07.雨の記憶
昼を過ぎた辺りから、空模様が怪しくなり出した。
(あぁ、嫌だな)
微かに漂う雨の香りに、体が重くなっていく。
「ヴェル、宿屋に戻ろうか」
旅の支度を整えなくてはならない。頭では分かっているのに、行き先を変えたアルラの後を俺は素直についていく。
「アルラ」
「どうした?」
アルラが先ほど屋台で買ったチュロスを頬張る。太陽が雲に隠れ、辺りが一段薄暗くなった。
「雨は、苦手だ」
声が震える。胸辺りの服を乱雑にぐしゃりと握った。
「降らねばよいなぁ」
俺はただ、首を縦に振った。
果物屋の店主が、空を見上げて舌打ちをする。外に出していた品物を持ち上げ、中へと持って入った。
角を曲がった先では、若い女性が怠そうにまだ重そうな洗濯物を取り込んでいる。じわじわと雨の気配が色濃くなっていった。
宿屋の部屋へと無事に辿り着く。瞬間、アルラが窓の外を見て「あぁ……」と、諦めにも似た声を出した。
曇天の空から、雨粒が落ちてくる。それが、どんどんと激しくなり窓を叩いた。
雨の日特有の匂いに、しない筈の鉄臭さが混じった気がして。固まっていた体が、必死に動き出す。
カーテンを掴むと、勢い任せに引っ張った。部屋が一気に暗くなる。足から力が抜け、ずりずりと壁伝いに座り込んだ。
「ヴェル」
アルラに返事をしようとして、喉からヒュッと嫌な音だけが出る。荒くなる呼吸を整えようとしているのに、何故かどんどん息が吸えなくなっていった。
(大丈夫。大丈夫だ。いつものことだろ。慣れてる。紙袋。どこやったっけ)
どくどくと耳元で心音が聞こえた。
「ヴェルユス!」
「んぐっ……?」
口を何かで覆われる。柔らかなそれは、ハンカチだった。チカチカとする視界の中で、焦りを滲ませた金色が光って見えた。
「息を吐くんだ! ほら、ふぅーだったか!? はぁーだったか!?」
アルラの声に導かれるように、何とか息をゆっくりと長く吐き出そうとする。アルラの小さな手が、俺の左手に優しく重なった。そのぬくもりに、段々と息が整っていく。
「はっ、はぁー、わる、い」
もう大丈夫だと判断しハンカチを外した俺に、アルラの表情が微かに緩んだ。ただ重なっていたアルラの手が、ポンポンと跳ねる。
「構わんさ」
ハンカチを持つ右手に、冷や汗が一粒落ちる。その感触が、あの日の肌を刺すような冷たい雨を思い起こさせた。
息が白く色付き、吐き出す側から凍るような。寒い、寒い冬の日だった。
“兄う、え……?”
兄が死んだのは。
「あめ、が、赤い……」
雨の音だけが鮮明に聞こえてくる。ハンカチが手から滑り落ち、床に広がった。それをどこか遠くのことのように眺める。
「ヴェルユス」
アルラが俺を抱き締めてくれた。慰めるように背を撫でる手が、俺を現実に引き戻す。
「ん、アルラ」
俺もアルラの背に、恐る恐ると手を回した。伝わってくる心音に、ほっと目を閉じる。
(生きている)
その事実だけが、俺に慰めを与えた。
だというのに、宿命を忘れるなとでも言うように。右手を貫く古傷が、グズグズと得も言えぬ鈍痛を訴えるのだった。
「今日はもう横になろうか。何も喉を通らんだろうて」
「アルラのご飯」
「沢山、買い食いをしたぞ。しかも、ドーナツは七つと大盤振る舞いだったからな!」
俺はアルラの言葉に甘えて、その日は早々とベッドに横になったのだった。
屋根を叩く雨音が止まない。こういう日は、あの夢を見る。
(寝たくねぇな……)
瞼は勝手に下りていった。
何度も何度も見た光景。その中に、俺は立っていた。
降りだした雨が、石畳に広がる血を押し流していく。地に伏した兄の暗い瞳と目が合った。
込み上げた吐き気に、手で口を覆う。その場に崩れ落ち、情けなく胃の中のものを吐き出した俺をそいつは、ただ見ていた。
「どう、して――■■■■■」
「人を斬ってみたかったから」
当たり前のことのように返ってきたそれ。俺は言葉に詰まり、身を固くする。合ったそいつの目が愉悦に歪んだ。
「僕の持っているこれは何だ? お前が腰に吊るしてるそれは!? 人を斬る玩具じゃないか!! なぁ? ヴェル」
呼吸音が早くなっていく。
「普通は、斬ってみたいと思うだろ?」
思わない。そう反論したくても喉が張り付いて俺の口からは何も出てこなかった。
「斬り合うなら、英雄フォルティス家の嫡男って決めてた」
こちらに近づいてくるそいつをただ見上げる。俺は、まだ信じたかったのかもしれない。
「――こんなものか」
そいつの声には、何の感情もこもっていなかった。瞬間、右手に焼けるような痛みが走る。
「いっ!? あぁあ!?」
「ヴェル。ヴェル! お前が僕を殺しにこい」
「いや、だ。俺は、命を奪いたくない」
声が震える。右手の甲に突き刺さった剣が酷く恐ろしいものに見えた。
「じゃあ、人をたくさん斬るよ」
「は、あ?」
「お前のせいだよ、ヴェル。大勢死ぬんだ。かわいそうにね」
いつも通りの優しい声音だった。それに、肌が粟立つ。
「一緒に頑張ろうって、ヴェルが言ったんだ。嬉しかったなぁ。だから、手を血で汚してよ。僕と、一緒だ」
俺のせいで、大勢の人が死ぬ。俺が、斬る、のか。俺が、こいつを?
「だって僕たち、友達だもんな」
頬の返り血を拭うこともせず、そいつは楽しそうに笑った。




