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暗闘  作者: 伊藤むねお
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24/52

伊能の宿命

 しかしながら遠山は、その後に伊能を訪れた過酷な運命を知らない。毎年木枯らしが吹く頃になると、正体不明の刺客に襲われるのだ。

 最初に刺客が現れたのは東京に出てきた年の初冬だった。

 自由ヶ丘裏のアパートから奥沢に抜ける道に私鉄の狭いガードがあった。刺客はそこの隘路を利用して車で伊能をひき殺しにかかったのである。その道は乗用車がやっと通れるほどの狭いもので、両側は苔蒸した古いレンガの壁だった。常人ならば逃れるすべもなく跳ねとばされるか、壁で擦り潰されるかしただろう。

 だが伊能には覚悟と用心があった。

 伊能は遠山を信じた。明晰な頭脳と果断な決断力を以て出世街道を歩む遠山に歪んだ影はないと見たのである。

 しかしながら、伊能にはその遠山にも劣らぬ頭脳に加えて、小学四年生にして主婦(?)となって、世事に疎い父親の面倒をみて成長したという稀有なキャリアがあったのである。一方世事には疎くても著名な社会科学者でもあった父親の薫陶もあり、物事を距離を置いたところから眺めるという思考方法が小学生のころから身についていた。心理的盲点ができにくい思考方法が身についていた。

 その伊能が思ったのは、どんなに晴天が続いてもいつかは雨が降るのと同じように、秘密というものは必ず洩れるものだということだった。そしてそれは秘密の重要性に比例する、即ち重要なことであるほど洩れ易い。

 かつての仙台の事件においても、他人が自分の関与を知る機会はいくらでもあった。坂道で遠山と二人で車のナンバーを読みとった時もそうで、脇を通る車の中にいた人が、当時の仙台では顔を知られていた自分を知らなかったという保証はないのだ。目がいい記憶力がいいという人間などは世の中には大勢いる。張り込みに使った不動産屋も同じだろう。あの程度の変装では少し目の利いた人間なら容易に見抜けるだろう。

 そして自分の関与が知られれば、あの事件の陰惨さと奇怪さからして、贈賄、収賄側の両者あるいは暴力団関係、あるいはまた一部の警察・検察・司法の関係者(伊能にはなぜかその思いが消えない)などから何らかの危険なアクセスが、つまりは報復がやってくるのではないか。

 もし報復が来たらどうする。

 警察に保護を求める。

 伊能はそれだけは死んでもいやだと思った。自分をそっとして置いて欲しいと願う以上、リバウンドは自分で拾うべきだ。ともかくもあの夏の思い出すだに鳥肌が立つあのカラ騒ぎは、大袈裟でなく死んでも二度とは味わいたくなかった。

(いいさ。ワンマンチームで行くんだ。自分で打ったシュートは自分でフォローする)

 かつて伊能が考案して自らに課して行ったバスケの一対五の過酷なトレーニングになぞらえ、こう呟いたのだった。

(歳をとって衰えが来たらどうする)

 それは経験と装備で対抗すればいい。その内には報復者もまた衰え、あきらめ、そしては死を迎えるにちがいない。

 伊能はそれまで格闘技には一度も手を染めたことがなかった。バスケットボールは敵方との肉体接触を禁止するというユニークな競技で、同じスポーツでも相手を殴って脳震盪を起こさせた方が勝ち、というボクシングとは対極に位置する。しかしながら伊能にはそれにさえも負けないという感得があった。

 高校三年の春、友人につれられて、市内のボクシングジムを見学にいった。そのジムのナンバーワンだという東洋チャンピオンがスパーリングをしていたのだが、その繰り出されるパンチが伊能には子供の遊びのようにしか見えなかった。パンチを出す前の予備動作が大きすぎるのである。

 伊能はおかしかった。それなのにただ突っ立ったままでそのパンチを受けてしまう相手は、もっとどうかしていた。自分なら簡単にかわせる。たとえ勝てないまでも決して負けない。


 そのガードの道は緩やかにカーブをしていたのだが、刺客は伊能の姿を認めてからスタートした。

 刺客は知らなかったようだが、伊能が最大の武器としているのは反射神経でも跳躍力でもなかった。すぐれた視力と聴力で――嗅覚、味覚も――対象物の不自然さを瞬時に見抜く鑑別力と、寸秒のあいだに対策が立つ頭脳だった。

 不幸な刺客は自分がすでに警戒されているとは少しも思わなかった。そう思うにはあまりにも距離がありすぎた。刺客は何度か練習をしたようで、伊能が逃げ場のない陸橋下の中央部にいる時に、全速力でぶつかれるようにタイミングを合わせていた。

 覚悟はしていた伊能ではあったが、まさかとも思っていた。さすがにこのときは胴震いを覚えた。緊張感が一秒の内に全身に行き渡ると、頭髪から爪先までがフイゴを押されたコークスのように熱く燃え、そしてすぐに冷めた。冷めた頭脳が間髪を置かずに戦術を組み立てた。

