愉快で過激なお見合い
煌びやかな衣装をまとった歌姫が歌いあげているのは二人の男を天秤にかけている恋の歌だ。
一人は情熱的に愛してくれるが、貧乏な画家。もう一人は自分の名誉と名声にしか興味のない、けれど何でも買ってくれるお金持ち。
歌姫は金持ちに買ってもらった宝石を金に換え、画家のパトロンとして資金を注ぎこんでいく。
「――ねぇ、最後はどうなるんだったかしら?」
眼下から響き渡る歌声はそれは素晴らしいものだったが、キリエは肘掛に肘と頬を預けて落ちようとする瞼をやる気無さげに押し上げていた。
何年も前に母の趣味で連れて来られた時に見た歌劇のはずだが、細かい内容は覚えていないのだ。
「確か、成金の男に宝石を売っていたことがばれて、歌姫が画家に刺されて終わったかと」
そんな最後だったかもしれない。
当時はよくもまぁこんな題材の時に娘を連れてやってきたものだと母のセンスに驚いたものだ。
「あなた、こんな歌劇を観る趣味があったの?」
振り返らずとも分かるほど直立不動でボックス席の隅に立つ男に声をかけると、男は「いいえ」と無感情に言う。
「知っているのはこの歌劇だけです。上司に連れられてきたので」
物珍しかったのでよく覚えているのだ、と付け足す男の鉄面皮が照明の落ちた暗がりでは今だけ見られないことに少しだけ惜しく思えてキリエは小さく笑う。
情緒などおよそ解しそうにない無愛想な男と歌劇があまりにも似合いそうになかったのだ。
「同じ歌劇にあたるなんて、あなたも運が無いわね」
舞台の上では今まさに成金男に浮気がばれて歌姫が詰め寄られているところだ。
「この場合、誰が一番罪深いのかしらね?」
底の抜けた鍋のような女だと非難する男と、ぎらぎらの金のスプーンのような男だと詰る女の対決はなかなか面白い。
「女の方は詐欺罪が適用される可能性があります。画家の男は殺人罪ですね。状況的に情状酌量の余地があるとは思いますが、どちらの罪が重いのかと言えば、刑法上では殺人でしょうか」
案の定、情緒の欠片もない返答が返ってきてキリエはそんな場面でもないのに笑い声をあげてしまった。ここがボックス席で良かった。社交界で絶大な人気を誇る悲恋を笑ったなど知れれば、いくらキリエとはいえ非難されてしまうところだった。
「裏切られたと知って、どうして女を殺すのかしら。手に入れたいなら相手の男を殺せばいいのに」
初めて見た時からの疑問だ。
しかしその疑問に、今度は後ろの男が小さく溜息をつくように笑った。
「裏切られれば殺したい程度の女だったのでしょう」
まるで幼い少女に世の不思議の一つを種明かしするような口調にキリエは口をへし曲げる。
「殺してでも手に入れたい女だったかもしれないでしょ」
苛々と肘掛を指で打つと脇から葡萄酒が差し出される。側卓に置かれた葡萄酒は深く紅く、血のようにも見えた。
「憎める程度の愛なら安いものです」
葡萄酒のゆったりとした揺らめきに合わせるように、冴えた男の声がひどく穏やかだった。
歌劇では画家が歌姫を殺そうと襲いかかっている。
つまらなくて涙が出そうだ。そして隣でキリエの様子を伺っている犬の皮を被った狼も。
「蒸留酒をちょうだい、少佐」
キリエの要望に男、ジョセフは少しだけ目を細めて「はい」と影に吸い込まれるようにして気配を消した。
(本当に、うんざりだわ)
キリエは溜息を払うようにして側卓に残されたままの紅い葡萄酒を飲み干した。
――どうしてこのように退屈な歌劇の場に座らされているのかというと、キリエの父の命令であった。
数日前に父の遣いがキリエに歌劇の日時を伝えて帰っていったのである。
歌劇は社交界で非常に人気のあるものだが、ボックス席に座らされる意味はまた別にある。
お見合いだ。
年に数回の割合で父によって寄せられる見合いを断らないことはキリエが騎士団に入る条件の一つでもあったので、どんなに嫌でも都合のつく限りその席につかなければならなかった。
父が釣り書を持った遣いを寄越す読みは非常に正確で、キリエの仕事がひと段落するまさにその時を狙ってやってくる。断りにくいことこの上ないのである。
ズガガガガガ!
