アルスの誤算
「アルス様っ、お待ち下さいませっ」
回廊を独り歩いていたアルスは、覚えのある声に振り返った。
思った通り、ビアンカ・オルシーニだ。
彼女は自分で一番魅力的だと思っている微笑を浮かべながら、歩み寄ってきた。
「こんな時刻にどちらに行かれますの?」
「いや……」
マリーアがいると小耳に挟んで書庫に行くところだとはとても言えない。
アルスは居心地悪く視線を泳がせながら、擦り寄ってくるビアンカから距離をとった。
「オルシーニ嬢」
「まぁ、なんて他人行儀な。いつものようにビアンカとお呼び下さいませ」
アルスの強張った声音を無視して、ビアンカは甘ったるく訴える。女の武器をこれでもかと見せつける胸元の開いたドレスにも何も感じていないアルスに、ビアンカは業を煮やしたように一歩詰め寄った。
「アルス様、こんなところで立ち話もなんですわ。私のお部屋かアルス様のお部屋でゆっくりお話しませんこと? 最近あまり二人きりで過ごしておりませんわ」
「我々の関係はもう終わったことだ。貴女も納得した筈だろう」
声を殺してそう言ったアルスに、ビアンカは艶やかな笑い声を上げた。
「あら、そうでしたかしら?」
「……そうだっ」
「覚えておりませんわ」
しれっと答えたビアンカにアルスは歯噛みした。
愛妾は結婚とは異なり、一種の職業といっていい。他国ではともかくエンキでは、本人の意思に反して上に立つ者が無理強いするといった形はないのだ。
例えば隣国パンセでは先々代の皇帝ジークが、美しいと評判の女性はそれが臣下の妻であっても次々と召し上げて我が物としたため、人心が離れ国力を落とす要因となった。
その時エンキでは、欲に負けて国を傾けたジーク皇帝を哂う声が広がったという。
嫌がる相手に権力をもって男女の仲を求めるのはエレガントではないので、エンキ人の美意識にそぐわないのである。
アルスの愛妾達は互いに納得ずくで関係を持った女性達だ。
関係が厭になったり、他の男に気持ちが動いたら、彼女達の方からも関係をやめることが出来る自由な立場なのだ。
セレス・カレッタ子爵夫人とエレナ・ハシュフォード伯爵夫人は、貴族の縁戚にあたるので、それぞれカレッタ子爵夫人とハシュフォード伯爵夫人という空いていた称号を与え、高額な報酬を月々支給した。
ビアンカ・オルシーニは二人と違って庶民階級なので、もう少し低い称号のラトレル子爵夫人の名を与える予定だったが、アルスの結婚によって時機を失し、代わりに多額な報酬を上乗せして与えたのだ。
その三人と関係を清算することにしたのは、マリーアが大公妃として得る年金を使って、長い間放置されていた懸案を解決すべく働いていると聞いたのが大きかった。
マリーアに対して意地を張るためだけに、もう気持ちのない愛妾達に毎月多額の予算を計上するのは愚かさの極みだ。
マリーアに心を奪われている以上、他の女性とベッドを共にすることなど出来ないし、彼女達がそれに怒ってマリーアを嘲弄するのも赦し難い。
そう考えたアルスは、三人の愛妾達に、関係を結ぶ時に約束した手切れ金を渡して、全てを清算した。
アルスの気持ちが離れたことを察していたセレス・カレッタ子爵夫人とエレナ・ハシュフォード伯爵夫人は、あっさりと納得して自分の領地に戻ったが、ビアンカだけはそれでは足りないと主張して、他にも新しいドレスや宝石を要求した。
他の二人にもしていないし、与える義理はなかったが、長引くよりはと思って言う通りにしたのが悪かったらしい。
もっと引き出せると考えたのか、ビアンカはそれらを受け取った後も城に残り続けていたのだ。
彼女が居座っている部屋は厳密にはもう彼女のものではないのだが、お構いなしだった。
勿論、アルスとしてはこれ以上するつもりはないが、一時的とはいえ関係を繋いだ女性を邪魔者のように追い払うことも男としては出来ず、やむなく放置している結果となっていた。
だが、今になってビアンカが絡んでくると、必要以上にしてやっただけに苛立ちが募り、アルスは目を眇めた。
「オルシーニ嬢。あまり我が儘を言わない方がいい。充分以上の物は渡しただろう」
「……」
「我々の関係が終わったことも、他人にあれこれ噂されるのが厭だと言うから他言はしていない。誰にも知られないうちに新しい生活を始めたいと言っていたのはどうなっている?」
「そんなこと、別にどうでもいいじゃありませんか。それに、そんなに四角四面に考えなくても、少しくらい二人で過ごしてもいいでしょう?」
「まさかっ。何故今更そんなことを言い出すんだ? だいたい関係が終わったと他人に言わないのは、我々が今もまだ続いているふりをするってことではないんだぞ。舞踏会でもマリーアに突っ掛かるような態度をとっていたが、そういうのもやめるんだ」
「さぁ……どうしましょう。彼女がそんなに大事ですの?」
「貴女には関係ないっ」
一瞬詰まったアルスに、ビアンカの目が険を孕んだ。
「私やっぱり考え直すべきだと思っていますの。私達とても上手くいっていましたわ。何も別れる必要はないんじゃないかしら?」
「何を言っているっ!?」
本気で怒りを覚えたアルスに、ビアンカは肉感的な唇を誘うように尖らせる。
「覚えているでしょう? 私の身体をアルス様はとても気に入ってらしたわ。あんな貧弱なスパルタス女より、私の方があなたを悦ばせることが出来ましてよ?」
「やめろっ」
「……そんなに怒らなくてもいいでしょう? 本当のことですわ。思い出してご覧なさいな。ベッドでの私を……豊かで感じやすい胸の膨らみを……魅力的な腰のくびれのなめらかな手触りを……」
アルスは口を閉ざそうとしないビアンカの左腕を思わず掴んで引き寄せた。
その瞬間、思いもよらないことに、ビアンカが右腕をアルスの首に巻きつけて唇を重ねてきたのだ。
驚きと女に乱暴を振るうわけにはいかないという本能で固まっているアルスに、ビアンカは胸を押し付けながら抱きつき、チュッという音をたててすぐに離れた。
それ以上長ければ、いくら女でも突き飛ばされると感じたのだろう。
現にアルスの手は今にも彼女を突き飛ばそうとするかのように上がっていた。
「あなたが彼女に気兼ねして私と別れるなんておかしいでしょう、アルス様? だって、このエンキで誰よりも高いところにいるのがアルス様ですのに」
アルスは濡れた唇をぐいっと拳で拭って、ビアンカを睨みつけた。
「私には政治向きの話はよくわかりませんけれど、スパルタスだってエンキのことに口出しする筋合いはないと思いますわ。ベッドでアルス様をお慰めすることも出来ない氷のような女に、操を立てろなんて言えないでしょう?」
「黙れ。彼女に対して何故そんなに敵意を持つ? 今更別れたくないとはどういうつもりだ? 俺を愛しているなんて戯言は言うなよ?」
「まあ。アルス様ったら、私の気持ちを信じて下さいませんの?」
ビアンカは歌うようにうそぶく。
「ビアンカっ」
アルスが思わず名を呼ぶと、彼女は驚いたように一瞬目を見開いてから、小さく微笑んだ。




