第6話 合わせるだけでは届かない
仮ペアになっても、床のラインは同じだった。
床のラインに立つ。向かい合う。先生の合図を待つ。
昨日も、同じ線の上に立った。
違うのは、壁際の端末に俺たちの名前が並んでいることだった。
神代玲。
白石凛。
その下に、薄い灰色で《接続波形要確認》。
何度見ても、あまり気分のいい文字ではない。
「神代くん」
「何」
「見るなら、ちゃんと見て」
白石は正面を向いたまま言った。
「端末じゃなくて?」
「……私」
近くのペアが「お」と小さく言った。
白石の目だけが一瞬横へ逃げる。
「実技の話」
「分かってる」
「分かってる顔じゃなかった」
「どんな顔だよ」
「ごまかす前の顔」
返す言葉がなくなる。
城崎先生が手を上げた。
「初期同調、三十秒。接続はまだ行わない。互いの基準を崩すな」
床の中央に白い標的が置かれる。
昨日、他のペアが動かしていたものと同じだ。
今日はまだ触らない。
ただ、俺たちの呼吸と重心に反応して、端末側へ小さく揺れる。
合図。
白石の呼吸が始まる。
さっきから呼吸しているはずなのに、合図のあとで急に細く見える。
肩は動かない。足裏の重心も崩れない。視線はまっすぐ。ただ、息を吸う直前に指先がわずかに沈む。
俺はそれを拾った。
拾って、合わせそうになった。
違う。
合わせるな。
自分の基準を保て。
そう思ったのに、身体は先に動く。相手が転ぶ前に支えるみたいに、相手が言葉に詰まる前に埋めるみたいに。
白石の呼吸が少し乱れた。
耳の奥が軋む。
昨日より強い。
自分の息の端に、白石のものではないかもしれない硬さが刺さる。
焦り、と呼ぶには尖りすぎていた。
白石の目が揺れた。
俺は反射で一歩、彼女に合わせる。
端末が鳴った。
高くも低くもない、嫌な音。
「止めろ」
先生の声が飛ぶ。
俺たちは同時に動きを止めた。
同時。
その言葉のあと、端末の音だけが遅れて消えた。
端末の画面には波形が出ていた。滑らかな線ではない。途中で何度も引っかかり、ところどころで潰れている。
床の標的は、白線の手前で斜めに止まっていた。
動かしていないのに、少しだけ動いて、止まった。
「接続波形が汚い」
城崎先生が言った。
周りのペアがこちらを見る。
白石は唇を結んだ。
「すみません」
俺の声が先に出た。
先生ではなく、白石の目がこちらへ向く。
「今の謝罪、誰に?」
またそれか、と思いかけた。
でも白石の声は昨日より低かった。怒っている。いや、怒りだけじゃない。
「白石に」
「何を?」
「乱した」
「違う」
即答だった。
周りの視線がさらに刺さる。
白石は一度だけ息を吸った。
「乱したんじゃない。……なんか、なくなった」
白石は自分の言葉に眉を寄せた。
「違う。そうじゃなくて」
周りが静かになる。
そんなつもりはなかった、と言うのは簡単だ。
そんなつもりはない。
喉まで出た。
でも、出したら今の白石の変な言い方まで塗る。
「白石」
「何」
「俺は」
続きが出ない。
言い訳なら出せる。
出せるものほど、今はいらなかった。
「……悪い」
白石の目が細くなる。
あ、と思った。
またやった。
白石はすぐには何も言わなかった。代わりに、右手を握って、ほどく。
「それ、やめて」
声は小さい。
でも実技室の中で、妙にはっきり聞こえた。
「何でも謝れば、こっちが黙ると思ってるところ」
言ったあとで、白石の顔が少し固まった。
言いすぎた、とは口にしない。
でも、右手だけがまた袖に触れた。
先生の靴先が動く。
でも、そこで止まった。
端末だけが、さっきの波形を保存している。画面の端に《記録保持》と出て、すぐ消えた。
白石はそれを見た。
そして、俺を見ないまま言った。
「もう一回」
「白石」
「もう一回やる」
「先生が止めた」
「だから、許可を取る」
白石は城崎先生を見る。
「もう一度お願いします」
先生はすぐに答えなかった。
実技室の空気が少し詰まる。
「今日はやめておけ」
「できます」
「できるかどうかではない」
白石の指が、制服の袖をつかんだ。
それは一瞬だった。すぐに戻した。誰にも見せたくなかったみたいに。
「……分かりました」
返事はきれいだった。
きれいすぎて、痛かった。
実技はそこで終わった。
白石は片付けをして、俺より先に実技室を出た。
追いかけようとして、足が床に貼りついた。
何も分からないまま立っていると、城崎先生が端末を閉じた。
「神代」
「はい」
「お前の初動適性は高い。相手の変化を拾うのも早い」
「……はい」
「だが、拾ったあとが悪い」
先生は俺を見た。
「相手の揺れを埋めるな。揺れも記録の一部だ」
その言葉が、すぐには入ってこなかった。
白石の「なくなった」が、端末の黒い画面に映った。
廊下に出ると、白石の姿はもうなかった。
でも耳の奥には、まだあの嫌な音が残っていた。