「ああ、なんてこと」
直属の副官を小間使いさせて手にした蒸留酒を片手に、キリエは噴煙の上がった舞台を見下ろしていた。
「これも歌劇の演出かしら?」
「役者が逃げ出しているようですよ」
キリエとジョセフの暢気な会話のあいだにも劇場の壁を穿つ魔術がひっきりなしに打ち込まれている。
先ほどまで愛がどうのと痴情のもつれが演じられていた舞台で明らかに演者ではない男たちが土足で上がりこんで剣や魔術で観客たちを脅して追い出している。
「我々は、暁の同盟団である! 観客共に用は無い! 即刻出て行け!」
舞台の一際目立つ中央で怒号を張り上げた覆面の男は剣を高らかに掲げた。満員御礼だった観客たちは我先にと蟻の子を散らすように逃げていく。演者たちもすでに舞台から消えていた。
「スターバレル・リゼ・フォルケニア! 貴殿がここに居るのは分かっている! 逃亡を図ろうとしても無駄だ! 諦めてその無様な顔をさらすがいい!」
一通り観客たちが逃げ出した劇場はがらんと空になり、覆面男の声は響き渡った。
「スターバレル? 聞いたことのある名前ね」
どこで聞いたか考えながらキリエが蒸留酒を舐めていると「あなたのお見合い相手ですね」と優秀な副官が付け足した。
「ああ、そういえばそんな名前だったかしら」
「お父上の部下だそうですよ」
「それは…色々恨まれているでしょうね」
キリエの父は優秀だが敵の多い人で、その部下も必然的に恨まれることが多い。
「――まだここにいらしてくれたのですか」
キリエたちののんびりとした会話に割り込んできたのは、ボックス席に護衛たちを引きつれてやってきた男だった。品のいいコートとタイでまとめた容姿は無様というよりは、社交界で騒がれるであろうほどには整っている。
「キリエ様ですね。せっかくの出会いの日に無粋な邪魔が入ってしまい申し訳ありません」
「そうでもないわよ。歌劇よりよほど良い見世物だわ」
そう言って蒸留酒を口にするキリエに「さすが騎士団の魔女といわれる御方だ」とスターバレルは微笑んだが、
「観劇にまで軍服とは、あなたは仕事熱心ですね」
観劇とあれば普通の貴族ならばここぞとばかりにドレスをまとうが、キリエはいつもの軍服姿だ。
「似合わないかしら?」
キリエがグラスを片手にゆったりと足を組みかえると、護衛たちまでもが我知らず喉を鳴らした。肌の露出のほとんどない軍服がキリエの魅力を損なうものではないことは、キリエ自身がよく知っている。
「――魔女だなどと口さがない者は言いますが、どんな服であってもあなたは女神のようですよ」
「お上手ね」
スターバレルの半ば熱に浮かされたような顔に満足して、キリエは席を立つ。珍しく気の利いた副官が椅子にかけていたコートをキリエの肩へと上手に乗せる。
「あなたのように私を褒めてくださる方は少ないの。だから今、とても気分がいいわ」
こつ、とキリエがヒールの踵を鳴らすと「ここか!」とボックス席に覆面の仲間とおぼしき男たちが不作法に仕切り幕を暴いた。
「少佐」
キリエの一言で傍らの副官は移動する影のようにして男たちへと襲いかかる。
一瞬にして上がる血飛沫にスターバレルもその護衛たちも短く悲鳴を上げて飛びのいた。
「尋問するから殺しては駄目よ。適当に動けなくして」
返事のかわりにごきり、と何かを折った音と悲鳴がしたが、キリエは無関心に懐を探ってシガーケースを取り出した。ざくり、と葉巻きの頭をナイフで切り落とす。ぽん、と床にその頭が落ちると同じ頃、ごきりごきりと響いていた音は止んだ。
「……あれが…凶兆の狼…」
静かになったボックス席に誰かの絞り出すような囁きが落ちる。
凶兆の狼とはよく名付けたものだ。確かに剣を抜いた副官は狼か、もっと凶悪な獣だ。
「……さすがのお手並みですね。キリエ様」
突然の惨劇に声を震わせたスターバレルがキリエに無理に笑みを作った。ここで逃げ出さないのはさすがに父の部下というところか。