 伊能は足首のキック力を使った。これは伊能独特の技でバスケットのプレイ時に用いると相手は苦もなくひっかかったのだが、両足の運びを変えずに歩行、走行の速度を大きく変えることができた。人前で披露したことはなかったが、伊能は膝を使わずに足首の力だけで、わずかではあるが身体を浮かすことが出来た。スポーツでは相手デフェンスを振り回すだけの技が、この場合は敵の命を奪う決め技となった。

 刺客ははっとしたはずである。ターゲットはいつのまにか計算外のところまで接近してガード下に入っている。こちらを認めて走った様子もないのに。

 刺客は自分の目を訝り次には頭に血が上り急いでアクセルを踏み込み、車がガード下に猛然と突っ込み始めたとき、伊能は既にガードを抜け出ようとしていた。思い切りアクセルを踏みこんでハンドルをターゲットに向かって切り返したときは遅かった。いや刺客の身を思えば早すぎた。伊能は既にそこにおらず、ターゲットを刎ねとばし側面を擦るだけだったはずの車両は、入り口の角に激突してスピンし、ビリヤードの突き玉のように左右の煉瓦を殺ぎながら猛進し、漸くガードを抜け出た時、凶器の車両は蒸気を噴き出す鉄屑に変わっていた。

 シートベルトとエアバッグのおかげで運転手は意識は失ったものの命だけは取りとめた。意識がもどったあと、なぜそのようになったかがわからないと自分および命令者に弁解をしたはずである。

 伊能はその後、その男が広域暴力団の組員であることを新聞の報道で知った。自分が遠山に最初に電話をしたときの覚悟は不幸にして無駄ではなかった。伊能は現場から巧みに姿を消し警察には出頭しなかった。それもまたかねてからの方針のとおりであった。


 そして、それから一年後、またしても木枯らしの吹く頃に刺客はやってきた。

 それは新宿の歩行者天国においてだった。伊能は日頃から人と擦れ合う混雑は出来る限り避けるようにしていた。ラッシュの電車には乗らない。やむを得ず乗車するときには、常に背後に盾がある位置を保つようにしていた。伊能とても常に完全に心身の好調を保てるものではないからである。

 もっとも完調時であれば、恐らく数十センチの距離から刃物を突き出されてもかわしうる自信があった。それとても、刺客が害意を悟られずに自分にそれほどの距離まで接近しえたとしてのことである。

 その日、友人との会食の時間に間に合うべく、やむを得ず街路の人混みの中を歩いているときは、かねての心得から特に注意を払っていた。そのとき前方に喧嘩らしい怒号が聞こえた。それは土地の暴力団どうしの争いのように聞こえた。歩行者の悲鳴が聞こえ、周囲の人の波が大きくうねった。その波が左右に開いたところからひとりの男が逃げてきて、うしろを一人の男が追って来る。

 彼らにとってあいにくだったことは、伊能が早くもその喧嘩が茶番であることを見抜いていたことだった。伊能は苦笑をしていた。逃げてくる男の意識が後方の追っ手にではなく前方にあるのが見て取れたからである。

 たったひとりの男の体に傷を負わせるのに、どうしてこんな大袈裟な仕掛けをするのか、とは思わなかった。殺意を隠した仕掛け、それこそが敵の意図する手段であり、あるいは不明ながら目的のようでもあった。もっともその二人組の失敗は折り込み済みで次の手段のための囮――陽動作戦――であるということもありうる。常人であればまさかそこまではという考えを決して排除しないのが、伊能の真骨頂であった。

 それでも連中は素人同然のチンピラなどではなく相応の経験をへた連中のようで、他の歩行者に危害を加えないように気を配っているのは伊能にはありがたかった。逃げてくる男は匕首を持っていて伊能の斜め後ろに逃げ込んだ。追ってきた男も同様に匕首をきらめかせていた。伊能を喧嘩の巻き添えとみせかけて殺ろうという仕掛けのようだった。逃げる男は伊能を盾にする位置に動いた。追いかけてきた男は逃すものかという動きで伊能目がけて体当たりをしてきた。

 いちはやく逃げ散って遠巻きにしていた野次馬の中から悲鳴が上がった。少し冷静な野次馬は、そこに至っても逃げもせずに立ち止まっている間抜けな長身の男に同情をしたかもしれない。

 しかし、匕首が腹部に接する刹那、伊能はなんの助走も予備動作もなく軽く体を宙に舞わせ、傍らに駐車していた乗用車の屋根をロールオーバーして向こう側に下り立つと、そのまま人混みの中に姿を消してしまった。突きだした匕首は伊能を盾にした男の太股に突き刺さった。

 ふたりの刺客が喜劇的にもつれあって倒れ伏したその時だった。車の屋根から路上に降りた伊能は、道を挟んだビルの五階に素早く姿を消す人の影を見たのである。

(観ていた・・・)

 のちにそのビルを訪れた伊能は、その部屋が空き部屋であることを知った。


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