、すぐ横の芝生の上に黒ずんだ小さな塊が何個か転がっているのが目に入った。上をみると大きなクルミの木がある。
――ほうクルミだ。ガキの頃はよく拾って割って食ったっけ。今じゃ誰も拾わないんだ。もったいないこったな。
そう思ったらいつのまにか影浦は車をおりて三個ほど拾った。果肉を落として実を取りだし、そして乱暴にも車のボンネットの上にそれを置いて、拾った石くれでガンと撃ったのだが、クルミは割れずに逆にボンネットが少しへこんでしまった。
――あ、なんだよ。やわなもんだな。チョ、どうせ会社の車だからな。おっといけねえ、そろそろやつが出てくる時間だぞ。こんなことをやっている場合じゃないんだ。
影浦は背後に立った男達が一歩前に出る気配を知った。彼の経験豊かな頭脳がクルミの郷愁を放り出して回転を始めると、全身の筋肉は大急ぎで血液を集めだした。
駐車場の裏手は小高い杉林で、その中に長い石段があった。そこを登り詰めると上は古びた神社だが、うしろに抜けて低い柵を飛び越えれば、小さな家が密集している住宅街だった。そこに紛れ込めば巻ける。影浦には成算があった。まさかハジキで背中を撃つことはないだろう。
「え、凹み? そんなものありますか、気がつかなかったなあ。それにしても今日は暑いですね。冬とは思えませんよ」
影浦は細い目をさらに細くしてゆっくりと制服を脱いだ。
あ、と上着を投げつけられた北野が声を出したとき、影浦は反転し、正面にいた刑事に体当たりをかませると、怒声とともにつっこんできたもう一人の刑事のタックルを見事にかわし、洗車機の方に向かって疾走した。
伊能の言葉に半信半疑だった佐野は敢えてボディの凹みに言及し、それに対する反応を見ようとしたのだが、男の反応の鋭さは予想外だった。
「この野郎。逃すな」
秦と佐野を残したすべての刑事が猟犬のようにあとを追った。しかし影浦の身の軽さは恐るべきものだった。どうやら中年にさしかかっているようにみえた風采は擬態だった。今しがた洗車機から姿を現したばかりの車の屋根に飛び乗ると、そこを踏み台にして洗車機の上に飛び移り二メートルほどの高さのブロック塀の上端に足を乗せると、体操の選手のように体を回して鮮やかに有刺鉄線を越えて塀の外へ飛び降りてしまった。
すべてはあっという間の出来事で、一番早く反応した刑事でさえ塀にはまだ五メートルもの距離があった。
「回れ。あっちから回れ」
佐野は恥じた。伊能を信じるべきだったのである。そうでなくても事務室に入る前は凹みのことなど口に出してはならなかった。佐野は貴重な情報をもたらしてくれた伊能と斡旋をしてくれた遠山に対して面目を失なったことを知った。
しかし、唇を噛む思いで振り返ったそこに伊能の姿はなかった。
「・・・秦さん。伊能さんは」
「やつを追って出てゆきました」
秦はあらぬ方向に目をやっていた。
「え? どこへです。どこからです」
「あそこです」
秦の指さす方にも有刺鉄線を巡らせたコンクリートブロックの塀があった。しかし影浦が踏み台にした車のようなものはそこにはない。秦は佐野の耳元でこう言った。
「ひとっ飛びで塀の上ですよ。驚きましたね。室長が内緒にと言ったわけがわかりましたよ。あの男が上着を投げつけた瞬間にもうスタートを切ったんですが、方向を読み違えたかとわたしも思ったのですが・・・警視、ひょっとすると・・・」