「拷問は得意じゃありませんのよ。普段、そういう業務は含まれておりませんし」
そもそも他人が痛がる様を悦ぶ趣味はキリエにはない。
キリエは葉巻きに火をつける。血生臭さが葉巻きの薫りに消えていく。
「――大佐」
暗がりからのそりと現れたのは先ほど獣であった副官だ。未だ手に剣を提げているが先ほど襲撃者たちを襲ったような獰猛な気配はすっかり消えている。
「下の連中もうるさいわ。せっかくの歌劇が台無しよ」
未だスターバレルを呼びつけて何かしら喚いているのだ。
「わかりました」
副官は短く答えてボックス席の柵を躊躇いもなく乗り越えた。
次いで、何のひねりもない誰何と魔術の爆発音が響き渡る。先ほど観客を追い出した爆発よりも大きい気がするが気のせいだろう。
「キリエ様…彼は…」
もはや声を出すことさえままならないのか、冷や汗だらけの色男にキリエは微笑んで煙を吐く。
「私の部下でしてよ。無駄口を叩かないところだけが取り柄の」
歌劇場を襲った不幸な出来事は一時間も経たずに終わったが、通報されてやってきた警邏中の騎士たちと共にすぐ現場検証が行われた。
キリエははからずも現場での責任者として立つことになってしまった。
現場責任といっても指示を出すのは副官のジョセフの仕事だ。すっかり消沈したスターバレルが事情聴取を受けている様子を他所に、キリエはがれきだらけになった舞台へと足を乗せた。
「ここからの景色もまぁまぁね」
今は現場検証する騎士たちで溢れているが、満員の観客席は圧巻だろう。
「――あなたなら、すぐにその中央へ立てるでしょう」
他の騎士に指示を出していたはずの副官がキリエのそばに立ってそんなことを口にする。
「あらそう? だったら転職しようかしら」
冗談めかして言ったというのに一向に顔色の変わらない副官は、
「あなたが転職されるなら、私は裏方にでも転職します」
実に真面目に答えるのでキリエは思いがけず笑ってしまった。
「そうね、それがいいわ! でもあなた、その無愛想はどうにもならないにしても無口はどうにかしなさい」
「無口、ですか」
こちらも思いもよらなかったのか不思議そうな顔をする副官が珍しくて、キリエは笑い声を漏らした。歌劇の舞台に立っているせいか、特異なことが起こるらしい。
「普段からもう少し喋ってくれてもいいと思うわ。あなた、必要なことしか喋らないんだもの」
「無駄口はお嫌いでしょう」
「考えて物を言えと言ってるのよ」
無駄口は嫌いだが、キリエの喋り相手にもならないのはいただけない。
キリエの少々強引な要求にジョセフは少し考えるように口を閉じて、「では」と切り出した。
「一日一度、あなたを褒め称えましょうか」
キリエは副官の真面目な顔を正面から見据えた。冗談を言っているようには見えない。
「……どこをどうしたらそんな答えになるのかしら」
「先ほど誰も褒めてくれないと仰っていたので」
どこに義務で褒めて欲しい人間がいるだろうか。
「……あなたに無駄口を叩けと言った私が馬鹿だったわ」
「あなたは馬鹿ではありません」
踵を返して舞台を降りるキリエに副官が追いかけてくる。
それを無視してキリエは懐のシガーケースから葉巻きを取り出した。ナイフでさっと頭を切り落として口に咥える。
「大佐」
呼ばれて振り返るなど犬のようだ、と思いながらキリエが半身だけ振り返ると差し出された副官の指先に魔術の火が灯る。
「あなたは、憎んでも愛しても殺せないほど美しい女性です」
――これは彼の言う、一日一度の褒め言葉なのだろうか。
じりじりと葉巻きの先が焦がされて、すぅと煙が糸のように舞う。
キリエは溜息混じりの煙を吸い込んで、吐いた。
「――もういいわ。好き勝手に褒め称えなさい」
呆れ顔のキリエに、少し笑って「はい」と答える副官が憎らしくてキリエは思い切り彼の顔に煙を吹きかけてやった。